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丸山俊一「ハザマの思考7 ポップとシリアスのハザマで」(群像)/ゴダール『映画史(全)』/ユリイカ「ジャン=リュック・ゴダール 1930-2022」/『小林秀雄 学生との対話』

☆mediopos3403  2024.3.12

丸山俊一「ハザマの思考7」(群像 2024年4月号)は
「ポップとシリアスのハザマで」

面白いのかタメになるのか
面白くてタメになるのか

ポップかシリアスか
ポップでシリアスか

フィクションか
ノンフィクション(ドキュメンタリー)か
フィクションでノンフィクションは可能か

「表現者」にとって
それらの「ハザマ」を
意識することは切実な問題となるだろうが

丸山俊一は
「こうした分類からやすやすと逃れ出て行く
一人の表現者のことを、いつも思い出す。
あの、ゴダールだ」という

「前衛の巨人」ともいわれたゴダールは
二〇二〇年九月一三日に亡くなり
ユリイカでも追悼特集が
一年以上前に組まれていたが

いわばゴダールの前にはゴダールはなく
ゴダールの後にもゴダールはない
ともいえるだろうし
それだけにゴダールの映画をどう位置づけて考えるか
それについて明確に語ることはおそらく難しい

ましてその映画でさえ
実際には数えるほどしか観ていないぼくのような者に
ゴダールを語る資格はないだろうが

そんななかでもゴダールへの関心を
持続的に持ちえていたのは
ゴダールの映画は
その作品そのものが
映画への批評ともなっていたことだった

ゴダールの映画への探求は
「映画とはなにか」
つまり
「映画は何によって成りたっているのか」
「映画はいかにして生み出されるのか」
「映画はいかにして世界と関わるのか」
といった問いに対する批評であり

その批評が映画においてなされていた
つまり「映画そのものを通じて映画について考え、
映画を通じて世界を覗き込」んだのだった
(久保宏樹「映画、批評、世界」)

「人は映像そのものを見ることをせず、
映像のつなぎ目を見ようとする。」

この有名なゴダールの言葉は
丸山氏の論考で示唆されているように
小林秀雄の「対象に迫る批評」と通底している

小林秀雄は学生との対話のなかで
本居宣長は〈もののあはれ〉は
〈感じる〉のではなく〈知る〉のだと言っているという

「物の心を知ること、事の心を知ること、
それが〈もののあはれ〉を知ること」
つまり「認識」することであって

「科学などというものは、
物を知るためには、ちっとも役に立ってい」ないという

花には「花の心」というものがあって
「花はあの姿で、何かを表している」
「〈もののあはれ〉を知るというのは、
花の心を認識する」ことにほかならないのだが

「花の心を認識する」というと
現代人の多くは非科学的という言葉で
否定的にしかとらえないだろう

「物を本当に知る」ということこそが
対象に迫り得る批評的態度だともいえるのだが
科学は「感じる」ことさえ
その成分分析のようなことでしかなしえないし
たとえ「花の心」を「知」ろうとしても
化学的反応くらいのことでそれに代えることしかできない

ゴダールが「映画そのものを通じて映画について考え、
映画を通じて世界を覗き込」んだように
本居宣長は〈もののあはれ〉を知ることを通じて
世界を認識しようとし
小林秀雄は対象に対する批評的態度として
そのように試みたのである

いうまでもなく「感じる」ことによってではなく
あくまでも「知る」ことによって

■丸山俊一「ハザマの思考7/ポップとシリアスのハザマで」
(群像 2024年4月号)
■ジャン=リュック・ゴダール(奥村昭夫訳)
 『ゴダール 映画史(全)』(ちくま学芸文庫 2012.2))
■ユリイカ 令和5年1月臨時増刊号「ジャン=リュック・ゴダール 1930-2022」
 (青土社 2023/1)
■『小林秀雄 学生との対話』(国民文化研究界・新潮社編 2014/3)

*(丸山俊一「ハザマの思考7/ポップとシリアスのハザマで」〜「表現者が求める「面白くて、タメになる」とは?」より)

「「面白くて、タメになる」。様々な領域の表現の仕事に携わる人々にとってひとまずの目標とされる、ある意味、逃れ難い響きを持つ言葉と言えるのではないだろうか。

(・・・)

 ただ同時に、「面白い」という言葉が意味する射程で議論は徐々に分かれていく。(・・・)こうした問答を繰り返すうちに、今度は「タメになる」というのも一体どういうことなのか、誰にとって、どのように「タメになる」ことが大事なのか、という疑問も生まれ箱、得る・・・・・・。」

「「ポップ」と「シリアス」。そこから広がるイメージは、あえてカタカナの形容詞に頼らなければ、それぞれ「時流に乗った大衆性」と「真摯な重み」というところだろうか? 時に軽妙に、時に重厚に。ポップとシリアスのハザマで、対極にあるかのような二つの感覚のグラデーションの中で、創造の模索は続く。

 だが、こうした分類からやすやすと逃れ出て行く一人の表現者のことを、いつも思い出す。あの、ゴダールだ。」

*(丸山俊一「ハザマの思考7/ポップとシリアスのハザマで」〜「ゴダール『中国女』が投げかけるドキュメンタリー論」より)

「二〇二〇年九月一三日にこの世を去った「前衛の巨人」ジャン=リュック・ゴダールへのイメージは、人々の間で少々分裂しているように見える。思想的なメッセージ性から難解さを感じ取り、そのシリアスさを語る人もあれば、一方でポップでオシャレなテイストに惹かれ、アートとして捉える人もいる、という具合に。一九五〇年代後半から、若者の氾濫が世界に広がった時代と時を同じくするように、ヌーヴェル・ヴァーグ=新しい波と言われた運動の中にあって、映像表現によって革新的な試みを世に問いつづけたゴダール。時代の潮流が複雑にねじれていく「闘争の季節」に、彼の作品は様々なイメージを乱反射させれいくことになる。実際、政治性と大衆性のハザマでも引き裂かれたゴダール作品は、その後時を経ても、独特な位置を占め続けているように思う。

 そんなポップでシリアスなゴダールを象徴するかのような作品の一つが、六八年の五月革命/危機の前年に公開された『中国女』だ。当時フランスでも広がりはじめた毛沢東思想に傾倒した大学生たちの群像を描いたもの。暗殺という強硬な手段によってでも政治を変えようとする若者たちが主人公の物語と聞けばシリアスだが、場面として積み重なるのは、おもちゃの戦車が走り藻希有の戦闘機が飛ぶようなシーンだ。東洋からやってきた思想に学生たちがかぶれていく様を冷やかすかのような演出とともに、視覚的に印象に残るのは、編集のリズムでありカラフルな背景の色彩であり、さらに音響の効果がそこに加わって、オシャレなポップさが際立ってくる。荒唐無稽なまでの様々な仕掛けで描かれる、ある意味ファンタジーにも満ちた「物語」だ。

 だが、ゴダール本人は、これを「ドキュメンタリー」だと断言する。

(・・・)

 革命運動に身を投じようとする若者たちの姿を「ごっこ」と言い切り、「ばかげたこと」をしている様子を描いた記録、すなわち現実を表すものだというのだ。」

*(丸山俊一「ハザマの思考7/ポップとシリアスのハザマで」〜「フィクション/ノンフィクションの二元論を超えて」より)

「虚構を指す「フィクション」。現実の記録を指す「ドキュメンタリー」。それは、「同じひとつの事柄の二つの側面を示す言葉」であると、ゴダール独自の論が飛びだす。それはカメラというフレームを持ち、誰もがRECボタンを押しさえすれば、ある映像として定着する装置の可能性を問い直す発言だということもできるだろう。

 一八九五年、映画誕生の年。リュミエール兄弟がこの不思議な装置を発明してしまった時、その当事者たち自身が。その可能性を自覚できなかった話は有名だ。現実をただ映し出すものにどんn価値があるのか? しかし、映像の中で迫ってくる蒸気機関車を見てあわてて逃げ出した人々も、そのうちに映像のスペクタクルに魅せられ、次第にそこにストーリーを発見するようになっていく。すると、事態は逆転し、ただ素朴に何かを記録したカメラは、ある意図を持って被写体に向けられるものとなる。編集という技術とともに物語を産む装置へと新たな意味合いを課せられるようになっていくのだ。そこに資本の論理も相まって、物語化を進めていった言わば極言が、ハリウッドというものだろう。ハリウッドとじゃ一線を画し、オルタナティブなリアルを模索し続けてゴダールの感受性は、常に映像の暦を溯り、その原点にまなざしを呼び覚まそうとする。そうしたセンスが、フィクション/ノンフィクションという二元論を飛び越える言葉となる。「人は映像そのものを見ることをせず、映像のつなぎ目を見ようとする」とは、ゴダールから口癖のように飛び出す表現だが、確かに編集点というつなぎ目に人々の意識が向かう時、フィクションの思考が作動し始め、ノンフィクションである映像そのものへの虚心坦懐な感覚は失われていくのである。」

*(丸山俊一「ハザマの思考7/ポップとシリアスのハザマで」〜「フィクションだからこそ描けるリアルがある」より)

「虚構であることで生まれるリアルという歪んだ時空で見る者のまなざしに問いかけるゴダール。映像は作品として完結することなく、開かれたままの状態で、見る者を宙吊りにする。その浮遊感は時に居心地の悪さを生み、ポップでシリアスな、主体の分裂の如き経験となる。今この時に生きている不思議を噛みしめるかのように。」

*(丸山俊一「ハザマの思考7/ポップとシリアスのハザマで」〜「ファインダーに向けられたまなざしの中にあった批評と認識」より)

「実はゴダールに一度だけ会ったことがある、一九九四年だから、もう三〇年前のこと、翌年の映画一〇〇年の企画で東京をテーマにドキュメンタリーを撮らないかと、交渉に臨んだのだ。当時六四歳の「伝説の巨匠」は、スイス・レマン湖のひとりにある仕事場兼応接室に、穏やかな物腰で恭しく僕らを招き入れてくれた、スクリーンなどで知っていたイメージとは異なり、自らも「身体をいたわりながら仕事をする時期が来た」と語るその姿は、やはり老いからなのか、率直なところ生命力があまり感じられず、少し心配になった。

 だがその印象が一変したのは、僕が持参した当時としては最新鋭の小型ムービーカメラを手にした時だった。ファインダーを覗く眼光の鋭さ、すべてを忘れたかのように、フレームの中の世界を夢中で凝視する。あのまなざしの純粋な迫力は圧倒的だった。ちなみに同じように真っ直ぐな少年のような美しい輝きを放つ目を見たのは、その二年前のこと。映画『ソナチネ』のロケ現場の撮影で、北野武監督が映像に向きあう瞬間に遭遇した時のことだ。二人それぞれ、映像が立ち上がる瞬間に向けたまなざし、あの共通する眼光の力は今も忘れない。この力さえあれば、生きていける、迷った時は、ここに返るしかない。そんなことを感じていた。

 そして、その強い目の輝きの源には、単に純粋な感情の発露などではなく、映像による批評への企みと喜びが潜んでいたように思う。」

「対象に迫る方法としての批評。一人の文芸批評家の佇まいを思い出す。

(・・・)

 小林秀雄。六八歳の時の学生との質疑応答だ。「見ること」、「知ること」、「認識すること」・・・・・・。誰でも知っていると思い込んでいる行為こそ難しいと、小林は学生たちに諭す。そして〈もののあはれ〉を知るという、本居宣長の姿勢を通して、認識するということの大事さを特。「花の心」を知るということは、「意味合いを味わ」い「知る」こと、「認識」することだと言うのだ。小林による批評。それもまた、愛ある対象への没入であり、それは同化であり、異化なのだ。対象に心を開き無心で飛び込み、同時にそこから何かをつかみ出すべく味わう。この一連の批評という行為を支えるのは認識なのだ。勝手に感情に溺れることなく、見よ、認識せよ。

 人は映像そのものを見ることをせず、映像のつなぎ目を見ようとする。先のゴダールの言葉に重なるものを、この一連の小林の「認識」論に感じる。映像を観念にも感情にも従属させずに「見る」こと。実は最もリアルであるはずの映像というメディアこそ、皮肉なことにあっという間に人間の性に引きずられ、虚実を振りまいてしまうかもしれないのだ。ゴダール、小林、不思議な組み合わせのようだが、二人の逆接の人の在り様を思い浮かべる時、今一度、「見る」ということの原点に帰り、心地よい緊張と確かな喜びを覚える。

  僕は、ただある充ち足りた時間があった事を思い出しているだけだ。自分が生きている証拠だけが充満し、その一つ一つがはっきりとわかっている様な時間が。
  (「無常という事)『モオツアルト・無常という事』小林秀雄)

 ここにも、見ること、生きることへの開かれた問いがある。

 見ることで問うこと。その佇まいは、いつもポップでシリアスだ。」

*(『ゴダール 映画史(全)』〜「「第五の旅」より)

「この映画(『中国女』)の真の現実性は、この人物たちはばかげたことをしているというところにあります。(・・・)事実、この映画は真のドキュメンタリーです。そして闘士たちは、このドキュメンタリーを受け入れようとはしませんでした。ドキュメンタリーというのは、いくらか感動的なところとばかげたところとをもったなにかなのです。私はこのドキュメンタリーを、実際にありそうなこととして提出しようとしました。事実、この映画は、自分の両親の大きなアパルトマンに閉じこもり、そこで二か月にわたって————ほかの人たちが街頭で、これとはいくらか違ったやり方でしていたのと同じように————マルクス・レーニン主義ごっことをして遊ぶある娘についての映画です。この映画には、同時に真実なものとにせのものとがあったのです。」

「『中国女』はある意味では、ナンテールのある種の学生たちを内部からとあれたドキュメントです。あるいはまた、ある種の運動が始まった(・・・)あるいはむしろ、その運動が通過した社会的場所のひとつについてのドキュメントです。(・・・)

 でも人々はなにをさして(・・・)人々はどういう区別をしているのでしょう?(・・・)ドキュメントというのはいったいどういうものなのでしょう? ドキュメントというのは、たとえば汚れたものでなければならないのでしょうか? きれいなものであってはいけないのでしょうか? いや、すべてがまさにドキュメントなのです。つまり、なにかに視線がなげかけられると、そのなにかはドキュメントのひとつの要素になるのです。そしてそれが、ある貯蔵物となり、その貯蔵物が記憶として焼き付けられるのです。

 私がいつも、フィクションによるなにかに、人々がふつうドキュメンタリー的側面と呼んでいるものをつけ加えようとしてきたのはそのためです————私はこの《フィクション》と《ドキュメンタリー》という古典的な用語を、同じひとつの事柄の二つの側面を示す言葉としてつかっています。」

*(ユリイカ 「ジャン=リュック・ゴダール 1930-2022」〜久保宏樹「映画、批評、世界/三位一体の伝統」より)

・映画批評の役割
「映画愛に基づいた美学は、現実の社会から遠ざかるばかりではなく、映画館という空間を擁護し正当化することで、世界を隠蔽する役割を果たすようになっていったのである。映画館は以前のような発見のための空間ではなく、人々を魅了するだけの罪深い空間になってしまったのである。」

「映画批評の名の下に、誤った映画を作っている人々を告発しても、そうした映画を喜ぶ消費社会の観客たちの姿が浮き上がってくるだけである。そしてまた、いくらテレビの映像やその影響を受けた映画を批評したところで、テレビの側からの返答はなかった。映画作家たちによって署名された映像とは異なり、流れ去っていくだけの名もなく多くのイメージとそのやり取りを望むこた¥とは不可能なことだったのである。
 ジャン・ドゥーシュの名が再浮上したのは、そんな時代の真っ只中であった。『カイエ』の映画批評が暗礁に乗り上げ、映画に対する視点が揺らいだ時代に、昔から変わることなく映画に向きあい続けいた原点へと回帰することになったのである。ドゥーシュは、時代の流行に流されることなく映画の根本を問い続けていた。つまり、一本一本の映画を目の前にし、映画の成りたちから映画作家の演出まで、「映画とは何か」と問う作業を根気強く行っていた。」

・「映画とは何か」
「映画とは、次の要素で成りたっている。
 カメラ、フィルム。マイク、役者など撮影に直接関わるもの。映画監督、プロデューサーm脚本家、カメラマン、照明技師、録音技師などの裏方。作劇法、シナリオ(台本)、演技指導、撮影構図、映像編集などの演出に関わるもの。映画館、スクリーン、映写機、フィルム、観客など上映に関わるもの。
 これは、唯一不変の絶対的な答えである。しかしながら、こうした要素が絡み合った結果、「映画とは何か」という問いは、様々水準で考察されてきた。(・・・)つまり、時代ごとに全く異なった立場から「映画とは何か」が問われていたのである。そして、ぞれぞれの見方には限界がある。」

・「ゴダール的探求」
「ゴダールによる、批評的賭けは、それらすべてを包括することで成りたっている。
 第一の探求であり最も根幹にあるのは、「映画は何によって成りたっているのか」という問いである。
(・・・)
 第二の探求は。演出や資本など映画の背景に関わる「映画はいかにして生み出されるのか」という問いである。
(・・・)
 第三の探求は、「映画はいかにして世界と関わるのか」という問いである。」

・「まだ見ぬ世界へ」
「三つの探求は、「映画とは何か」という問いの変奏である。それぞれの探求は、歴史に名を残す映画批評家たちによって、言葉を通じて汲み尽くされてきた。しかし、ゴダールは書き言葉ではなく、映画そのものを通じて、彼らと一緒に問いを考えつづけてきたのである。それは『カイエ』の思想の一翼であり、まぎれもなく映画批評の実践であった。そして、ゴダールはただひとり複数の問いを引き受け混ぜ合わせてきた。
(・・・)
 ゴダールは、映画そのものを通じて映画について考え、映画を通じて世界を覗き込むことになった。」

*(『小林秀雄 学生との対話』〜「講義「文学の雑感」後の学生との対話(昭和四十五年Ⅷ月日 於い・長崎県雲仙)」より)

「学生C/先生は〈もののあはれ〉を知ることは、感情ではなくて認識だとおっしゃいました。それでよろしいでしょうか。

(・・・)

 小林/宣長さんは、〈もののあはれ〉について、〈知る〉と言っています。あはれを〈感じる〉のではないのですね。「あはれ、あはれ」と思うのは感情ですが、物の心を知ること、事の心を知ること、それが〈もののあはれ〉を知ることであると宣長さんは言っている。知ることは、認識ですね。
 ある人間の生活でもいい。花でもいい。そういうものを見て、僕たちの感情が動く。でも、感情が動くだけではしょうがないのです。その意味合いを味わうことこそが大切であり、それが知るということなのです。花には花の心というものがある。花はあの姿で、何かを表しているのです。〈もののあはれ〉を知るというのは、花の心を認識することです。
 (・・・)
 現代人は、すぐに行動しなくてはいけないと考えます。〈あはれ〉を知る、ということは、行動ではないのですよ。物を見ること、知ること、つまり認識です。物を本当に知るというのは一つの力なのだということを、現代人は忘れていますね。現代人はすぐに行動したがるのです。その行動の元になっているのが科学です。
 科学などというものは、物を知るためには、ちっとも役に立っていません。なるほど、月に行くためには、敵を殺すためには、老なくして物を得るためには————そういう諸々の行動をするためには、科学は非常な役割を果たしているでしょう。けれども、人間の生活とはどういう意味合いのものであろうかといった認識については、科学は何もしてくれないのです。」

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