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大山顕「撮るあなたを撮るわたしを」 (群像 2022年 07 月号) /藤井 貞和『物語論』

☆mediopos2772  2022.6.20

私は見ている自分を見る

それは
単純な「私は」という一人称でも
もちろん「あなたは」という二人称でも
「彼/彼女は」という三人称でもない

「私」をふくんだ三人称のような
「私は」であり
「私たちは」である

藤井貞和は「物語論」のなかで
「三人称の人物が
本人の一人称的視点とかさなるような場合を、
三人称から四人称へすすめる必要があるのではないか」
ということで「四人称」という概念を提唱している

大山顕によればその「四人称」は
撮影者自身も写っている
スマホ本体が見えるスマホ越し写真のようなものだ
取られる対象と撮る自分は区別できない

考えてみれば
「私は語る」と一人称的に語る際にも
そこにみずからの語る視点が意識されるとき
それは「私は「私は語る」を語る」というように
「語る」自分が三人称的に対象化されているともいえる

それで思い出すのは
入沢康夫の詩集『「月」そのほかの詩』(一九七七年)に
収められている「私は書く(ある校訂記録)」という詩だ
(これはぼくが生まれて初めて買った思い出深い詩集だ)

 私は 私は と書いてしばらくペンを休め と書き 私は
 それを二本の縦線で消し と私は と私は 書きかけてや
 め やめという字を黒く塗りつぶしてから と書いて 海
 は と私は書き つづけて 黄いろくて と書こうとする
 ・・・

というふうに続いていく詩なのだが
このときの詩を書いている人称は
どんな人称なのかといえば
単純な一人称ではない

そもそもこの詩そのものの語り手という視座があり
語り手は作者そのものではないから
語り手とは別に作者はいるが
その作者は作品上の作者ということであり
生きている作者そのものではない

じつは大学のころそうした
文学作品におけるコミュニケーション構造なるものを
受容者(読者)もふくめていろいろ考えていたことがある

社会的な構造は別として考えて
テクスト内的な構造だけを考えても
作品の語り手というのは
それそのものが表現されているかどうかは別としても
さまざまに重層化されている
上記の詩にはそのことが詩のかたちで表現されている

そうしたことに興味をもったのは
小さな頃から学校で作文を書く必要があるとき
「ぼくは」という一人称が
そのまま一人称ではありえないにもかかわらず
「素直に思ったことをそのまま書きなさい」
と言われたとき以来
猛烈に感じ続けていた違和感からなのだろう

「ぼくは」と書こうが
「ぼくは」を消して三人称的に書こうが
そこに亡霊のように付きまとっている
上記でいえば「四人称」が気になって
「書く」ということに嫌悪感しか感じなかった

いまこうして書いていても
「書いている自分を見ている」視点は
亡霊のように消えることはない

 ぼくは ぼくは と書きかけてやめ
 四人称は と書いて その字を見て
 しばらく考えこんだまま ・・・・・・・・

という感じになるのだ
と書いているじぶんを意識して
と書いて
いったいじぶんが何が書きたいのだろう
と書いて
これでおしまいにしようと思う
と書き・・・

■大山 顕「撮るあなたを撮るわたしを 3.スマホ越し写真と四人称のリアル」
 (群像 2022年 07 月号/講談社 2022/6 所収)
■藤井 貞和『物語論』
 (講談社学術文庫 講談社 2022/6)

(大山 顕「撮るあなたを撮るわたしを」より)

「詩人で日本文学者の藤井貞和は著書『物語論講義』の中で、物語における「四人称」というたいへん魅力的な概念を提唱している。藤井によると、アイヌ語では叙事詩などが語られる際に、物語中の語り手は一人称とも三人称とも違う人称で自叙する。それは話し相手そも含む人称構造をとっていて、藤井はこれを「四人称」と名付けている。語り手の人称と登場するキャラクターが同じ人称で語られるというのは、まさにTPVゲームの人称であり、スマホ越し写真の「スクリーン的リアル」そのものではないか。「四人称」は、アイヌ語以外にも世界中で見られるという。おそらく語り手を世界から分離し、主客を厳然と分ける「ファインダー的」な人称は絶対的なものではない。ぼくらは見ている自分を見ることができるのだ。

 藤井は「四人称」を応用できる例として『源氏物語』の場面を挙げている。それは若紫の巻で、紫上を覗き見る光源氏の様子を語り手(地の文)が三人称で描くと同時に、その光源氏が見ている紫上の姿を光源氏の一人称で叙述しているというものだ。現在のふつうの人称記述作法からすると混乱している。これに対して藤井は、「三人称の人物が本人の一人称的視点とかさなるような場合を、三人称から四人称へすすめる必要があるのではないか」と述べるのだ。興味深いには、このような「視線が一人称となって語られるさまは、かいま見の場面によくあること」だという指摘だ。つまり見ている人を見ると、その視線に憑依しがち、ということである。カメラアプリのプレビュー画面を撮る写真にそっくりだ。

 見ている人を見る写真や映像は、さまざまな場面で見られる。コンサートを収録した映像もそのひとつだ。You Tubeなどでここ十年ぐらいのものを見ると、ステージに向かってスマホを掲げるオーディエンスたちの姿が印象的に映されている。九〇年代以前のコンサート映像と比べると、かなり意識的に観客を映している。スマホによって、ファンが楽しんでいる様子が明確になった。ロックコンサートなら、かつてはこぶしやメロイック・サイン(人差し指と小指を立てたサイン)を掲げた者だったが、」現在ではそれがスマホになったわけだ。以前なら会場での撮影は菌視されることが多かったが、現在は許可するコンサートが増えた。撮影することもまたコンサートにおける重要な楽しみであり、スマホがたくさん掲げられることは盛り上がりの証だ、薄暗い観客席に、無数のスマホのスクリーンの灯りがまるでイルミネーションのように輝く様子は、それだけで映える。映像収録スタッフも、それを撮ることによって臨場感が伝わると考えているようだ、コロナ禍で、多くのコンサートが無観客でオンライン映像配信を行ったが、どうしても盛り上がりに欠ける。それは映像や音響の問題ではなく、自分以外のファンの姿を見ることができないからだ、「リアル」において重要なのは舞台ではなく観客席の方だ。見ている人とそれを見ている自分との境界があいまいになったとき「臨場感」が生まれる。臨場感の正体とは「四人称」である。」

「映画を早回しで観ることの根本には、より大きな問題が潜んでいる。それは「一人で観ている」ことだ。映画館で観る映像は早回しやスキップができない。なぜか。それは映画館でかかる映画はみんなものだからだ。映画館でなくても、二人以上で観る映画は早回しやスキップができない。そもそも映画を一人で観るようになったことの方に問題があるのだ。

 リュミエール兄弟が世界最初の実写映画を上映したのは、グラン・カフェ地階のサロンだった。彼らが「映画の父」と呼ばれるゆえんは、大勢がいるところで上映したからだ。リュミエール兄弟の発明以前の映像装置に、トーマス・エジソンが開発したキネトスコープがあった。これは、のぞき穴に目を当てて見るもので、一人用の装置だった。リュミエールきょうだいんは「ファインダー」から「スクリーン」に映像を移行させたのだ。そこに彼らの天才性があった。

 映画とは「観ている人を観る」「観ている自分を自分を見る」体験だった。映画は「四人称」だったのだ。倍速視聴とは、つまり「リアル」な「臨場感」が映画から失われたことの結果なのである。」

(藤井 貞和『物語論』 より)

「アイヌ語に出てくる四人称は、日常語だと、
  ●包括的一人称複数 (・・・)(話あいてを含む)われわれ
  ●二人称複数 (・・・)あなた(女性から成人男子へ)
  ●不定称 (・・・)(不特定の)人、もの、だれか、何か
および
  ●引用の一人称
において発現する人称である。その四人称が物語世界にあって登場人物の一人一人が自分を指す場合に使われる。つまり、
  散文説話(ウエペケレ、昔語り)
  英雄叙事詩(ユカラなど)
の語り手の「私」は、四人称であらわされる。登場人物たちになり代わって語り手が語る自叙は、日本語で言うなら〝だれ〟という人称で語られる。日本語の、みども、それがし、なにがしなど、すべてもともとアイヌ語とおなじ〝四人称〟として発生してきたのだろう。

 まとめると、主人公たちが、
  みずからを語り、あるいはみずからの視野で思ったり、見たりする語り
を「四人称を持たない、諸言語」(欧米語、日本語など)の場合には、一人称で表現されると認定されるとし、それに対して、主人公たちが、
  みずからを語り、あるいはみずからの視野で思ったり、見たりする語り
を、もしアイヌ語のように包括的一人称複数か、あるいは引用の一人称か、一人称でない人称で表現するならば、それを四人称と認定しようと思う。物語世界の表現に四人称を持つ言語(アイヌ語)が世界諸言語のうちにあることをふまえ、あくまで物語の文法の範囲ということで、必要な場合に〝四人称〟を立てることにした。」

■藤井 貞和『物語論』【目次】

I 物語理論の進入点
1講 ものがたり と ふること
2講 うたとは何か
3講 うたの詩学
4講 語り手を導きいれる

II 物語理論の基底と拡大
5講 神話から歴史へ
6講 神話的思考
7講 語り物を聴く
8講 口承文学とは何か
9講 昔話の性格
10講 アイヌ語という言語の物語

III 物語理論の水面と移動
11講 物語人称
12講 作者の隠れ方
13講 談話からの物語の発生
14講 物語時称
15講 テクスト作りと現代語訳

IV 物語理論の思想像
16講 『源氏物語』と婚姻規制
17講 物語と精神分析
18講 構造主義のかなたへ

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