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広井良典 『無と意識の人類史/私たちはどこへ向かうか』

☆mediopos-2392  2021.6.4

死なない人はいない
生きていることは
死ぬことにほかならないからだ

死を無になることだととらえるとき
その無が単純に何もなくなるということならば
そしてそれを恐れ避けようとするとき
いまの私という意識や身体を永続化させること
つまり「不老不死」を求めることになる

しかし無を
存在つまり有を生み出す
潜在エネルギーだととらえるならば
有は無の変容した姿であり
無は有の変容した姿である

ゆえに
死は生の変容した姿であり
生は死の変容した姿であるといえる

すべては変化の相のもとにあり
わたしという意識もまた
変化するからこそ変容が可能となる

そうした意味で
人間の「生」の有限性や
地球環境あるいは経済社会の有限性から
さまざまな恐れや危機意識が生まれてしまうのは
結局のところ「無」を恐れるがゆえに
「有」に「不老不死」を求めるがゆえだといえる

「不老不死」を永遠の相において求めるならば
有と無をエネルギー形態の変化だととらえ
有か無かではなく有無の「而二不二」(ににふに)
不老ではなく若老の「而二不二」
不死ではなく生死の「而二不二」
という「而二不二」の観点からとらえなおす必要がある
そしてその相の変化・変容を
ひとつの祝祭としてとらえることができる

生まれることが祝祭であるならば
死ぬこともまた祝祭にほかならないのだから

■広井良典
 『無と意識の人類史/私たちはどこへ向かうか』
 (東京経済新報社 2021.6)

「〝現代版「不老不死」の夢〟をめぐる(…)二つの流れは、(…)「意識の永続化」を志向するもの、(…)「身体の永続化」に関するものといえる。しかしこれらはいずれも、個人の生の〝限りない延長あるいは拡大〟を目指すという点において共通している。
 こうした方向は、ある意味で近代科学がその発展の先に到達する究極的なテーマという側面をもっているだろう。と同時に、社会経済的な面から見るならば、それは「欲望の無限の拡大」をそのエンジンとしてきた資本主義が必然的に行き着く話題でもあり、ある種抗し難い力をもって推進されつつある。しかしはたしてそのような「意識の永続化/身体の永続化」という方向は、私たちに真の充足や幸福をもたらすのだろうか。」

「「無の人類史」とは、いささか意味不明なタイトルに響くかもしれない。(…)現在の私たちは、「有限性」というテーマに根本的なレベルで向かい合う時代状況を迎えており、それには、(a)人間の「生」の有限性、(b)地球環境あるいは経済社会の有限性という二つのレベルがあった。」

「私たちは、ある意味で「無」いう言葉あるいは概念について、それを自明なものと考えている。「無」とは「無」、つまり「何もないこと」であって、それ以上でも以下でもなく、またそれ以上議論する余地もないものであると。
 しかし(…)、たとえば現代の物理学では、「『無』がエネルギーをもっている。『無』が宇宙を誕生させる……。今や『無』と物理学は切っても切れない関係にある」とか、「『無』とは、実にダイナミックでエキサイティングなものだ」「『無』の不思議さ、奥深さを探究してみよう」といったことが言われるようになっている。」

「私たちの生きている世界は、〝「相対的な有」と「相対的な無」の入り交じった世界〟であると言うことができる。
 そしてここまで考えてくると、次のようなある意味で常識破壊的な見方が可能となる。それは、「もしも『絶対的な有』というものが存在するとしたら、それは究極において『絶対的な無』と一致するのであり。それがすなわち死ということではないか」という考えである。
 つまりいま述べたように、他との関係や無数の「無」の存在によって成り立っているのが私たちの生きるこの世界である。だとすれば、もし「絶対的な有」----「純粋な有」と言ってもよいかもしれない----というものがあるとすれば、それは他とのいかなる関係性や属性ももたず、自己完結的に「すべて」であるような何かである。ならばそれは「絶対的な無」あるいは「純粋な無」と一致するのではないだろうか。そして、そのような「絶対的な有=絶対的な無」こそが、他でもなく「死」ということであると考えられるのではないか。」
「したがって、死は私たちが通常考えるような意味での「無」ではない。それは私たちがふつう言うところの「有」と「無」のいずれをも超えた何かではないか。」

「「人類史における第三の定常化」の時代としての現在そして今後においては、近代社会における「無(あるいは死)の排除」に代わり、「有と無の再融合」と呼べるような世界観が重要な意味をもつことになると私は考えている。
 「有と無の再融合」とはいささか抽象的でわかりにくい表現かと思われるが、その内容はさほど難解なものではない。すなわちそれは、要約的に記せば、
(1)「有」と「無」を連続的なものととらえ、
(2)「無」を、「有」を生み出すポテンシャルないしエネルギーをもつものとして理解し、
(3)「有」(あるいは存在)の内部の事象についても、そこでの宇宙、生命、人間といった様々な次元を連続的なものとして把握し、
(4)以上のような認識を踏まえ、「個人を超えて、コミュニティや自然(生命、宇宙)ひいては有と無の根源とつながる」方向を志向する
という考え方を指している。」

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