谷川俊太郎・ブレイディみかこ・奥村門土(絵)『その世とこの世』/文 谷川俊太郎・絵 合田 里美『ぼく』
☆mediopos3298 2023.11.28
岩波書店の雑誌『図書』連載「言葉のほとり」
(二〇二二年三月号〜二〇二三年八月号)に
奥村門土(モンドくん)による描きおろしの挿画が
加えられ書籍化されている
「この世」の「向こう」に目を凝らす詩人と
「この世」の「現場」から世界を見つめるライターとが
一年半にわたり詩と手紙を交わしあう・・・
本書のタイトルは『その世とこの世』
「その世」という表現は
本書の谷川俊太郎の詩ではじめて目にしたが
たしかに「その世」は
「この世」と「あの世」のあわいにあるのだろう
この世と違って静かだが
あの世のように沈黙のなかにあるのでもない
そしてそこでは「音楽」が「統べている」・・・
ブレイディみかこによれば
英語には「あの」と「その」に区別はないが
あえて表せばsomewhere in betweenであり
「中動態」のようだという
音楽をはじめとしたあるきっかけで
そんな「その世」に
導かれることはたしかにある
ブレイディみかこは少し前に
少女小説の中で
中学生の主人公とその友人が話し合う場面で
そんな感覚について書いたという
「それはここではない世界で、
自分が本来いるべき場所っていうか、
行ったこともないのになぜか知っている場所・・・・・・」
ブレイディみかこが「その世」の詩を読み
「もう一つ強烈に想起させられたのは、
谷川さんの絵本『ぼく』」だったという
その絵本は
「なぜか ここに いたくなくなって」
「ぼくはしんだ じぶんでしんだ」
という少年が描かれている
それは自殺という逃避ではあるとしても
ふつう表しているであろうような暗さではなく
「ぼくは じぶんをいきる」という
不思議な明るさを感じさせられさえする
少年は「この世」から「あの世」へではなく
「その世」へと行こうとしたのかもしれない
少年が「その世」という場所を得ることが
できていたとしたら
実際に死を選ばずに済んだのかもれない・・・
ぼく自身をふりかえっても
かつて死は選びはしなかっただろうけれど
ある種の閉塞状態から
「その世」へと導いてくれたのは
バッハの音楽だったりもしたことがあり
いまでも「その世」を求めて
耳をすましているともいえる
本書での対話が興味深いのは
視点あるいは立ち位置の異なっている
ふたりの「あわい」で成立しているところだろう
「この世」の「向こう」でも「現場」でもない
「言葉のほとり」あるいは「あわい」でのポエジー
■谷川俊太郎・ブレイディみかこ・奥村門土(絵)
『その世とこの世』(岩波書店 2023/11)
■文 谷川俊太郎・絵 合田 里美『ぼく(闇は光の母 3)』
(岩崎書店 2022/1)
(『その世とこの世』〜「その世………谷川俊太郎」より)
「好きな音楽の数小節は好きな女性と並んで、私にとっては人間社会を超えたコスモスと直に触れ合うことのできるほとんど唯一のmediumなんです。〈詩は音楽に恋をする〉というのが私が折に触れて口にする決まり文句の一つです。
その世
この世よあの世のあわいに
その世はある
騒々しいこの世と違って
その世は静かだが
あの世の沈黙に
与していない
風音や波音
雨音や密かな睦言
そして音楽が
この星の大気に恵まれて
耳を受胎し
その世を統べている
とどまることができない
その世のつかの間に
人はこの世を忘れ
知らないあの世を懐かしむ
この世の記憶が
木霊のようにかすかに残るそこで
ヒトは見ない触らない ただ
聴くだけ」
(『その世とこの世』〜「青空………ブレイディみかこ」より)
「「その世」という谷川さんの詩のタイトルを拝見したとき、これ英語でどう言うんだ? とまず思いました。「あの」は「that」、「この」は「this」。では、「その」は?
英語では「その」も「that」なんですよね。つまり、二つしかないのです。
この世(this world)とあの世(that world)のあわいにあるところも、英語ではthat worldになる。あえて英語にすればsomewhere in betweenとなるでしょうか。あいだにあるものを表すのに、「この(this)」「あの(that)と対等な、まったく独立した三番目の言葉が日本語には存在する。これは哲学者の國分功一郎さんの「中動態」みたいで面白いと思いました。
好きな音楽の数小節で、この世ともあの世とも知れない空間に連れて行かれる感じはわたしにもわかります。少し前に書いた少女小説の中に、中学生の主人公とその友人がそんな感覚について話し合う場面を書きました。彼女たちは、ダンスを踊ったり、音楽を聴いたりしていると、唐突に「ああ、これだ」と感じる瞬間が訪れることを不思議に思います。そしてこんなお喋りをするのです。
「『これ』って何だろう」
「・・・・・・それはたぶん、こことは違う世界を指しているんじゃないかな」
「え?」
「たぶん、『これだ』って感じる瞬間だけ、私たちは、その違う世界に行ってるんじゃないかな」
「・・・・・・違う世界って、それ、どこのこと?」
「わからない。わからないけど、それはここではない世界で、自分が本来いるべき場所っていうか、行ったこともないのになぜか知っている場所・・・・・・」
(『両手にトカレフ 』ポプラ社』)」
「「その世」を拝読し、もう一つ強烈に想起させられたのは、谷川さんの絵本『ぼく』でした。(・・・)
実はこの絵本を最初に読んだとき、わたしはさまざまなキーワードでネット検索を行い、英語でもこのような絵本があるのか探してみたのでした。が、見つけることはできませんでした。やはり死を扱っていても、途中で救いが訪れて、最後には明るくハッピーエンドという絵本が主流のようです。
とは言え、わたしは『ぼく』にそこまでの暗さは感じませんでした。むしろ、「その世」感に見ている気がしてなりません。
谷川さんが書かれた言葉もそうですが、登下校する子どもたちや交差点を行き交う人々をじっと見ている半ズボン姿の少年は、まさに「この世とあの世のあわい(somewhere in between)」にいるようで、「この世の記憶が木霊のようにかすかに残る」音を聴いているようです。絵を描かれた合田里美さんの、なんとも言えないブルーのタッチ(ランドセルを背負っているから日本の子どもなのでしょうけど、目が青いんですよね)との相乗効果もあるでしょう。この絵本を危険だと思う人がいるとすれば、それは少年が自死するということより、この「その世」感にわけもなく惹かれてしまうからだと思います。
個人的にハッとしたのは、少年が手に持っていたスノードームの中の宇宙でした。その宇宙の中を少年が漂っている絵があり、次のページでは「なぜか ここに いたくなくなって」という言葉と共に、宇宙を走って逃げている少年が描かれています。」
「それから、驚いたのはこの絵本がさりげなくメタ構造になっているところでした。少年が学校で使っている教科書の中に谷川さんの詩が出てくるからです。谷川さんの詩のタイトルは「いきていて」。絵本全体が「ぼくはしんだ じぶんでしんだ」で終わるのと対照的に、作中詩は「ぼくは じぶんをいきる」で終わります。
「わたしはわたし自身を生きる」というのは(わたしのヒーローである)大正時代のアナキスト、金子文子の有名な言葉ですが、彼女は十三歳のときに朝鮮で川に飛び込んで自死しようとします。でも、飛び込もうとした瞬間に蝉が力強く鳴きはじめたのを聞いて自然の美しさに気づき、死を思いとどまります。『ぼく』の作中詩に出てくる少年も、足元から虫の音のような「いのちのおと」を聞いて、「ぼくはじぶんをいきる」と思いますよね。
死んでしまった『ぼく』の最後のページに拡がっている青空と、死ななかった文子が錦江のほとりで見上げていた青空は繋がっている気がしました。空は、「この」「あの」「その」の三つを繋いでいる珍しいものだと思います。」
□目次
邪気の「あるとない」………ブレイディみかこ
萎れた花束………谷川俊太郎
Flowers in the Dustbin………ブレイディみかこ
その世………谷川俊太郎
青空………ブレイディみかこ
座標………谷川俊太郎
詩とビスケット………ブレイディみかこ
現場………谷川俊太郎
淫らな未来………ブレイディみかこ
気楽な現場………谷川俊太郎
秋には幽霊がよく似合う………ブレイディみかこ
幽霊とお化け………谷川俊太郎
ダンスも孤独もない世界………ブレイディみかこ
父母の書棚から………谷川俊太郎
謎の散りばめ方………ブレイディみかこ
笑いと臍の緒………谷川俊太郎
ウィーンと奈良………ブレイディみかこ
Brief Encounter………谷川俊太郎
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?