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梅田孝太「現代新書のタネ❻自殺してはいけない ——ショーペンハウアーとともに考える」(『群像』)/梅田孝太『今を生きる思想 ショーペンハウアー』/渋井哲也『ルポ自殺』

☆mediopos2886  2022.10.12

ほんとうに久しぶりに
ショーペンハウアーの名を目にした
「自殺してはいけない」という記事である

ちょうど同著者(梅田孝太)の
『ショーペンハウアー』という新書も
同じ講談社からでたところなので
その記事はその紹介という意味もあったようだ

ショーペンハウアーといえば
『意志と表象としての世界』であり
「意志の否定」である
欲望を否定し求道する仏教者のような哲学

そのイメージが強くあったのだが
梅田孝太の解説によれば
ショーペンハウアーは晩年になり
〈処世の哲学〉を説いたという
それは「この世を堂々と生き抜く」ということ

「人生は苦しみ」であるとしても
それを生き抜いていかねばならない
そうした苦悩や葛藤から自由になるためには
「内面の富」に目を向ける必要がある

「より多くの欲望を持たすことではなく、
むしろなるべく欲望を鎮め、心の平穏を得」る
ということである

そのための哲学が
ショーペンハウアーの哲学だというのだが
「処世」といいつつも
ほとんど仏教者的なスタンスであることに
変わりはなさそうだ

問題は果たして
その〈求道の哲学〉と〈処世の哲学〉で
この日本の「生きづらさ」からくるだろう
「自殺(願望)」や「反出生主義」などから
救済され得るのかどうかだ

個人的にいうならば
逆説的にいって「なぜ自殺しないのか」といえば
「きわめて面倒だからだ」というのが大きな理由である

生まれてきたのも生きているのも面倒ではあるのだが
あえて自殺するほうがもっと面倒だという感覚がある

生きていて面倒なことがいろいろあると
死にたいというよりは「消えたい」と思ったりもするが
長年いろいろ霊学的なことを学んでいき
それが実感となってくると
自殺がいかに霊的に面倒なことになるのかがよくわかるし
「消える」ことなどできはしないのも言うまでもない

決して「生き抜こう」というような
積極的な姿勢で生きていることがなくても
そしてたとえどんなに「生きづらく」ても
そのほうがまだ面倒さが少なくて済むということだ

しかしこうした面倒回避による自殺防止というのは
そこそこ長くのらりくらりと生きている結果
身についてきたいわば「処世」であって
昨今の若年層の自殺には
そんな生き方は役に立ちそうもない
ましてやショーペンハウアーのような
仏教的なスタンスはあまり役に立ちそうもない

「自殺してはいけない」というのは
戦争の最中に「殺してはいけない」と
戦場で叫んでいるようなものだからだ

しかしどうもショーペンハウアーというと
こうしたかなりネガティブスタンスが戻ってくるが
「〜してはいけない」というのは
それを「外」から強く働きかけることでは
むしろそれを助長してしまうところがある

必要なのは身心ともに
「外」と「内」のバランスをいかに保つか
そのためにはなにが必要なのかを模索することなのだろう
それを「中」ということもできるが
それもまた仏教的な観点だったりするのだが
仏教的になるとポジティブさへと
向かいにくいのはどうしてなのだろう
やはり「解脱」指向になってしまうからかもしれない

■梅田孝太「現代新書のタネ❻自殺してはいけない
         ————ショーペンハウアーとともに考える」
 (『群像 2022年 11 月号』講談社 2022/10 所収)
■梅田孝太『今を生きる思想 ショーペンハウアー/
           欲望にまみれた世界を生き抜く』
 (講談社現代新書 講談社 2022/9)
■渋井哲也『ルポ自殺/生きづらさの先にあるのか』
 (河出新書 河出書房新社 2022/8)

(梅田孝太「現代新書のタネ❻自殺してはいけない」より)

「若者の自殺という社会問題に、多くの人が関心を寄せている。大学で学生に興味のある社会問題を尋ねてみると、一定数の学生がやはりこの問題を身近に感じているという。一五歳から三九歳の死亡原因の一位は自殺である(厚生労働省「令和3年版自殺対策の白書」)。なぜ将来のある若者たちが、自ら命を絶つのか。」

「この問題には、現代社会の生きづらさが顕著に表れているように思う。わたしたちは社会生活を送っていく間に、解決の糸口が見えず、希望さえ見出せないいくつもの難問に直面させられる。未解決の諸問題が心にひっかかり続ける居心地の悪さは、いつしか漠然とした負の感情に変わり、自分や他人を傷つけてしまいかねないほどに鬱積していく。」

「こうした状況にあるとき、大抵の人はメンタルヘルスの問題としてとらえ、カウンセラーやセラピストに頼るべきだと考えるだろう。もちろんこれは病的状態に陥っているときには非常に有効な手立ての一つである。最近ではずいぶん気軽に利用できるようになってきていて、その傾向は歓迎すべきことだと思う。
 だが、いかに優秀なカウンセラーといえども、人生問題や社会問題をはじめとするいわゆる「答えのない問い」を一緒に考えてくれるわけではない。病的状態にあるわけではないが、心の中を整理したい、自分で考えるための手がかりがほしい、そういう方々のためにもう一つの選択肢を提示しておきたい。それが哲学である。
 哲学とは、漠然とした不安やモヤモヤを腑分けして、一つ一つ問いの形に落とし込み、悩みの種を学びの種に変換する知的な営みである。」

「生きづらさに満ちた時代を生きる現代人に、ショーペンハウアーの哲学はうってつけのものだと言える。」

「私の理解では、ショーペンハウアー哲学には二つの側面がある。
 一つは、主著『意志と表象としての世界』で開示された、ショーペンハウアーの中心思想だ。欲望にまみれた世界を超え出ていくような、〈求道の哲学〉の側面である。
 これに対して、晩年の『余録と補遺(パレルガ・ウント・パラリポメナ)』で開示されたのが、この世を堂々と生き抜く〈処世の哲学〉の側面である。
(・・・)
 九月の講談社現代新書から刊行された拙著『ショーペンハウアー 欲望にまみれた世界を生き抜く』で伝えたかったのは、ショーペンハウアー哲学の二つの側面をあわせて理解することで、その魅力が何倍にもなるということである。「人生は苦しみだ」としながらも、強く「生き抜く」思想になっている。この点を強調するのが、他に類を見ない拙著のショーペンハウアー理解の特徴である。
 第一章では、ショーペンハウアーがまぜ「生きることは苦しみである」と考えるようになったのかが、その哲学者としての出発とその後の生涯を追う。第二章では、主著『意志と表象としての世界』の内容をなるべくわかりやすく提示したつもりだ。上で述べた「本当の救済」が気になった方には、ぜひこの部分を読んでもらいたい。第三章では『余録と補遺』の全体像を示し、とりわけショーペンハウアーの幸福論を抽出した。そして、第四章では、明治期のショーペンハウアー受容や反出生主義の問題について取り上げ、ショーペンハウアー哲学のアクチュアリティを論じている。
 私の考えでは、〈求道の哲学〉と〈処世の哲学〉の二側面が両立するからこそ、ショーペンハウアー哲学は面白い。」

(梅田孝太 『今を生きる思想 ショーペンハウアー』〜「第二章 悲惨な生と「意志の否定」より)

「「意志の否定」とは、ショーペンハウアー哲学がたどり着いた究極的な「認識」である。その「認識」は、自分の他人も生きることに同じように苦しんでいるという直観にもとづくものである。これは、自他の区別という認識主観の枠組みを取り除いた、純粋な「意志」の現象についての直観である。すなわち、「意志」が自らを「客観化」することで生じていた「マーヤーのヴェール」が取り払われ、個体を生かそうとする動機であることをやめて、「意志」が「意志」そのものを純粋に自己認識するに至るのである。そうして、他なるものもまた、実は自らと同じく苦しんでいる「意志」なのであるということ、まさに「汝がそれである」という真なる認識が成立する。またその認識が、何かをしたいと欲するいっさいの意欲を否定し、「生きようとする意志」を根本的に鎮静化するものとなったときに、はじめて完成に至る。それが完全なる「意志の否定」の境地である。」

「無尽蔵に湧き続ける欲望を肯定し、より多くの満足感を手に入れようと努力し続けること————わたしたちの日常は、こうした「意志の肯定」という生き方一色である。だが、出口がないもののように思える日常を、すなわち「マーヤーのヴェール」を超出したところにショーペンハウアーは真理を求め、意志からの自由という希望を見出したのだ。」

(梅田孝太 『今を生きる思想 ショーペンハウアー』〜「第三章 人生いかに生きるべきか」より)

「あるひとがいかなる内面的性質をもっているのかが、幸・不幸を隔てる最も重要な要素となる。これをショーペンハウアーは「内面の富」と呼んでいる。」

「ショーペンハウアーにとって幸福とは、より多くの欲望を持たすことではなく、むしろなるべく欲望を鎮め、心の平穏を得ることだった。そのために、次から次へと欲望を掻き立てる「外面の富」よりも、もともと備わっている「内面の富」に目を向けるべきなのである。」

「『幸福について』に最もよく表現されている晩年のショーペンハウアーの思想は、〈処世の哲学〉として特徴づけることができるだろう。若き日の〈求道の哲学〉は、俗世を逃れて「意志の否定」という無の境地を彼方に元値、身を賭して完全なる自己放棄を目指す、求道の哲学だった。これに対して晩年の〈処世の哲学〉は、「意志の否定」という真なる認識をあらゆる物事に応用し、もはや欲望に惑わされることなく堂々と俗世を闊歩する、老練なる処世術なのである。」

(渋井哲也『ルポ自殺/生きづらさの先にあるのか』〜「はじめに」より)

「日本の自殺者数のピークはいくつかある。戦後の混乱期と、1980年代後半の低成長期。そしてバブル崩壊後だ。私が新聞社を辞めた1988年、警察庁での統計で年間自殺者がはじめて3万人代を突破した。前年比で、8500人近く増加した。女性は約1900人増加したが、男性は6600人増えた。
(・・・)
 私はこの頃、取材を通じて、「生きづらさ」という言葉を知った。摂食障害を煩っている女性を取材した。その女性は「私って、生きづらさ系だよね」と言っていた。
(・・・)
 1990年の年末、初めて「生きづらさ系」をテーマにしたオフ会を開き、以降、何度も開いた。最大で50人ほどが集まった。〝オフラインとオンラインの交流がうまくいけば、生きやすくなる。言語化することで、悩みを整理できる〟と思っていた。そして取材を繰り返すうち、「自殺未遂」は、次のようなメッセージであると思うようになった。

1、「本当に死にたい」が、なかなか死ねない(慢性的な自殺願望)
 2、自己確認としての自殺願望・自殺未遂(自分が生きていることを確認する行為)
 3、「死にたい」というよりは「消えたい」(もともと生きていなかったことにしたい、周囲の人の記憶かた消え去りたいという意味が込められている)
 4、「死にたい」というよりは「眠り続けたい」(目を覚ましたくないというもの)
 5、「死にたい」というよりは、リセット願望(別の人間になりたいというもの)
 6、精神疾患などの病気による自殺衝動(病気の症状としての自殺企図)
 7、生きるとは何かを問い続けた結果としての哲学的な意味の表現

これは大筋では今でも同じ考えだ。しかし、自殺の背景要因はいくつもの要素が絡む。

(・・・)

先ほどの7項目に、

8、自尊感情や居場所を奪われた結果の自殺企図
 9、急なプレッシャーに襲われたときの回避行動
 10、政治的なメッセージとしての自殺行動

の3項目を付け加えることができる。」

(渋井哲也『ルポ自殺/生きづらさの先にあるのか』〜「おわりに」より)

「1998年から年間自殺者が3万人を越えたと同時に、私は「自殺」をテーマにした取材を始めた。この頃はバブル経済崩壊による不景気が失業率を高めただけであり、経済が回復さえすれば、特に増えすぎた中高年男性の自殺者数が減ると思っていた。
 しかし、経済が回復することなく、当初は「失われた10年」と呼ばれ、ついには回復しないまま、「失われた30年」を迎えた。ただ、2011年の東日本大震災以降、年間自殺者数は減少傾向をたどり、年間の自殺者は2万人台になった。経済成長はしない中ではあるが、自殺者数が減り続けた。なぜこの時期に自殺率が減ったかは十分に検証されていない。
 ただ、小中学生の自殺者は増加傾向だ。ツイッターなどでのSNSでは、毎日のように「死にたい」などの言葉が溢れかえり、動画配信しながらの自殺も、珍しくない。
 いずれにせよ、今後も「死にたい」人や、また、自死遺族の取材も続けるだろう。亡くなった人が存在したこと、その死から何かを教訓を得てほしいという遺族や周辺の人の思いはある。そして何よりも、亡くなった人の存在を記録し続けたいというのが私の思いでもある。」

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