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工藤 顕太『ラカンと哲学者たち』/ユング『転移の心理学』

☆mediopos2606  2022.1.4

デカルトは
「私は考えるゆえに私は存在する」
としたが
フロイトは
その「私」にもアクセスできない領域
である無意識という仮説から
精神分析を創造した

無意識からの働きかけを
「私」自身は知ることができないし
それをコントロールすることもできない
ある意味でその無意識は〈他者〉であるともいえる

無意識という〈他者〉からの働きかけによって
病的な症状を呈する者を治療するために
精神分析は患者とのあいだに
無意識に向かい合うための関係をつくりだす

極めて楽観的にいえば
患者がみずからの無意識からの原因に気づき
それを意識化することができれば
治療がなされたことになるのだが
話はそう簡単にはいかない

多くの場合治療にあたっては
無意識を通じ
「転移」といわれる
治療者と患者とのあいだの
強い感情的な結びつきが生まれることになる

フロイトはの治療者と患者のあいだの転移において
「患者から恋愛感情を告白されたり(陽性転移)」
「強い攻撃性を向けられたり(陰性転移)」する経験を
人為的に生み出しながら積極的な原動力にしていくが

実際のところ
たとえば転移性恋愛と恋愛を分けるものは
「それが治療関係のなかで生じたという事実以外には何もない」
治療者はそのことを自覚しながら
みずからの治療者としての場を保っていかなければならない

ユングはみずからも陥ってしまったそんな転移という現象を
魂における錬金術的な個性化の視点へと展開させている

ラカンはフロイトが答えをだせずいいた
「精神分析はいかにして終結するのか?」という問いに対して
「分析主体が分析家を〈他者〉とみなすことをやめ、
自分の無意識について、自分以上に分析家のほうが
何事かを知っていると考えるのをやめるとき、
精神分析は終わりを迎える」とした

もちろん治療関係としては
ある種のバランスシートが必要にはなるだろうが
やはり重要なのは
精神分析を超えたところで
「私」と「他者」を「結合」させ個性化を図る
その永遠のプロセスにほかならないだろう

さてあらためて
「転移」という現象をとらえなおしてみれば
恋愛関係にせよ敵対関係にせよ
私たちは「他者」に向き合うとき
なんらかの「転移」を行っているともいえる

私たちは自らの無意識としての「他者」を
実際に向き合っている「他者」へと投影することで
「欲望」や「快−不快」を感じながら
日々の生を送っているといえる

それがバランスを失ったとき
まさに心理療法が必要となることも
また信仰という神的なものを絶対的他者とする
恋愛関係の極北のようなかたちをとることもあるだろうが

たとえば実際の恋愛や結婚という現象も
「転移」関係のなかで互いを「鏡」にしながら
魂の錬金術的な個性化をはかる
ということが重要な課題となっているのではないだろうか

■工藤 顕太『ラカンと哲学者たち』 単行本 – 2021/12/22
 (亜紀書房 2021/12)
■カール・グスタフ・ユング(林道義・磯上恵子訳)
 『転移の心理学』
(みすず書房 1994.9)

(工藤 顕太『ラカンと哲学者たち』「第1章 哲学は狂気をどう考えるか――ラカンの「デカルトへの回帰」」より)

「無意識−−−−「私」に在り方を決定的に方向づけているにもかかわらず、「私」自身にはどうやってもアクセスできない領域−−−−というフロイトの仮説をひとたび受け入れたならば、おのずと自分にかんするさまざまなことが疑わしくなってくる。無意識を認めるということは、要するに「私」の一番重要な部分については、「私」自身には知りえないし、コントロールすることもできないと認めるに等しいのだ。精神分析とはこの認識を出発点として、個人が主体となってみずからを問い直し、変化してゆく実践にほかならない。」

(工藤 顕太『ラカンと哲学者たち』〜「第6章 科学にとって神とは何者か――精神分析の始まりと終わり」より)

「転移とは、一言でいうと、強い感情的な結びつきのことである。フロイトによれば、転移は親密な人間関係にきまって現れ、精神分析の実践に限らず広く一般に見られる。例えば、はっきりとした性的要求を伴う恋愛のようなあからさまなものもあれば、尊敬や信頼といった、表面上はより整序されたものもあり、そのかたちは様々である。もちろん、親密さというのはつねに肯定的な感情のみによって形作られるのではない。むしろ、顕在化していようとなかろうと、そこにはしばしば敵対的な負の感情も含まれていることを強調するのが、フロイトのリアリズムである。アンヴィヴァレンツなき感情(例えば憎しみをほんの少しも伴わない愛)は、少なくとも神経症者の世界には存在しない。
 いずれにせよ、感情的な高まりと他者への強い結びつきが転移現象の核となる。ところで、精神分析の実践はこの現象と切っても切れない。それは、治療者と患者のあいだではつねに転移が見出される、という臨床的事実のみによるのではない。そうではなく、より積極的に、転移を原動力にする技法として、フロイトは精神分析を発明したのだ。フロイトは、患者から恋愛感情を告白されたり(陽性転移)、強い攻撃性を向けられたり(陰性転移)する経験を繰り返すなかで、それを治療上偶発的に生じる障害ではなく、むしろ治療の本質をなす現象と位置づけた。精神分析とは、人為的に転移を生み出す実践であり、転移関係こそが分析に固有のフィールドとなる。」
「フロイトの狙いは、患者自身が抵抗ととことん向き合い、それを主体的に乗り越えるよう促すことであった。それは、論理的にも経験的にも、分析が患者の症状の根に近づけば近づくほど、患者の抵抗は強くなっていくことを確信していたからだ。転移こそが精神分析の原動力であるというフロイトの考えは、「転移抵抗」をも、そしてより本質的に、転移をつうじて新たな姿をとった症状それ自体をも、肯定する発想として受け取らなければならない。」
「転移をめぐるフロイトの洞察から引き出されるのは、精神分析は、症状が展開してゆくそのプロセスと同じ方向を向いた進む、という原則である。精神分析とは、それ自体が、患者と分析家の二者関係によって代理された症状なのだ。(・・・)症状の軽減や解消は精神分析の「結果」ではあっても、「目的」ではない。そうだとすれば、当然次のような疑問を浮かんでくる。

 精神分析はいかにして終結するのか?

 じつは、この点についてフロイトの考えは揺れている。そもそも、ひとつの精神分析が終わるとはどういうことなのか、明確な終わりを設定できるのかという根本的な問題が、精神分析の歴史のなかで長らく残されてきた。そしてこの問いにはっきりとした答えを与えたのがラカンだったのだ。」
「分析主体が分析家を〈他者〉とみなすことをやめ、自分の無意識について、自分以上に分析家のほうが何事かを知っていると考えるのをやめるとき、精神分析は終わりを迎える。
 ひとは、誰かが自分以上に自分のことをわかってくれているとみなしたとき、その相手に対して強い感情的な結びつきを持つ。そして、そのひとから見た自分こそ、真の自分だと信じるようになる。ごくありふれた恋愛関係にも、このような面はたやすくみってとれる。これは、転移をつうじて相手を理想化している状態であり、「知を想定された主体」とは、このように理想化された他者のことである。精神分析において、分析家がこのような理想化の対象となる局面は避けられない。だからこそ、フロイトが伝えるような愛憎が臨床の日常風景となるのだ。しかし、逆にいえば、この理想化にしっかりケリをつけることこそ、精神分析の真の終わりであり、その目的にふさわしい。ラカンによれば、「分析家は、まさしくこの理想化から転落し、権威を失わなければならない」。」
「主体が〈他者〉に依拠することで始まるひとつの精神分析は、この〈他者〉そのものが問いに付され、やがてはその不在がそれぞれなりの仕方で引き受けられることで終わる。」

(工藤 顕太『ラカンと哲学者たち』〜「第7章 恋愛は存在しない?――「転移性恋愛についての見解」再読」より)

「私たちが日頃経験している恋愛から転移性恋愛を分かつものは、それが治療関係のなかで生じたという事実以外には何もない。さらに、フロイトはこうも書いている。むしろ、転移性恋愛には、無思慮で盲目的であるという点にかけては、通常の恋愛に望まれる以上のものがある、と。仮に、どこまでも真っ直ぐで情熱的であることを恋愛のひとつの理想と考えるならば、転移性恋愛こそがこの理想を体現していると言うことさえできる。(・・・)だからといって、分析家は患者の想いに応じるわけにはいかない。したがってフロイトとともに私たちが導き出す結論は、次のようになる。転移性恋愛とは、最初から失われている恋愛、始まったときから終わっているにもかかわらず、精神分析においてつかの間生きられなければならない恋愛のことだ。ひるがえって、あらゆる恋愛は、転移がそうであるのと同様に、ひとつの症状である。」

(工藤 顕太『ラカンと哲学者たち』〜「第8章 道徳か情欲か――カントともうひとつのアンチノミー」より)

「いうまでもなく、私たちの行動にはすべて私たちの欲望がかかわっている。だから、「欲望とは何か」という問題を真剣に突き詰めていくと、意志や行動原理といった、私たちが日頃当たり前に前提としている事柄もおのずと問い直されることになる。」

「ラカンは、『精神分析の倫理』の議論を凝縮し、深化させたテクスト「カントとサド」(一九六三年)のなかで、簡潔に次のように書いている。「法と抑圧された欲望とはひとつの同じものである。これはフロイトの発見したことだ」。抑圧された欲望、すなわち精神分析が扱うべき無意識の欲望は、カントのいう道徳法則と同じく、無条件な法として機能し、主体の行動原理となる。ただし、欲望をひとつの法にまで高め、それをとことん突き詰める道は、決して心安らかなものではない。」

「フロイトは快/不快をエネルギー論的に定義し、前者を緊張や興奮の解消、後者をその高まりとみなした。ポイントは、このような見方によって、快と不快が量的な増減というひとつの軸のもとで(あたかも目盛が上がったり下がったりするかのように)とらえられる、ということだ。快原理とは、文字どおり、以上のように定義された快を追求し、不快を回避しようとする根源的な傾向のことである。」

「ラカンは死とセットになった性行為に何を見出すのか。それは、快とは厳密に区別された、それどころか快/不快という対立にはそもそも収まらない「享楽(jouissance)」−−−−これはラカンが精神分析にもたらした独自の概念だ−−−−である。」
「享楽とは、快原理というリミットの向こう側へと主体を誘う根源的な満足のことであり、欲望の真の原動力は快ではなく享楽である。」
「快原理が課すリミットを越えないことこそが欲望の日常を定義する。それは、私たちを享楽から隔てる見えない壁のようなものだ。だが、これはあくまでも欲望の一面である。ラカンがカントの道徳法則の峻厳さに見いだしたのは、欲望のもうひとつの顔、致死的な享楽へと主体を向かわせる命令の残酷さにほかならない。」

(ユング『転移の心理学』より)

「フロイトが「転移」と呼んだ現象は、心理療法の臨床に自らたずさわっている者なら誰でもよく経験する、むずかしい問題である。(・・・)心理学はこの現象を見過ごすことも、避けて通ることもできないし、また治療学はいわゆる「転移の解消」が単純明快な自明の事柄であるかのように見せかけるべきではない。じっさいのところ、転移と密接に結びついている「昇華」を論ずる人々にも同じような楽観主義が見られる。」
「私は初めはフロイトとともに転移を課題に評価しすぎるほどだったが、経験を積むにつれてその重要性は相対的なものであると考えざるをえなくなった。転移がある人には治療薬となり、他の人には劇薬となる薬に喩えることができる。」
「読者の中にはもしかしたら、私が転移を説明するのに、よりによって錬金術のシンボル体系のような一見何の関わりもない事柄を引き合いに出すのを、不思議に思う人がいるかもしれない。それとは反対に、『心理学と錬金術』の中で私の詳しい説明を読んだ読者は、無意識の心理学が臨床のために取り組まねばならない現象と錬金術とあいだに、どれほど密接な関係があるか承知している。」

「錬金術においてほかならぬ神秘なる婚礼という観念が非常に重要な役割を果たしていることは、その代用としてよく使われる《結合》という表現が何よりも、今日化合と呼ばれる事柄、および結びつくべき物質同士を結合させる力、すなわち今日でいう親和力、を意味していることを考えれば、驚くに当たらない。」
「《結合》が錬金術にとって重要なイメージであり、またその臨床上の価値がのちの発展段階において証明されたように、こころに対しても同じように重要な価値をもっている。すなわちこのイメージは、[化合という]物質の不可解な性質を認識するために役立ったのと同様に、内部のこころの暗闇を認識するためにも役立つのである。」

○工藤 顕太『ラカンと哲学者たち』【目次】

■まえがき

第1部 デカルトを読むラカン
■第1章 哲学は狂気をどう考えるか――ラカンの「デカルトへの回帰」
■第2章 失われた現実を求めて――フロイトと精神の考古学
■第3章 疑わしさの向こう側――デカルト的経験としての無意識
■第4章 哲学者の夢――コギトの裏面、欺く神の仮説
■第5章 言葉と欲望――フーコー/デリダ論争の傍らで
■第6章 科学にとって神とは何者か――精神分析の始まりと終わり

第2部 精神分析的現実のほうへ
■第7章 恋愛は存在しない?――「転移性恋愛についての見解」再読
■第8章 道徳か情欲か――カントともうひとつのアンチノミー
■第9章 目覚めるとはどういうことか――現実の再定義としての夢解釈
■第10章 狼の夢の秘密――トラウマとしての現実界(1)
■第11章 フロイトという症例――トラウマとしての現実界(2)
■第12章 ヘーゲルに抗するラカン――精神分析的時間の発明

第3部 ソクラテスの欲望をめぐって
■第13章 起源の誘惑――フロイトとソクラテス
■第14章 愛とメタファー――少年愛から神々のほうへ
■第15章 永遠の愛の裏面――止まらないしゃっくりの謎
■第16章 あなたは愛を知らない――分裂するソクラテス
■第17章 とり憑かれた哲学者――美のイデアと死の欲望
■第18章 物語の外に出る――精神分析家の欲望とは何か

■結びに代えて
■あとがき
■注

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