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永井玲衣「世界の適切な保存 ⑲書けない」 (群像 2023年11月号)

☆mediopos3261  2023.10.22

話すということ
書くということ

個人的にいえば
それらが自明だったことはない
その背後にはつねに
「話せない」「話したくない」
「書けない」「書きたくない」
がある

「話したいこと」
「書きたいこと」が
ほんとうにあるのだろうか
という自問自答があるのはいうまでもないが

それはそれとして
「話す」こと
「書く」ことは
どうしても嘘になるということがある

言葉を換えれば
ほんとうに話すはずのこと
ほんとうに書くはずのことが
話すとき書くときには
地上に投げ落とされ映された影のように
変換され死んだ標本のようになってしまう

だからじぶんが話したこと書いたことを
遅延して追いかけながら
それらの死屍累々に目を蔽うことにもなる

話せなくなるのでも
書けなくなるのでもなく
吃音になったりするのでもなく
こうしてわりと坦々と書いていたりもするのだが
それらの「世界の適切な保存」が
できたと思えたためしがない

もともと
話すこと
書くことが
好きだと思えたこともあまりない
なぜそんなことをするのか
しなければならないのかと・・・
今もそうだ

話したこと
書いたことは
「私が」話したにもかかわらず
「私が」書いたにもかかわらず
その主体はNOBODYであって
そこにはつねに
超えられない「隔たり」があるからでもある

それゆえにこそだが
ネット(最初はパソコン通信)で
こうした「作文のお稽古」を
避けることのできない日課のように
続けているのだともいえる

その「隔たり」が
超えられることはあるのだろうかと
どこかで願い
ひょっとしたら
ほんとうに話したいこと
ほんとうに書きたいことが
どこかにあるのではないかとも思いながら・・・

■永井玲衣「世界の適切な保存 ⑲書けない」
 (群像 2023年11月号)

「書けない。

 机に向かう。手が止まる。言葉が止まる。机から離れて、皿を洗ってみたり、街を歩いてみたりする。言葉が何も出てこない。次の仕事の時間になってしまう。対話の場をひらき「ゆっくり考えましょう」などと参加者に言ってはみるものの、どこか上の空だ。一瞬たりとも、書けない原稿のことを忘れることができない。ずっと心にひっかかっている。
 帰宅して机に向かう。身体がぐったり疲れている。何ひとつ、出てこないような気がして絶望する。吐き気と頭痛がしてきて、もしかして自分はコロナかもしれないと思う。とにかく指をうごめかせて、言葉を画面に叩きつけてみる。打ち込んで、打ち込んで、打ち込んで、どれもこれもうわすべっていくようで、消してしまう。」

「だが、書けないとはどういう体験なのか。単に思いつかないとか、やる気が出ないとか、そういう問題ではないのだ。それに、何かの経験に似ているような気がする。でも思い出せない。」

「動かない体を何とか動かし、言葉を打ち込んでえみても、それは適切な世界の保存には失敗している。世界はもう死んでいる。それは釣ってから時間の経った魚のように、ぐたりとして、生臭く、みじめで虚ろだ。」

「そもそも何かを表現するということは、遅延することだ。言いよどむことによって、わたしたちはつねに遅れる。ずれる。
 しかし書けないときは、もっと悪い状態に陥っている。ただ遅れるだけではない。し損じるのだ。やっとのことで言葉を絞り出しても、それによって現れた世界は、信じがたいほどに光を失っている。息絶え、変色し、腐臭を放っている。
 だから文豪たちは、書く前からわかってしまうのではないか。自分が今からつかまえる言葉が、生み出される前から、とっくにもう鮮度を失っていることを。書きたいことはあるのに、書くべきことはあるのに、それが出てこない。適切な仕方で表現されない。出てきたとしても、もう遅すぎるのだ。(・・・)
 書けないときほど、言葉は鈍くなる。重くなる。だから消してしまう。また筆が吃ってしまう。書きたいことはあるのに。複雑な感情が沸き起こり、わたしを隅々まで満たす。焦りもする。罪を感じさえする。」

「書けないときの向きあい方は、やはり吃音への向きあい方と似ていると言えるかもしれない。言い換える、意図的にずらし、リズムに乗る、うまくやろうとしないことによってうまくやる。伊藤亜紗『どもる体』(医学書院)にはヒントが多く書かれており、そのまま書けない経験にスライドさせることが可能だと感じる。
 話していると、言葉が出なくなる予感がすることがある。ああ、くるぞ、くるぞ、くるぞ、と思いながら、口は止まらずに動きつづける。特定の言葉をよけたり、ぴょんとジャンプするようにして、別の言葉を持ってくる。体はびっくりして、そのままつるりよ話せてしまう。体をうまく裏切り、乗り切ることに成功したのだ。
 書くときもまた、あえて書こうとしていることではないことを書いてみることで、筆を吃らせないようにすることがある。だがこれもまた難しい。『どもる体』にもあるように、これは対処法でもあるが、吃音の症状でもあるという。助けられると感じることもあれば、それ自体を避けたいと考えるひともいる。たしかに、書けないときもまた、それによって筆がすべりだしてくれることもあれば、息絶えた現実を描き出してしまうこともある。つくづく、むずかしい。

 だが、いきなり人前で話すことができるように、書くことができるようになる瞬間がある。この一瞬のきらめきを、待つしかない。」

「伊藤亜紗によれば、吃音とは心身二元論を前提としており、うまくいかない体と、それにもだえる心に分けられる。田山花袋が言う「悪魔」がそれかもしれない。悪魔とは他者のことだ。書けないときわたしたちには、動かない自分の肉体がまるで他者のように感じられる。
 にもかかわらず、時は突然おとずれる。この偶然性に左右されることがまた、ままならなさを生んでいく。「筆が手と心とともに走る」。まさに二元論である。肉体としての手も、心も、そして言葉も共に駆ける。駆け抜ける。なんという疾走感だろう。このままどこまででも書くことができるような錯覚さえおぼえる。それがまた、うらめしい。

 『どもる体』で当事者としてインタビューを受けている高嶺格は、自分の吃音体験を「間違って、言葉じゃなく肉体が伝わってしまった」と表現している。詩的で、手のhらサイズで、よくわかる表現だ。吃っているときひとは、ままならない肉体を表現してしまっている。それは、受け手にとっても「伝わる」、この姿もまた、たしかな表現そのものなのだ。」

「吃音が出ることによって、現実は腐敗せず、むしろより「適切に」伝わる。おそろしいまでの鮮度をもって、その困惑した肉体と共に、駆け抜ける。
 言い淀んだり、詰まったり、失ったり。止まったり、よけたり、連発したり、たしかにそうやってままならなさを生きることによって、むしろようやくわたしたちは何かを言い当てることができる。どうしようもなく切実で、言いたくて、でも言えないことを、つぶやくことができる。
 こうして現実は、不自由さによって照り返される。はたして「話せる」とは一体何なんか。言い当てられるとはどういうことなのか。「書ける」って本当なのか。こうしてまたわからなくなって、筆が止まる。」

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