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赤瀬川 原平『自分の謎』

☆mediopos2647  2022.2.14

やさしいことを
わざわざ難しそうに書くひとも
難しいことを
難しく書くひともいるが

できるならば
難しいことを
やさしく書ければいいと思っている

かんたんな言葉で
やさしく書かれているとわかりやすいかといえば
むしろそのことでもっと難しくなったり
誤解されたりすることもあるけれど

かつてずいぶんその本にお世話になった赤瀬川源平さんが
2005年(六十八歳のころ)にだされた
「大人の絵本」がこうして文庫化されている

むかしは「当たり前のことは無視」し
「当たり前を超えるもの」「ばかりを
追いかけ」ていたけれど
「当たり前のものを見るのが面白くなってきた」という
無視されていたものは
「じっと見ているともじもじし始める」ようだ

テーマは「自分の謎」
「自分が自分であること」

はじめはじぶんの顔を鏡に映す話だ
鏡を見るのが嫌だという
「自分はここにしかいない」のに
じぶんではない「鏡の中の人」がこちらを見ているから

鏡というのは
じぶんの意識のあり方を象徴しているところがあって
鏡に映っているじぶんを
たんじゅんにじぶんだと思っている人は
おそらくどんなものを見ても
そこにじぶんを映してみることは少ないのではないか

世の中には世界に起こるさまざまに
じぶんを照らしてみることをしないひとがいる
そしてときにじぶんを問わずに
批判的で攻撃的になったりもする

ほんとうはどんなことも
じぶんの意識には反射しているはずで
それが無意識の中で影になってしまうこともあって
そしてときにその影に復讐される
もちろんその影もじぶんではないと思っているから
それに対する態度も同じである

次にとりあげられているのは「痛い」問題である
爪や髪は切っても痛くないけれど
じぶんの多くのからだの部分は切ると痛い
もちろん麻酔をかければ痛みはないだろうが
麻酔が切れればやはり痛い

そういえば萩原朔太郎に「死なない蛸」の話がある
水槽のなかで飢えた蛸が
じぶんの足からはじめてすべて食べていく話だ

痛い痛くないは別として
じぶん(のからだ)はどこからどこまで
じぶんなのだろうかという問いへ
そして死とはなにかという問いへも
つながっていくことにもなるだろう

また「一つだけの問題」は
じぶんはなぜここにいるじぶん一人だけなのか
みんなにもそれぞれじぶんがいるのに
ということへの問いである
独我問題でもあるが
この問いもとてもたんじゅんなのに
どこまでも難しいもんだいのひとつである

このように
「自分が自分のことを考える」ことは
「当たり前」のようでいて
ほんとうはどこまでも「最後の一点」は見えない
けれどその見えない一点をじっと考えていくと
なにかが見えてくるような気がしてくることもある

「当たり前のこと」は面白いけれど
ほんとうはいちばん難しい

■赤瀬川 原平『自分の謎』
 (ちくま文庫 筑摩書房 2022/2)

(「あとがき」より)

「若い頃は文章を書くのに難しい言葉ばかり使っていた。難解なものほど凄いという風潮もあり、よけいそうなっていたと思う。でもそのうち「難解」がただのスタイルだとわかり、自分で恥ずかしくなってやめた。世の中に難解な問題はたくさんあるけど、言葉が難解では肝心の問題までたどりつけない。
 文章や本というのは、農業みたいなものだと思う。形のいい物を作っただけでは何にもならない。それがちゃんと食べられて、食べた人の体内で分解されて、身になってこそのものだと思う、本当にそうなっているかどうか、というので読まれ率が気になる。
 そんな思いがだんだん表にでてきて、この大人の絵本のような形ができた。」

「自分が自分であることはあまりにも当然で、しかも強制的で、誰にも逃れられない。みんな確実に自分である。(・・・)
 遺伝子は継承できるようだが、自分は継承できない。一代限りだ、譲渡もできないし、交換もできない。貸与もできない。これを不思議といえばいいのか、当たり前といえばいいのか。」

「むかしは当たり前のことは無視していた。それよりも、当たり前を超えるものを見たいと、そればかり追いかけていたように思う。それでどうにかなったかというと、案外どうにもなっていない。
 それよりも、当たり前のものを見るのが面白くなってきた。当たり前だと無視していたものが、じっと見ているともじもじし始める。ぼくだって人にじっと見られていると。気まずくてもじもじしれしまうものだが、当たり前のものにもそれと同じような関係があるらしい。
 自分が自分のことを考えるというのは、人間の脳が脳のことを考えるのと同じで、最後の一点が見えないはずのものだが、でももじもじはしてくるようである。そのもじもじラインを繋いでいくと、不可能な一点が推察できるような気がして、こういうものを書いてみた。」

(「Ⅰ 目の問題」より)

「鏡を見るのが嫌な人と、嫌でない人がいる。ぼくは嫌なので困る。
 なぜ嫌なのか、自分でもわからなかったが、よく考えたら、わかってきた。」

「鏡を見ると、人に見られるからだ。鏡に映っているのは自分だけど、その自分という人の目がこちらを見ている。それがどうも嫌で、そんなに見ないでくれと、本当はそう言いたい。」

「鏡を見るのが平気な人は、たぶん鏡の中の人を、こちらが見ているのだろう。」

「ぼくの場合、見ようと思いながら、どうしても見られてしまう。」

「自分の目でも、鏡を見たらその視線が反射してこちらに向かう。だから鏡を見るのは嫌なのだけれど、みんなはどうなのだろうか。」

「鏡の中にいるのは、自分のようだけど、あれは自分ではない人だ。
 自分はここにしかいない。」

(「Ⅱ 痛い問題」より)

「爪切りで爪を切りながら考える。爪は切っても痛くない。自分の足の爪なのに、自分にはぜんぜん痛くない。爪は自分じゃなうのだろうか。」

「実験はできないけれど、自分の体を痛いのと痛くないのに分けていったら、痛いと感じる最後はどこになるのだろうか。」

(「Ⅳ 一つだけの問題」より)

「子供のころ、自分は何故ここにいるのかと考えた。友だちにAちゃんやBちゃんやCちゃんがいるけど、みんなそれぞれ向こうにいる自分らしい。自分は何故この、ここにいる自分になっているのか。」

「人間の大人の話では、幼児期のこの種類の思いのことを貴種願望と言うらしい。自分だけ特別で周りとは違うという感覚。でもこれ、願望だろうか。自覚ではないのか。自分がここに一人しかいないのは事実だから、自分が貴種であることは確かなのだ。
 人間はこの世に数えきれぬほど大勢いるが、自分だけはみんな貴種だ。
 人類は全員は貴族なのである。」

(「Ⅴ 強い自分 弱い自分」より)

「人間は肉も食べるし草も食べる雑食系だから、強い自分と弱い自分が同居しているらしい。
 それが時に応じて変換しながら、たとえばの話、人生の前半は強い自分が生活を切り開き、広範になると弱い自分が場所を得て、俗に人間が丸くなったといわれたりする。」

「歳をとって認知(ボケ)るのは、弱い自分のあらわれだろう。もの忘れというのは、それを覚えている自分と覚えていない自分が、時を変えてあらわれることだ。
 二つに割れなかったはずの自分だけど、人生の時間軸の中では、それが少しずつ砕けて、そのカケラが出没を繰り返している。」

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