見出し画像

上野修『スピノザ考 人間ならざる思考へ』/『風の谷のナウシカ 7』/シモーヌ・ヴェイユ『重力と恩寵』/『ブレードランナー 2049』

☆mediopos3560(2024.8.18)

『スピノザ全集』(岩波書店/2022年-)の編者
上野修によるスピノザに関する論考集である
ここ三〇年ほどのあいだに書かれたものだそうだが
テーマは「人間ならざる思考」としてのスピノザ

そのなかから序章と終章そして第12章をとりあげる

序章では『風の谷のナウシカ』(コミックス版)
終章では映画「ブレードランナー2049」をモチーフとし
第一二章ではスピノザとシモーヌ・ヴェイユに共通する
「酷薄の哲学」がとりあげられている

まず序章
なぜ『スピノザ考』が
『風の谷のナウシカ』からはじまっているのか・・・

とりあげられているのはアニメ版ではなく
コミックス版とくに第7巻である
(『風の谷のナウシカ 7』については
mediopos-3036(2023.3.11)でもとりあげている)

アニメ版では「ナウシカは、愚かしい人間と自然を和解させるために、
神々しい「王蟲」のまなざしの中で自らを犠牲として差し出す。
そして大地とのきずなが再び結ばれ・・・・・・」
というストーリーだが
コミックスではこうなっている

「浄化する自然であったはずの「腐海」も「王蟲」も、
実は旧世界の人間たちの企てた
「汚染した大地と生物をすべてとりかえる計画」の
産物であることが判明する」
「彼らも「腐海」も、浄化の暁には役目を終えて亡び、
正常な自然と正常な人間たちがそれに交代する」
その秘密を突き止めたナウシカは
「「おだやかな種族」となるはずの未来人類の
「卵」もろとも殲滅するために」
「再生計画の指令装置「墓所の王」へと赴く」・・・・・・

「浄化の自然はそこにはない。
美しくも残酷な神=自然があるだけだ。
それは『エチカ』を強く思わせる。」
というのである

「ナウシカの道はスピノザの
「自然の権利はその力の及ぶところまで及ぶ」を思わせる」

「彼女の決断は亡びの美学とも、自然回帰とも関係がない。
コミックスの最終部で、彼女は人々に対して「嘘」をつき、
一つの真実を隠す。それは、われわれに未来を約束する
自然など存在してはいなかったという真実である」

「彼女の肩にそっと手をおくスピノザが見える。
彼らとともに、正しく「生き亡ぶ」ことを考えること」

『エチカ』と『風の谷のナウシカ』が描く世界が交差する・・・
ここから「人間ならざる思考」である
スピノザについての論考がはじまっている

第12章ではスピノザとシモーヌ・ヴェイユに共通する
「「情け容赦のない必然」を自由の条件と考える思考」が語られる

ヴェイユは「酷薄な必然は個人についてみればこの上なく辛苦である。
だが「宇宙の必然」を愛するとき、
人はそうした辛苦から解き放たれる」といい
スピノザもまた「われわれは理解する限り、
必然的なもの以外は何も欲求できず、
要するに真なるものにしか満足できない」という

スピノザは決定論ではなく必然主義である
「スピノザはそうした現実を、それ自身の必然性によって存在する
「神ないし自然」と考えていた。」
「神は自己原因と言われるまさにその意味で、
すべての事物の原因であるとも言われなければならない」
「事物の必然性がわれわれを行動のほんとうの場所、
現実に引き戻し、決定論と自由をめぐるあらゆる弁証法の
「神学」からわれわれを自由にするのである。」という

ヴェイユの『重力と恩寵』には「真空」という言葉が頻出するが
「自分の内部にこの真空を持ち堪えるとき、
われわれはもはや希望も恐れもなしにこの現実の一部となる」といい
ヴェイユはそれを真の意味での「恩寵」であると理解していた

そのような「酷薄の哲学」という点において
「快活で幾何学のように静謐なスピノザ」と
「身をよじるように苦難のイエスに惹かれるヴェイユ」という
一番対照的に見える二人は一致している!というのである

そして終章

スピノザの世界では「モノとその真理」だけが残り
神の似姿としての「人間」が消え
「人間ならざるものの思考へと導かれる」

「「考える私」は消去されはしない」
「むしろわれわれの精神が字義どおり身体の真なる観念、
すなわち恐るべきモノの真理として
神という名の現実の中に存在している」

「だがスピノザによれば、精神は自分がそれであることを知らない。
なぜならその真理を知覚しているのは、
身体の産出と並行して身体観念を帰結する
膨大な数の前提諸観念となった思考、
人間ならざる自然の思考であって、
当の真理である私ではないからである。
われわれは自分を知らない真理なのかもしれない」という

そうして最後に映画「ブレードランナー2049」の
ラストシーンがとりあげられている

「レプリカントのKはつかの間自分が
人間なのかもしれないと信じそうになるが、
やがてその幻想は破られる。」

「そのとき人間ならざるものが彼となり、
Kは自分がずっとそれであったところのレプリカントに、今なる。」

「彼が死を間近にしているとしても、
真理に比べれば大した意味はない。
自分はやはり人間ではなかったということの、
息も詰まるほどの自由。」・・・・

わたしたちはどうなのだろうと考える
わたしたちはじぶんが人間である
という夢を見ているのかもしれない

スピノザの「人間ならざる思考」の前で
人間であるというとは
いったいどういうことなのだろうと考えざるをえなくなる

■上野修『スピノザ考 人間ならざる思考へ』(青土社 2024/5)
■宮崎駿『風の谷のナウシカ 7』(徳間書店 1994/12)
■シモーヌ・ヴェイユ(冨原眞弓訳)『重力と恩寵』(岩波文庫 2017/3)
■ドゥニ・ヴィルヌーヴ (監督)『ブレードランナー 2049』(2018/8)

**(上野修『スピノザ考 人間ならざる思考へ』
   〜「序章にかえて——亡びについて」より)

*「『風の谷のナウシカ』(宮崎駿、徳間書店)を読んだ。劇場アニメではない。コミックスの方である。スピノザの『エチカ』はあんなふうに書かれているけれども、強度を失わない熱いものを、確実に読む者に残る。この作品にも似たものを感じた。

 アニメの少女ナウシカは、愚かしい人間と自然を和解させるために、神々しい「王蟲(オーム)」のまなざしの中で自らを犠牲として差し出す。そして大地とのきずなが再び結ばれ・・・・・・というわけだ。だれもこうした犠牲の魅惑に抗することはできない(ひとりスピノザを別にすれば——ラカン)。だからこそ、この種の崇高はいつも成功するのだろう。

 ところがコミックスのナウシカは違う。浄化する自然であったはずの「腐海」も「王蟲」も、実は旧世界の人間たちの企てた「汚染した大地と生物をすべてとりかえる計画」の産物であることが判明する。現在種族の人間すら汚染に適応するよう改造されていた。彼らも「腐海」も、浄化の暁には役目を終えて亡び、正常な自然と正常な人間たちがそれに交代するだろう。この秘密を突き止めたナウシカは、旧世界を滅ぼした最終兵器「巨神兵」をわが子として引き連れ、再生計画の指令装置「墓所の王」へと赴く————「おだやかな種族」となるはずの未来人類の「卵」もろとも殲滅するために・・・・・・。

  墓所の王 おまえは悪魔として記憶されることになるぞ、
       希望の光を破壊した張本人として!!

  ナウシカ かまわぬ、そなたが光なら光など要らぬ
       巨大な墓や下僕などなくとも
       私達は世界の美しさと残酷さを知ることができる
       私達の神は一枚の葉や一匹の蟲にすら宿っているからだ。

 浄化の自然はそこにはない。美しくも残酷な神=自然があるだけだ。それは『エチカ』を強く思わせる。」

*「一九世紀以降、権力はもはや殺すとは言わなくなった。生には管理と「正常化」が必要である。選に漏れて死ぬ者は仕方がない、と言うのである(フーコー)。われわれの時代のこうした福祉権力の延長線上に、おそらく「墓所の王」(アニメには出てこない)は現れる——「人類の未来」のため、種の滅亡を際限なく先に繰り延べるために。ナウシカは未来の「人類」など信じない。スピノザ的な唯名論者だ。人間とは、かつて、そしていま彼女とともに、たとえおろかであろうと此所にいる人々のことである。もし「人類」の延命のために彼ら一人ひとりの生の尊厳を辱めるぐらいなら、そんな「未来」は要らない。これがナウシカの倫理的な選択だった。

  墓所の王 娘よ、お前は再生への努力を放棄して
       人類を亡びるに任せるというのか?

  ナウシカ その問いはこっけいだ
       私達は腐海と共に生きてきたのだ
       亡びは 私達のくらしのすでに一部になっている

 死を否定し、亡びへの恐れから生を組織する「延命」の論理の眼には、かえって亡びが、そして亡びつつ生きることが、見えない。だが自然が人間たちのために存在しているのではない以上、いずれ亡びの朝は皆にやってくる。

  ナウシカ 私達の身体が人工で作り変えられていても
       生命は生命の力で生きている
       その朝が来るなら私達はその朝に向かって生きよう
       私達は血を吐きつつ
       くり返しくり返しその朝をこえてとぶ鳥だ!!

 亡びを、先送りされた終末としてでなく、個々の生の力能が他の物どもと一緒になって、今しがたこえ、くり返しくり返しこえてしまっている限界として考えること。死ぬような「人類」などいない。くり返し死をみとり死を死ぬ個々の個体だけがある。そのくり返しがどこまで続くのかという問いはこっけいだ。「それはこの星が決めること」・・・・・・。

 ナウシカの道はスピノザの「自然の権利はその力の及ぶところまで及ぶ」を思わせる。彼女の決断は亡びの美学とも、自然回帰とも関係がない。コミックスの最終部で、彼女は人々に対して「嘘」をつき、一つの真実を隠す。それは、われわれに未来を約束する自然など存在してはいなかったという真実である。最後のナウシカの傍白「生きねば・・・・・・」は、この自覚された嘘の重みを背負っている・・・・・・ちょうど『エチカ』の知者が『神学政治論』や『政治論』の重みを背負っているように。ナウシカの背後から、彼女の肩にそっと手をおくスピノザが見える。彼らとともに、正しく「生き亡ぶ」ことを考えること。

**(上野修『スピノザ考 人間ならざる思考へ』
   〜「第12章 シモーヌ・ヴェイユとスピノザ 酷薄の哲学のために」より)

*「喜びの組織化の哲学、スピノザ。とりわけ政治哲学の方面でスピノザがそんなふうに注目され称揚されるたびに、私は当惑を感じてしまう。肝心のスピノザの『政治論』に「喜び」(laetitia)ないし「喜ぶ」(laetari)という言葉の入ったフレーズがほぼ皆無であるというテクスト上の事実はさておくとしても、やはり喜びの哲学という特徴づけだけでは一面的だと思う。私は少し別なイメージをスピノザに持っている。それは酷薄の哲学とも言うべき一面である。

 このことを考えるために、本稿はスピノザにもうひとりの哲学者、シモーヌ・ヴェイユを引き合わせる。よく言われるような「喜び」のスピノザと「不幸論」のヴェイユ、「肯定の哲学」と「自己否定の哲学」、「汎神論者」と「神を待ち望む者」ではいかにも相性が悪く見えるが、なぜか私は二人に共通するものを感じてきた。」

*「二人に共通するものは、「情け容赦のない必然」を自由の条件と考える思考である。「太陽は、正しい者の上にも、正しくない者の上にも照り輝く〔・・・〕神は、みずから必然となっている」。酷薄な必然は個人についてみればこの上なく辛苦である。だが「宇宙の必然」を愛するとき、人はそうした辛苦から解き放たれる、とヴェイユは言っていた。「行動の結果にとらわれないこと。この宿命的なるものから免れていること。どうすればよいか。ある目標のためにではなく。必然によって、行動すること。これ以外のことはできない」。こうした『重力と恩寵』のヴェイユの思考にスピノザの影を見ないことは難しい。スピノザもまた「われわれは理解する限り、必然的なもの以外は何も欲求できず、要するに真なるものにしか満足できない」と言っていた。問題はそれがどうして宿命的なものからの自由ということになるのか、ということだ。」

*「問題になっているのは決定論と必然主義の違いである。決定論は過去から未来にわたって因果的に決定された時間系列の全体を想像の中で思い浮かべる。いま起こっていることは必ず起こるようになっていたし、これから起こることも不可避的に起こる。するとそれに対して、ではわれわれの自由はどうなるのかという問いが必ず手を挙げる。われわれは機械じゃない。決定連鎖に外から介入する自由意志があるではないか。決定論と自由というおなじみの哲学論議でる。ラニョーが、そしてアランが正しく理解していたように、スピノザの必然主義はまさにこうした議論の前提そのものを転覆させるものであった。

 スピノザは想像力が思い描く決定論的な系列を抽象的な時間表象として斥け、同様に、そこに介入する自由意志なるものを幻想として斥けていた。人は、ほかにも可能性はあったのだとか、いやなかったのだとか言う。しかし出来事い先立つあらかじめの可能性などといったものは実在しない。だれもが知っているように今ここでのこの現実以外にいかなる現実も存在しない。そして現実はつねにそれ自身でたった一つに決まる。われわれはこのたった一つの現実を選んではいないし、現実はわれわれが不可避だと思っていた可能性をつねに超えて一つに決まる。スピノザはそうした現実を、それ自身の必然性によって存在する「神ないし自然」と考えていた。現実の外にはだれも出られないように、だれも神の外には出られない。「神のほかにはいかなる実体も与えられずまた考えられない」。そして「神は自己原因と言われるまさにその意味で、すべての事物の原因であるとも言われなければならない」。したがって、「事物の必然性は神の永遠なる本性の必然性そのものである」。このことを正しく認識するかぎり、「われわれのよりよき部分の努力(conatus)は全自然の秩序に一致する。事物の必然性がわれわれを行動のほんとうの場所、現実に引き戻し、決定論と自由をめぐるあらゆる弁証法の「神学」からわれわれを自由にするのである。」

*「アランの飛び抜けて鋭敏な生徒だったヴェイユが、スピノザのこの必然主義の秘密を理解しなかったはずはない、ヴェイユの『重力と恩寵』には「真空」という言葉が頻出する。謎めいた概念だが、スピノザの光に照らせばその意味はおのずと見えてくる。想像力は過去と未来への恐れと希望でいっぱいになっていて、われわれに報酬を求めさせたり復讐を求めさせたりする。しかし、何かほんとうに絶望的なことが生じると、現実の酷薄な必然が姿を現し、真空がつくりだされる。「真空、この暗い夜」。自分の内部にこの真空を持ち堪えるとき、われわれはもはや希望も恐れもなしにこの現実の一部となる。逆説的に聞こえるが、ヴェイユはこれが真の意味での恩寵であると理解していた。」

「多くの人がそう思いたがるようにこれを宗教的な信仰と解してはならない。むしろ必然へのスピノザ的な愛である。「どんな真空でもいい、受け入れるならば、どんな運営の一撃におそわれても、宇宙を愛するのをやめることはあるまい。何ごとが起ころうとも、宇宙は充満していると確信できる」。この確信は、真空を想像的に充たす信仰とは無関係である。「必然はもともと想像的なものとは関係がない」。だから「想像上の天国よりも、実在の地獄の方が望ましいと思わねばならない」とヴェイユは言っていた。」

*「快活で幾何学のように静謐なスピノザ。身をよじるように苦難のイエスに惹かれるヴェイユ。一番対照的に見える二人は、しかし酷薄の哲学という点において一致する。必然的なものだけを欲する者はいかなる苦難にも平気で耐えるであろうとスピノザは言う。それはヴェイユが身につけていた一種の唯物論的な徳と重なる。「最大限の覚悟をするというのは、神の迫りがあるようにと祈ることである。どこへ連れられるかを知ろうとせずに」。ここで言う徳は道徳とは関係がない。スピノザがそう定義していたように一個の力能、一個の力そのものである。それは人間的な想像力の外部からやってこなければならない。」

**(上野修『スピノザ考 人間ならざる思考へ』
    〜「終章にかえて————人間ならざるものに向けて」より)

*「私はモノではないという否認はかくも根深いが。それをあっさりクリアしてしまった哲学者がいる。スピノザである。彼は無神論者よりもさらにおぞましい学説を説く者としてしばしば排斥された。それもわからないではない。なぜならスピノザとともに人間が消えるからである。もっと正確に言えば、ある種の似姿としての「人間」が消える。そしてモノとその真理だけが残る、のである。」

*「スピノザのデカルト批判は心身問題という難問に解決を与えようとする試みだったと言われることがある。結果的には間違いではない。デカルトによれば「思惟するもの」と「延長するもの」は互いに他のものなしに考えることができ、重なるところがない。それゆえ精神と身体はまったく別の独立した二つの実体である。スピノザはというと、彼は他のものなしにそれ自身で考えられうるというデカルトの実体の定義を字義どおりにとり、同じものが思惟と延長のそれぞれで反復的に「実体」と同定されると考える。無限にありうるすべての属性でそのように反復されると考えれば、それは他を持たない唯一かつ無限な実体となるだろう。スピノザの「神ないし自然」である。とすれば延長実体と思惟実体は実は同じもので、それが一方で物理的な無限宇宙に様態化し、同時に他方で無限知性に様態化していると考えることができる。すなわち一方に単純な物体から始まる無数の個体の無限の複合レイヤーがあり、他方にこの秩序と同一の推論シーケンスが無限の思惟としてある。するとわれわれの身体はそうした物理的宇宙の一部としてここに生み出され、われわれの精神は無限知性の中に帰結する身体の真なる観念だということになるだろう。同じ理由ですべてのモノに精神がある。もちろんどの場合も身体と精神は同じものの反復的な二つの表現なので一致する。心身合一とはそういう一致のことである。

『エチカ』の少々壮大すぎり論証には面食らうが、これはこれでよくできた説明だと思う。だが一般にはまったく歓迎されなかった。スピノザの体系はデカルトを法外に激化させ、たしかに何だかわからないものになっている。こうしてスピノザは幾多の無理解と拒絶に遭遇することになるg、その棄却の対象となる核を取り出すことは難しくない。スピノザは「神の似姿」を消滅させる。これがまずいのである。

 デカルトは「我あり」から神の存在を証明するさいこの「似姿」に訴えていた。私はある意味神によってその「像と似姿」(imago & similitudo)にかたどられて造られており、自分自身を捉えるのと同じ能力でそれを捉えるのだと。第三省察のくだりは単なるレトリックではない。デカルトにとって似姿は、私が神と同じく「考えるもの」であってモノではない証なのである。スピノザが消滅させるのはこの「似姿」にhかならない。(・・・)スピノザの神は何にも似ていない実体であり。人間はその無数の様態の一つにすぎない。それらすべてに真理があり精神があるなら、どうしてわれわれだけが神に似て精神であることなどあれよう。

 こうしてわれわれは人間ならざるものの思考へと導かれる。「考える私」は消去されはしない。むしろわれわれの精神が字義どおり身体の真なる観念、すなわち恐るべきモノの真理として神という名の現実の中に存在している。だがスピノザによれば、精神は自分がそれであることを知らない。なぜならその真理を知覚しているのは、身体の産出と並行して身体観念を帰結する膨大な数の前提諸観念となった思考、人間ならざる自然の思考であって、当の真理である私ではないからである。われわれは自分を知らない真理なのかもしれない。スピノザはいつもそのことを思い出させてくれる。」

*「さて私がもしそうした恐るべきモノの真理であるならば、まさに真理があったところ、そこに「私」がやって来なければならない。これが『エチカ』の倫理である。そのために必要なのは認識をおいて他にない。まず、われわれはそれがどういうことなのかは知らなくても、身体に合一していることは間違いなく知っている。数ある物体のなかでなぜかこの物体だけに変状を感じ、いわばこの物体の真理であることを直に生きているからである。(それは身体の観念を経由しないと自然は身体の変状の真なる観念を帰結できないからだとスピノザは説明していた。)そしてモノに共通の法則的認識。それによってわれわれは自分の身体すら物理的対象の一つとして見ることができる。こうした表象知、科学知に加えて、最後に直観知というばき第三種の認識がある。それは『エチカ』のような公理的手法を用いて私がそれでなければならない存在論的な真理を同定し、見えないその真理に証明を通じて同一化する道である。『神、そして人間とその幸福についての短論文』のスピノザはそれを神との合一と考えていた。生きられた心身合一を、認識によって「神あるいは自然」との合一にシフトする。リアリティは何一つ失わずに。そうやって、まさに真理があったところ、そこに「私」がやって来なければならない。」

*「私は人間である前にモノであり、その真理である。こういう人間ならざるものの思考にふれるとき、私は映画「ブレードランナー2049」のラストシーンを思い出さずにはおれない。レプリカントのKはつかの間自分が人間なのかもしれないと信じそうになるが、やがてその幻想は破られる。天より降り来たる雪の中、傷ついて横たわりながらKは初めて見るかのようにじぶんのからだに触れ、眺める。それが彼であり、彼はその真理である。そのとき人間ならざるものが彼となり、Kは自分がずっとそれであったところのレプリカントに、今なる。そこで彼が死を間近にしているとしても、真理に比べれば大した意味はない。自分はやはり人間ではなかったということの、息も詰まるほどの自由。喜びも悲しみも、人間になるという一縷の希望も、決して追いつくことのできない自由。「人間」はモノとしての脳がわれわれに見させる一貫した夢かもしれない。夢の中にいてもスピノザに倣ってそう考える自由はある。

**(宮崎駿『風の谷のナウシカ 7』より)

 ナウシカ
「絶望の時代に
 理想と使命感から
 お前がつくられたことは疑わない
 その人達はなぜ気づかなかったのだろう
 清浄と汚濁こそ生命だということに
 苦しみや悲劇やおろかさは
 清浄な世界でもなくなりはしない
 それは人間の一部だから・・・・・・
 あわれなヒドラ
 お前だっていきものなのに
 浄化の神としてつくられたために
 生きるとは何か知ることもなく
 最もみにくい者になってしまった」

 ヒドラ
「人類はわたしなしには亡びる
 お前達はその朝をこえることはできない」

 ナウシカ
「それはこの星がきめること
 ・・・・・・」

 ヒドラ
「お前は危険な闇だ
 生命は光だ!!」

 ナウシカ
「ちがう
 いのちは
 闇の中の
 またたく光だ!!」

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?