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ルドルフ・シュタイナー『ヨハネ福音書講義』/山田晶『中世哲学講義(第四巻)』/安藤礼二「空海/第七章「最澄」」

☆mediopos2946  2022.12.11

ヨハネ福音書では
他の福音書とは異なって
イエスを「ロゴス」と呼んでいる

「ロゴス」は「ことば」でもあるが
他の福音書で使われるのは
「ロゴス」ではない「ことば」である

シュタイナーによれば
「ロゴス」は霊的に初めに存在した
「ことば」である「神」であり
世界の始まりから存在していたが
人間は「内なる体験を外に向かって響かせ、
言葉を発することのできる人間」へと進化したという

ヨハネ福音書では「太陽ロゴス」が
ナザレのイエスの身体に受肉したことがことが語られ
「開悟を通して人間の中に輝くことのできた太陽ロゴス、
聖霊、宇宙自我は、それから三年間、
イエスの身体から語り続けた」という

ここで重要なのは
「ロゴスが肉となった」ということである
そのことによって
わたしたち人間も進化の過程のなかで
ロゴスを身体化する可能性が生まれることとなった

そのヨハネ福音書における「ロゴス=ことば」は
空海における「真言」と通底しているようだ

なぜ空海の密教は「真言」なのか
それは最澄の「天台」との比較において
その意味が明らかになるところがある

空海は自らの教えを
「顕」とは異なった「密」である
「真言」の教えであるとする
それに対して最澄は
自らの教えを「法華」であるとする

空海も最澄も『大日経』において説かれている
「久遠」の本仏である
「法身としての毘盧遮那如来」を求め
そのために最澄は空海に
「真言」の教えを受けることを望み
空海もそれに応えようとするのだが

最澄が求めていた「法華」は
人間的な釈尊を「久遠」の本仏と一体のものとし
「人間的な釈尊の覚りへと到達するための止観の業と、
超人間的な毘盧遮那そのものとなる曼荼羅の業、
遮那の業の双方」を必要とし
そのために空海に対し『大日経』を求めた

空海にとっての「真言」は、
「時間と空間に限定された応身」としての
「人間的な釈尊ではなく、超人間的な法身が自発的に、
自らの悦びとともに説いたものでなければならなかった」

「空海にとって『大日経』は、
『法華経』を完成させるものではな」く
「そこからさらに彼方へと抜け出ていくための土台」であり
「この生身の身体をもったまま
法身そのものとなる方法説いた『金剛頂経』」とともに
読まれなければならないという立場だったのである

空海の「密」としての「真言」は
「ことば」としての「ロゴス」であり
それによって法身となろうとするものであり
それによって釈尊の仏教の彼方へと向かおうとしたが
それに対し最澄の「顕」としての「法華」は
「ことば」としての「ロゴス」を仰ぎながらも
人間としての釈尊の覚りを求めるものに留まっていた

キリスト教の聖書のなかに他の聖書とは異質な
「ロゴス」ということばが使われるヨハネ文書があるのは
「太陽ロゴス」そのものが受肉し
それが人間進化に深く関わっているというように
法身・報身・応身の秘儀の公開が
そのまま福音書として説かれているからだろう
つまり密教文書が福音書に加わっているのだ

「真言」よりも理解しがたいところがあるのは
法身である太陽ロゴス(ある意味で毘盧遮那仏)である
「真言」そのものが歴史的身体として肉化し
さらにそれが死後復活変容し
それが公開されているということだ

ともあれその「ロゴス」である「ことば」の種は
わたしたち人間の内で進化の途上にある

おそらく真の詩人はその「ことば」を
みずからの内に紡ぎながら
「外に響かせ」ようとしているのではないか

■ルドルフ・シュタイナー(高橋巌訳)
 『ヨハネ福音書講義』(春秋社 1997/12)
■山田晶(水田英実編集)
 『中世哲学講義: 昭和53年―55年度 (第四巻)』(知泉書館 2022/9)
■安藤礼二「空海/連載九回/第七章「最澄」」
 (『群像』 2023年 01 月号 講談社 2022/12 所収)

(シュタイナー『ヨハネ福音書講義』より)

「唯物論の影響を受けた神学者にとっては、ヨハネ福音書の冒頭から困難が生じます。「ロゴス」または「言葉」という言葉が、困難を生じさせるのです。」

「理論的な説明や抽象的な概念規定をしてみても、ロゴスを理解することにはなりません。ロゴ死について語った人びとの感情生活の中に身を置くことができなければなりません。」

「ロゴスの教えを信じる人は、人間が今日の姿をとり、自分の内なる体験を言葉として外に響かせるようになる以前に、別の長い時代があったし、我われの地球が今日の姿を獲得するのにも、長い時の経過が必要だった、と説きました。
 (・・・)かつて、人間がまだ今日の形姿を持たず、自分の体験を内から外へ向けて鳴り響かせることのなかった時代もありました。私たちの世界は、沈黙した状態から始まったのです。そして遂に、内なる体験を外に向かって響かせ、言葉を発することのできる人間たちが地上に現れました。とはいえ、もっとも遅くなってから人間に現れた言葉は、世界の始まりに、すでに存在していたのです。ロゴスの教えの信奉者はどう考えていました。
 今日の姿をした人間は、かつての地球にはまだ存在していませんでしたが、人間は、不完全な、沈黙した存在から、次第にロゴスもしくは言葉を発する存在にまで進化したのです。人間がそこまで進化できたのは、彼のもとで最後に現れた創造の原理が、高次の現実について、初めから存在していたからなのです。人間が魂の中から苦労して取り出したものは、太初における神の創造的な原理だったのです。魂から鳴り響く言葉は、太初にすでに存在していました。そしてその言葉=ロゴスが進化を導いて、最後には、みずからを言葉で表現することのできる存在を生ぜしめたのです。
 時間的、空間的に最後に現れたものは、霊的には初めに存在したのです。」

「古代のロゴス思想を認識する人は、このようにして、存在の根元である、造物主の言葉にまで到るのです。ヨハネ福音書の作者は、そのことを冒頭で示しているのです。彼が冒頭で語る言葉に耳を傾けてみましょう。

  太初に言葉があった。そして言葉は神のもとにあり、言葉は神であった。」

(山田晶『中世哲学講義 第四巻』〜昭和53年度前期 第一章「ヨハネ伝の序文(一)」より)

「一 ヨハネによる福音の巻頭には、次のように述べられている。

 (一)初めにロゴスがあった。ロゴスは神と共にあった。ロゴスは神であった。

(・・・)

四(一四) そしてロゴスは肉と成り、わたしたちのうちに宿った。」

「五 (・・・)イエス自身を「ロゴス」であるという言明は、『ヨハネ伝』以外の三つの福音書のうちには見出されない。」

「九 (・・・)イエスを「ロゴス」であるとする言明は、『ヨハネ伝』序文と、『ヨハネ第一書』および、ヨハネの『黙示録』の上記の箇所にあらわれ、またそこにのみあらわれる。それはただヨハネによってのみ用いられ、他の聖書記者によっては全然用いられていない。」

(山田晶『中世哲学講義 第四巻』〜昭和53年度前期 第二章「ヨハネ伝の序文(二)」より)

「一〇 福音書においては、さまざまな名がイエスに帰せられているが、そのなかでヨハネ伝序文にあらわれる「ロゴス」という名称は、他のすべての名称に対し全く独自な意味を有している。」

「一一 イエスは自分自身を「人の子」と呼ぶ。(・・・)イエスが、自分自身を「人の子」と呼ぶとき、それは彼が、単なる幻影や幽霊ではなく、神話の英雄でもなく、哲学者のえがく人間の理想像でもなく、まさしく文字通り「人間の」「子」であること、すなわち、現在においても地図の上にその位置を指定することのできるパレスチナのガリラヤのナザレの町に、大工ヨセフスを父とし、マリアを母として生まれた、生きた肉と血を持つ人間の子であることを意味している。」

「一三 当時のさまざまの人々から、「人の子」イエスに着せられた名称として、福音書には次のようなものがあげられている。「神の子羊」、「神の子」、「ダビデの子」、「キリスト」、「メシア」、「救い主」(或いは、「救世主」)、「預言者」、「ユダヤ人の王」、「イスラエルの王」。

(山田晶『中世哲学講義 第四巻』〜昭和53年度前期 第三章「イエスに帰せられる名称(一)」より)

「ヨハネ伝序文においてイエスに帰せられる「ロゴス」という名称の独自性は、これを福音書において彼に帰せられている他のいくつかの名称との比較において考察されるとき、いっそう明瞭となるであろう。それらの名称はイスラエル民族、特に当時パレスチナに住んでいたユダヤ人の特殊な宗教的伝統と、当時の歴史的現実的状況を顧慮することによって、はじめてその意味が理解されてくるものである。」

(山田晶『中世哲学講義 第四巻』〜昭和53年度後期 第一〇章「預言者における「ことば」の意味(四)」より)

「九一 預言者とは、イスラエルの民の中から特別に神に召され、神から「ことば」を告知され、その神から受けた「ことば」を民に伝えるために、民を呼び集め、彼らにその「ことば」を告げ知らせる人である。その意味で彼は神から「ことば」を預かる人であり、その意味で彼は「預言者」といわれるのがふさわしい。」

(安藤礼二「空海/第七章「最澄」」より)

「空海が、文字通り空海となるためには、つまりは自身の教えを「顕」とは異なった「密」の教え、「真言」の教えであると主張できるようになるためには、最澄との出会いと別れが必要であった。まったく同じことが最澄にもいえる。最澄が、自身の教えを「法華」であると主張できるようになるためには、空海との出会いと別れが必要であった。
 ただし、最澄は、その生涯の最後に至るまで、「顕」の教えと「密」の教えは同等であり、互いに相補わなければならないと主張し続けた。」

「最澄と空海、二人がともに求めていたものは法身としての毘盧遮那如来の在り方を正面から説いた『大日経』において一つに重なり合うものだった。最澄もまた、その探求のはじまりから法身、毘盧遮那仏を「久遠」の本仏として求め続けていたのだ。だからこそ、空海から「真言」の教えを受けることを望み、空海もまたその望みに応えたのである。より正確に述べれば、応えようとしたのである。
 しかしながら、最澄が求めた毘盧遮那仏、「久遠」の本仏は、人間的な釈尊、迹仏としての釈尊、ゴータマ・シッダッタと不二一体のものであった。人間的な釈尊を通して、「久遠」の法身が、「久遠」の法を語るのである。それが『法華経』のもつ基本構造である。「本」である毘盧遮那は、「迹」————その顕れにして、そこから「本」への到達することができる痕跡————としての釈尊そのものであらねばならなかった。「迹」と「本」は異なっていながらも同一のもの、「即」によって一つに結ばれ合うものなのである。それが隋の時代に中華の「天台」を大成した智顕およびその後継者たちによる『法華経』解釈の要点であり、最澄は智顕たちによるそうした『法華経』理解。『法華経』は大きく迹門と本門からなるというその理解を、いわば極限まで展開しようとしたのだ。『法華経』を真に理解し、それを生きるためには、人間的な釈尊の覚りへと到達するための止観の業と、超人間的な毘盧遮那そのものとなる曼荼羅の業、遮那の業の双方が必要なのである。智顕による『摩訶止観』を読み、同時に、善無畏と一行による『大日経』を読まなければならない。最澄は、自らのもとに集まった弟子たちにそのような義務を課した。そのことが、この列島において「天台」が認められ、独立するための条件でもあった。」

「最澄は、止観の業に一つの完成を与えるために遮那の業を、いまここで、あらためて求めなければならなかった。『法華経』の理解に一つの完成を与えるために『大日経』を求めなければならなかった。それゆえに、最澄は空海を訪ねたのだ。空海が十全な形でこの列島にもたらした「真言」の教えを弟子として受けるために。
 しかし、その点こそが、あるいはその点のみが、空海にとっては最も受け入れがたいものであった。空海にとっての「真言」とは、人間的な釈尊ではなく、超人間的な法身が自発的に、自らの悦びとともに説いたものでなければならなかったからだ。空海にとって、人間的な釈尊とは、時間と空間の制限を乗り越えた法身ではなく、時間と空間に限定された応身に過ぎなかった。つまり、空海にとって『法華経』は、応身としての釈尊、あるいはその釈尊の痕跡を残した報身としての毘盧遮那仏が説いたものに過ぎなかった。法身が説いたものではないのである。法身が説いた教えは、書物を介して、人間的な言葉を介してではなく、身体を介して、曼荼羅という如来の超人間的な身体そのものを介して、直接的に、性の交わりを遂げるようにして、理解されなければならなかった。「真言」とは、如来の言葉であるとともに如来の身体でもあった。その在り方は、人間的な言葉だけでは伝えられないのである。
 つまり、空海にとって『大日経』は、『法華経』を完成させるものではなかった。そこからさらに彼方へと抜け出ていくための土台であった。『大日経』の彼方には、法身そのものの発生、その発生に重なり合うことで、この生身の身体をもったまま法身そのものとなる方法を説いた『金剛頂経』と総称される一群の経が存在していたのである。『法華経』とともに『大日経』を読むのではなく、『大日経』は『金剛頂経』とともに読まれなければならない。それが空海の立場であった。」

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