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護山真也『仏教哲学序説』

☆mediopos-2396  2021.6.8

おそらく仏教はほんらい
(神を仰ぐのではなく)
人間が人間であることにおける叡智において
もっとも信頼に値する宗教であり
ある意味では宗教と名づける必要さえない
認識態度を有していると思われる

とはいえ習俗的な次元での仏教には
仏者であれ信仰者であれ
建物・仏像・仏具・装束を慣習化し
経を唱えることなどを事とするばかりで
あくなき認識上の向上努力が見られることは稀である

ここで「仏教哲学序説」として
説得的に語られていることは
そうした習俗的なところにおいて
矛盾を孕んでいることは言うまでもない

素朴な信仰態度は教えを守ることに主眼があるが
常に「信仰と理性の中道」を歩み続ける態度には
「主客の分裂を超えた不二の世界を目指しながら、
私たちの吟味・検証の精度を次第に微細なものへと変化させ」続け
現代における悪しき信仰ともなりがちな科学とさえ
「共働し得る」可能性へと不断に向かう研鑽が欠かせない

次のように引用で紹介しているが
ブッダがカーラーマの人たちに答えた
ほんらいの仏教に必須の認識態度がある

「あなたたちは風説にもとづいて信じてはいけない。
伝承にもとづいて信じてはいけない。
聞き伝えにもとづいて信じてはいけない。
理論にもとづいて信じてはいけない。
自分たちの審慮して許容した見解にもとづいて信じてはいけない。
説く人の有能そうなすがたにもとづいて信じてはいけない。
「この沙門は私たちの先生である」
ということによって信じてはいけない。」

さらにいえば
そうした「ブッダのことば」を物差しにした認識態度においても
「その「物差し」そのものも批判的に吟味され、
変容させるべき側面がある」ことこそ重要だといえる
つまり「仏に逢ったら仏を殺せ」である

仏教が本来的に矛盾を抱えているのは
上記の認識態度においては実際のところ
「信仰しないことを信仰し実践せよ」ということになるからである
「仏教徒」であることはすでに「教徒」ではありえない
そこにこそ本来の信仰を超えた信仰があり
宗教というおそらくは人類において過渡的な有り様を
超えていくための唯一の道があるのではないか
宗教が生まれたのは高次のものが
認識できなくなったがゆえのものだからである

現実の世の中をみると
科学をはじめあらゆることが
上記の認識態度をスポイルするものばかりである

風説にもとづいて信じ
伝承にもとづいて信じ
聞き伝えにもとづいて信じ
理論にもとづいて信じ
審慮のもとに許容した見解にもとづいて信じ
説く人の有能そうなすがたにもとづいて信じ
先生だからといって信じ
さらには
最初に説いた者のことばを権威化絶対化し
時代の変化や認識の拡張変容展開の必要性を認めない

「教徒」にならず「教」を生かし
「教」を超えてゆく
そんな者に私はなりたい
とはいえ私は仏者ではないのだけれど

■護山真也『仏教哲学序説』(未来哲学研究所 ぷねうま舎 2021.3)

「----なぜ、あなたは仏教を信じているのですか?

 この問いは強烈である。仏教を信じることはとっくに前提とされているらしい。困ったな。「なぜ」という疑問詞がある以上、答えには「・・・・・・だから」という理由が求められているのだろう。しかし、私が仏教を信じている理由とは何なのだろう?」

「----なぜ、あなたは仏教を信じているのか?

 もしかしたら、この問いに答えを出すために、私は仏教認識論の世界に足を踏み入れたのかもしれない。これまで見てきたように、仏教認識論はイギリス経験論や現象学に類似した思索を展開したダルマキールティによって体系化さてれた仏教哲学である。ダルマキールティとその後継者たちは、「プラマーナ」、すなわち正しい認識と間違った認識とを峻別するための物差しを探求した。突き詰めれば、それは知覚と水利の二種類となる。
 知覚と言っても、ここでのそれは、私たちが通常そう考えるところの知覚ではない。概念や思考を離れた純粋な経験こそが仏教認識論で言われる知覚である。
 一方、概念的な認識に関して言えば、日常的なさまざまな経験のほとんどは、確固たる根拠に拠ることなく、これまでの週刊で馴染んだ見方をただ繰り返すだけであり、未知の真理を探究するための手段にはなり得ない。真理を知るために役立つのは、妥当な根拠にもとづいて結論を導き出す論理的な思考、すなわち推理である。
 知覚と推理というこの二つの武器を手にした私に対して、今や、仏陀は語りかけるだろう。

 ----知覚と推理を使って、仏教を徹底的に検証せよ。」

「ここでの「信じる」は厳格な意味での信仰よりも緩やかな意味で理解していただきたい。ともあれ、ここで強調しておきたいのは、「仏教を信じる」前段階には「仏教を知る」過程が必ず必要であるということ、そして「仏教を知る」ためには「仏教を疑う」過程もまた必然であるということである。
 振り返ればそのことは、仏教の開祖である仏陀その人が弟子たちに語っていたことではなかっただろうか。パーリ語聖典にある「カーラーマ経」(「ケーサムッティ経」)では、自説の正しさを誇り、異説を誹謗中傷する沙門やバラモンたちのことばを聞いて、それらの諸説の正邪をどうやって判断すればよいのか、という質問がカーラーマ族の人々からブッダに投げかけられるのだが、それに対してブッダは次のように答えたとされる。

  カーラーマの人たちよ、あなたたちが疑問を持つのは当然であり、疑念を持つのは当然である。疑問のあるところに疑念は生じる。さあ、カーラーマの人たちよ、あなたたちは風説にもとづいて信じてはいけない。伝承にもとづいて信じてはいけない。聞き伝えにもとづいて信じてはいけない。理論にもとづいて信じてはいけない。自分たちの審慮して許容した見解にもとづいて信じてはいけない。説く人の有能そうなすがたにもとづいて信じてはいけない。「この沙門は私たちの先生である」ということによって信じてはいけない。(浪花二〇一七、一二〇頁より一部改変)

 ここに挙げられているさまざまな理由は、人々が何かを判断するときに、頼りにしがちな要因の一覧である。これを読んでフランシス・ベーコンの四つのイドラを想起する人も多いだろう。現代風に言えば、さながら情報リテラシーの一覧といったところだろうか。伝聞や風説、フェイクニュースの類に流されることなく、信頼のある情報を見分けるためには、正しい物差しで真贋を見分ける眼をもたなければならない。それも単なる机上の空論、思索のための思索ではなく。実践に裏付けられた思索で物事を判断しなければならない。そして、教えを説く人が権威ある人だからという理由だけでその教えに盲従してはならない。ここに書かれてあることは、仏教以外の宗教にのみ向けられたものではない。ブッダは、彼自身の教えに対しても、人々が同じような批判精神をもって吟味すべきことを説き示した。
 仏教の根底にあるこのような批判精神は、他の宗教にはあまり観られない異色の教えである。そこに仏教の魅力を感じる人も多いようだ。」

「ブッダからダルマキールティへ、そしてシャーンタラクシタからダライ・ラマ十四世へと連綿と語り継がれてきた教えには、いずれもこの自己批判の精神が息づいている。仏教は盲信の信仰を徹底的に排する。仏教を求める者たちは、幾度も幾度もブッダのことばを反芻し、その内容を自らで検証・吟味しなければならない。」
「また、同じ理由から、科学の名のもとんい宗教的なものが切り捨てられることにも慎重さが求められよう。科学的な思考と宗教的な信念とは両立不可能であるという世間の通念に対しても、批判的な眼差しが投げかけられねばならない。」

「これまで論じてきたことと矛盾しているように聞こえるかもしれないが、ブッダのことばを自分たちも「物差し」で吟味・検証しなければならないのはその通りだが、その「物差し」そのものも批判的に吟味され、変容させるべき側面があることを忘れてはならない。(…)ダルマキールティは最終的に主客の分裂を超えた不二の世界を目指しながら、私たちの吟味・検証の精度を次第に微細なものへと変化させることの大切さを説いた。その意味では、科学も変容するものであり、西田が試みたように、仏教や宗教と共働し得る科学モデルの可能性が模索されてもよいはずである。そして、そのことを考える哲学的な思索もまた実践の一部を形成してしかるべきである。」
「本来の仏教徒が歩むべき道は信仰と理性の中道にこそある、と私は考える。」
 

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