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菊地浩平『人形と人間のあいだ』/四谷シモン『人形作家』/唐十郎編集『季刊 月下の一群 創刊号 特集:人形 魔性の肌』

☆mediopos2876  2022.10.2

「人形と人間のあいだ」というテーマで
本日10月2日からNHKラジオ(第2放送)
「こころをよむ」の放送がはじまる
(12月まで全13回)

人形をメインテーマとしたこうした放送は
珍しいのでとりあげてみることに

人形といえば
いちばん古い記憶では(小学校に入った頃)
くまのぬいぐるみ抱いて寝ていたことがある
ライナスの毛布のようなものだ

ライナスはチャーリー・ブラウンのでてくる
「ピーナッツ」という漫画に登場する男の子で
いつもお気に入りの毛布を引きずって歩いている
いわゆる「安心毛布」だ

ひとは多かれ少なかれ
また子どもか大人かを問わず
じぶんを投影させたなにかを
じぶんの外にもっている

極論をいえば「じぶん」というのは
じぶんの外にある世界のことでもあるから
その外にある世界に
じぶんの分身を置こうとして
それが「人形」というかたちをとる

その「人形」はさまざまなかたちをとるが
人形は漢字で「ひとがた」と書くように
日本における人形は
病気や天災を祓うための儀式・お祭りに使う
紙などで出来た「ひとがた」が最初のようだ

そのようにじぶんの願いなどの思いを
じぶんの外に分身として投影させて
それにさまざまな役割をさせようとする
そしてそれに愛情を注ぐこともあれば
そうしいぇ投影したものを恐れたりもする

「人形供養」といった儀式があるのも
じぶんのいちぶである分身の「魂」を
供養(四大霊の解放でもある)しないと
それらが「浮かばれない」と感じるからだろう

愛着をもって使っていた「もの」を
それが壊れてしまったからといって
廃棄することに抵抗を覚えるのも
そうした「供養」につながる感覚だと思われる

ちなみに「人形と人間のあいだ」
ということですぐに思い出したのは
四谷シモンのこと

四谷シモンのことをはじめて知ったのは
唐十郎編集の『季刊 月下の一群 創刊号』(1976年)で
(結局この雑誌は2号までしか刊行されなかったが)
その特集「人形 魔性の肌」だった
それ以来ぼくのなかでは「人形」といえば
四谷シモンであり唐十郎の怪しい世界となった感がある

その四谷シモンには自伝的な著作『人形作家』があり
そこで四谷シモンは
「人形は自分で自分は人形という、
自己愛と人形愛の重ね合わせ」だとしている

人形を作ることを教えていると
同じ教材を与えていても
「全員の作品にその人の「自分」が出ている」という
もちろんそれは人形づくりだけのことではないのだろうが
とくに人形という「ひとがた」をつくろうとすると
そこに自己愛が注ぎ込まれることになるのだろう

さてそんな「人形」のことについて
久々あれこれと思いをめぐらしてみて
あらためて思ったのは
いまのじぶんにとっての「安心毛布」のことだ

現代でいえば
自分の分身たる「アバター」に象徴されるのだろうが
見えるもの見えないものにかぎらず
投影することで安心しようとしているもののことを
しっかりと見てみる必要がありそうだ

■菊地浩平『人形と人間のあいだ』
 (NHKテキスト こころをよむ NHK出版 2022/9)
■四谷シモン『人形作家』
 (講談社現代新書 講談社 2002/11)
■唐十郎編集『季刊 月下の一群 創刊号 特集:人形 魔性の肌』
 (海潮社 1976/5)

(菊地浩平『人形と人間のあいだ』〜「はじめに」より)

「わたしは今現在、大学で人形文化の研究をしています。ここでいう人形文化とは、人形が登場する儀式やお祭り、人形劇、着ぐるみ、ぬいぐるみ、着せ替え人形からデジタル化された画面の向こうの「人形もどき」までを含む、広義の人形たちが織り成す文化的営みを指します。」
「本書では可能なかぎりいろいろなタイプの人形に触れていきます。呪いのわら人形や人形劇、ぬいぐるみといったよく知られたものから、もしかしたら皆さんにはあまり耳なじみのないような最新テクノロジーと強く結び付いた「人形もどき」まで、扱う対象は非常に幅広いです。もしかしたら、そんなものも人形文化の範疇に入るのかと思われる方もいるかもしれません。しかしそれは人形文化の可能性を知っていただくための、なるべくたくさんの方に興味を持っていただくための、わたしなりの工夫ですので、ぜひこの機会に新たな世界の扉を開いていただければ幸いです。」

(菊地浩平『人形と人間のあいだ』〜「第1回 人形とは何だろうか」より)

「人形は漢字で、「ひとのかたち」と書きます。病気や天災を祓うための儀式や、お祭りに使う紙などで出来たものは「ひとがた」と呼ばれることもあり、今でも各地で使われています。これが日本における人形のご先祖様といって良いと思います。
 一方で、テクノロジーが発達したことによって最近は人形の定義が広がってきているようにも思います。」

「病や災厄を祓うためにひとがたを利用するのは珍しいことではなく、キャラクターのぬいぐるみにそうした願いを込めるという行為もそう的外れではありません。人形研究家の山田徳兵衛は、(・・・)ぬいぐるみの「先輩」である這子(ほうこ)や天児(あまがつ)にもそれに類する機能があったと述べています。
(・・・)
 ここで興味深いのは、当初「誕生の魔除け」であった這子や天児が、やがて子どもの「おもちゃ」になったという部分です。元々どんな願いが込められたものであろうとも、ひとたびおもちゃになってしまえば、撫でられたり噛まれたり振り回されちぎられる運命が待っています。
 しかしそこからまた、子どもが成長して家を出たりすることになると、おもちゃは残された者たちにとって特別な意味合いを帯びるはずです。そうした人形の特別さ、神聖さ、親しみやすさ、儚さが混ざり合い常にそのバランスがうつろい続ける性質が今日まで引き継がれているからこそ、〈マスク地蔵〉のような存在が生まれたのではないでしょうか。」

「皆さんは「人形供養」をご存じでしょうか。
 人形供養とは、全国津々浦々の寺社で実施されている儀式で、大まかな流れとしては、人形の魂を抜いたのち一定の手順を踏んで供養をするというものです。人形文化研究者のひとりとして、わたしも機会があれば様々な土地に出向いて、参加するようにしています。
(・・・)
 人形供養は簡単にいえば人形版のお葬式です。お葬式が死者のためだけでなく、残された人たちにとっての重要な区切りでもあるように、供養には、未来へ一歩踏み出そうとする人たちの祈りが捧げられています。なので、遊び半分で見学に行くことは許されない場所ですが、同時に人形と人間のディープで複雑な関係のエッセンスが凝縮された、実に興味深い儀式だともいえます。」

(菊地浩平『人形と人間のあいだ』〜「第2回 わら人形は、なぜこわいのか」より)

「わら人形と聞くと多くの人が思い浮かべるのが丑の刻参りではないでしょうか。」

「わら人形は十分〝現役〟の存在です。最近では、二〇一七年が〝あたり年〟だったといって良いと思います。東京国立博物館で「マジカル・アジア」と題した展示に、上野公園で一八七七(明治一〇)年に発見されたわら人形が展示され、話題となりました。わたしも見にいきましたが、透明のケースに入れられていても、背筋がぞっとするような感覚を覚えた記憶があります。
 また、わら人形が関わる事件が、二〇一七年一月だけで二件もニュースになりました。」

「このような事例は、一見非科学的に思えるような存在や事象を信じたり感じたりする力が、われわれの世界から完全には消えていない証拠です。「呪」は〝まじない〟とも読みます。地方によっては、コミュニティーの守り神の役割を果たす巨大なわら人形を山道にこしらえる習慣が今もありますが、そこに託されるのはしばしば五穀豊穣や無病息災といった極めて素朴で切実な祈りに他なりません。同じわら人形でも、これらは呪いより〝まじない〟の道具として利用されていることがわかります。」

「こうしたエピソードから分かるのは、前近代的、非科学的だといわれようと、呪いやまじないは、今日においても世界のあらゆる場所にひそんでいて、われわれは案外、それに左右されてしまうということです。」

(菊地浩平『人形と人間のあいだ』〜「第13回 なぜ人形について考えるのか」より)

「人形をなんとなくこわいものと捉えている方は多くいらっしゃいます。わたしが普段接している大学生も、日本人形やくるみ割り人形、ぬいぐるみ、着ぐるみ、ロボットなど、様々な人形をこわいといっています。
 彼らになぜこわいのかと聞いてみると、単純に顔の造形などの見た目が苦手という意見もある一方で、元々大切にしていた人形を粗末に扱ってしまった、壊してしまった、八つ当たりしてしまったなどの経験から来る罪悪感でこわく感じる、という意見がよく出てきます。」

(四谷シモン『人形作家』より)

「二十数年間人形を作ることを教えていて、すべての生徒にいえることがひとつあります。同じ教材を与えているのに、よくぞここまでその人のニュアンスが出てくるものだということです。全員の作品にその人の「自分」が出ているのです。それを見ていると、人という生き物はこんなにも自分自身から逃れれらない自己愛の強い存在なのだなと感じます。
 人形は具体的なものですから、表現に個が出やすいということはあります。料理や花のいけ方などにもその人の個性は出ますが、いかんせん人形はヒトガタですから、明快に個性が露出するのです。人形には作者本人に似るなにかがどうしてもでてしまうものなのです。
 そんなことを考えているうちに、逃れきれない自己愛、ナルシシズムが誰にでもあるならば、あえてそれをテーマにして意図的に作品化しようと思い立ちました。人形というのは自分自身であり、分離しているようでしていないという作為的、幻想的な考え方をするようになったのです。
 こうして生まれた「ナルシシズム」「ピグマリオニスム・ナルシシズム」などの作品は、絵画や写真のセルフポートレイトとは少し違っていますが、おそらく「これも僕です」といえるものなのではないかと思っています。
 「人形は人形である」というところから出発しましたが、人形は自分で自分は人形という、自己愛と人形愛の重ね合わせが現段階での僕の考え方です。」

◎菊地浩平『人形と人間のあいだ』《目次》

第1回 人形とは何だろうか
第2回 わら人形は、なぜこわいのか
第3回 動員された人形劇
第4回 なぜ、テレビは人形を必要としたのか(前編)
第5回 なぜ、テレビは人形を必要としたのか(後編)
第6回 着ぐるみ学入門
第7回 大人たちはぬいぐるみを捨てるべきか
第8回 人形愛はアップデートできるか
第9回 リカちゃん、現代〈いま〉を生きる
第10回 初音ミクになぜ「がんばれ」と声をかけるのか
第11回 アバターと生きるこの世界
第12回 アンドロイドに尊厳はあるか
第13回 なぜ人形について考えるのか

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