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松浦寿輝・沼野充義・田中純「徹底討議 二〇世紀の思想・文学・芸術 第十一回「インターネットの出現」」/ミシェル・フーコー『外の思考』/松村圭一郎『小さき者たちの』

☆mediopos2997  2023.1.31

松浦寿輝が「群像」での
二〇世紀の思想・文学・芸術に関する討議の
第十一回「インターネットの出現」で

「インターネットは確かに現存する
あらゆる情報に容易にアクセスできる。
そういう意味では一種の全能感みたいなものを
体験できるような空間ではある」が
ネット空間に対しては
「いわく言いがたい閉塞感、内閉感」を持ち続けているという

「インターネットには「外」がない」からだという

まったく同感である

個人的にも
インターネット以前のパソコン通信の時代から
ネットを利用・活用するようになっていて
情報収集やPCを通じた各種作業の効率化には
ずいぶん役立っているのはたしかなのだが

それでじぶんの世界が広くなったわけでも
深まったわけでもない
世界を広く深くするのは
どんなに便利だとしても「道具」ではないからだ

世界を広げ深めるためには
それまでじぶんのもっていた世界の「外」
それまでじぶんであったわたしの「外」
つまりは見えていなかったもののほうへと
みずからがみずからを超えることで
歩みつづけなければならない

インターネットは一見
世界を広げ深めてくれるように見えてその実
逆のベクトルのほうへと
わたしたちを閉じ込めてしまうことになりかねない

「コントロールされた空間の、
被管理感、被制御感、被拘束感のほうが
むしろのしかかってくる」ことになる

インターネットにかぎらず
便利さというのは多かれ少なかれそうした傾向をもっている
マスメディアや世間の声とかいったものも同じで
じぶんで考えそれにもとづいてたしかな情報を得
そのうえで行動するということができなくなる

情報はたしかに増え飛躍的に利便性は高まるが
その「外」が見えなくなる
あるいは「外」があることに気づけなくなってしまう

ある情報が与えられたとき
その情報はそれをアウトプットする「外」があって
はじめて成立するのだが
そのことに気づく自由をなくしてしまうのだ
そして見えない「外」から操られることにもなる

そういう意味で
松村圭一郎『小さき者たちの』で語られる
「小さき者たちの生活」は
私たちが「自分たちのことを何も知らなかった」
そのことに気づくことで
世界は「小さく」なるのではなく
むしろ広く深いくものにさせてくれる

それは「小さい」にもかかわらず
インターネットのような「広大」さとは逆に
世界の「外」を見せてくれたりもするのだ

■松浦寿輝・沼野充義・田中純
「徹底討議 二〇世紀の思想・文学・芸術 第十一回「インターネットの出現」」
 (「群像 2023年 02 月号」講談社 所収)
■ミシェル・フーコー(豊崎光一訳)
 『外の思考/ブランショ・バタイユ・クロソウスキー』
 (朝日出版社 エピステーメー叢書 昭和五三年四月)
■松村圭一郎『小さき者たちの』(ミシマ社 2023/1)

(松浦寿輝・沼野充義・田中純「徹底討議 二〇世紀の思想・文学・芸術 第十一回「インターネットの出現」」より)

「松浦/田中さんから先ほど名前が出た『攻殻機動隊』ですが、あれはもともと士郎正宗の漫画で、押井守監督でアニメ化されたんだけど、原作でもアニメでも、最終シーンでヒロインの草薙素子が「ネットは広大だわ」と呟きます。以後、伝説化されていったというか、有名になっていった名セリフなのですが。ここでネットと言われているのは、草薙少佐が敵役の「人形使い」と呼ばれるAIと合体して獲得した情報網で、正確にはまだインターネットと同じものではないようです。しかしとにかく「ネットは広大だわ」という感慨が、一種のインターネットの特権的なエンブレムみたいにして語り継がれるようになった。

 では、その「広大」さとはどれほどのものなのか。ネットはどれくらい広いのか。一見馬鹿々々しく見える問いですが、それをちょっと考えてみたい。先に言及したニーアル・ファーガソンの『スクエア・タワー』のなかで、インターネットの情報空間をボルヘスの「バベルの図書館」に譬えている箇所があります。要するに、やっぱりきわめて「広大」だということですね。

(・・・)

 ただ、ここから僕の主観的と言えば主観的な感想になってしまうのですが、インターネットの出現以降、現在に至るまで、ネット空間に対して僕がずっと持ち続けている感覚は、いわく言いがたい閉塞感、内閉感なんです。

 インターネットは確かに現存するあらゆる情報に容易にアクセスできる。そういう意味では一種の全能感みたいなものを体験できるような空間ではある。昔、学生時代、非常にややこしい手続きを経て、それこそ複雑なプロトコルを一つ一つクリアして、ようやくパリの国立図書館で閲覧させてもらえた稀覯本なんかも、今やネットに全ページがアップされていて、東京の自室のパソコンから容易にすべてのページにアクセスできるようになってしまった。そうすると、かつてのあの苦労やそれにかかわった時間が何だったのかという、言いようもない脱力感にとらわれたりもするのですが、ともかくそういう利便性はあるんですね。(・・・)

 しかし、お二人はどう感じておられるかわからないけれど、僕の場合、ネット空間はどこまで行っても自分の自我の内部に手を伸ばしつづけているだけで、その外には出られないという、何か息苦しい内閉性を感じます。自我が棲まう情報宇宙がどこまでも————無限に近いほど————「広大」に拡張されたとしても、そこに自由や開放感があるかというとむしろその逆で、言ってみれば、「無限の広大さのうちに閉ざされている」「無限の情報空間の内部に閉じ込められている」といったパラドックス感が強い、最初に田中さんが触れたディストピアとしてのヴァーチュアル空間といった話とも結びつくかもしれません。そこには、さっきのギャロウェイの議論で言うと、コントロールされた空間の、被管理感、被制御感、被拘束感のほうがむしろのしかかってくるという、まさにそういうこともあるでしょう。

(・・・)

 その息苦しさをどういうふうに表現するかということなんだけど、ひとことで言うと、インターネットには「外」がないと思うんです。「外」と言うときに僕が参照するのは、フーコーがブランショを論じた有名なテクストで、「外の思考」という一九六六年発表の文章です。
 「外」の概念はフーコーにとっての終生のオブセッションで、ドゥルーズもそびフーコー論でひたすらそれにこだわっています。この「外」というのはたんなるエクステリアではない。インテリア(内部)対エクステリア(外部)の二元論じたいを超えて、その分裂じたいを無効化してしまうような絶対的なトポスとしての「外(ドゥオール)」です。そういう極点を、その不在としての現前をフーコーは絶えず夢見ていた。そして、この「外の思考」こそ現代文学にとってのアルファにしてオメガでもあるといったことを考えていた。

 これは西欧の精神史の伝統では、「否定神学」というカテゴリーに安直に入れられて片づけられてしまいかねない概念なのですが、それとは一線を画するものだとフーコーは強調しています。それはむしろサドやヘルダーリンとともに始まった体験である、と。そしてそれは一九世紀後半にもう一度再帰してきて、これはフーコーがいつも出してくる一群の固有名詞ですけれども、マラルメ、ニーチェ、アルトー、バタイユ、それからさらに決定的な名前としてのブランショ、そういう人たちの思考と実践に受け継がれていった「虚」のトポスであるというわけです。

 それで言うと、ボルヘスもまたこの系譜に属するはずなんで、「バベルの図書館」もまた、この絶対的な「外」という概念なしには成立しない文学空間だったのではないか。となるとあの架空の図書館は、やはりインターネットとは決定的に位相を異にする空間と言うべきでしょう。それはあえて言えばあくまでイマジナリー・ワールドであってヴァーチャル・ワールドではない。

 「外」のない空間としてのインターネットがこれほど人間精神の営みに大きな力を持つようになった現在、文学はどのように可能になるのか。沼野さんが最初に提起した「デジタリティ」の時代における文学のありかたという問題に、ここで話が戻ってくることになります。

沼野/今拝聴していて一つ思ったのは、確かに「外」がないというのは、亡命文学や越境的な文学に興味をもってきた私の立場から言うと、ノマド(遊動民)的なものが許容されないよいうことでもあると思うのです。」

(ミシェル・フーコー『外の思考』より)

「ギリシャ的真理は、かつて、「私は嘘つきだ」という、このただ一つの明言のうちに震撼された。「私は話し」という明言は、現代のあらゆる虚構作品に試練を課す。

 この二つの明言は、実を言えば、同じ力をそなえてはいない。よく知られているように、エピメデスの論法は、わざとらしく圧縮されてそれ自体にたち帰るこの言説の内部に、一方がもう片方の目的節であるような二つの分節を識別するならば、論破し得るのである。この逆接の文法的形態は、この本質的二重性を避けようとしても(ことにそのギャ癖湯が「私は嘘つきだ」という単純な形のなかに縫い込まれている場合)むなしい。この二重性を抹殺することはできないのである。あらゆる分節は、その目的説の役割を果たす分節よりも上位の「タイプ」のものであるべきなのだ。目的説−分節とそれを指示する文節とのあいだに反復回帰があること、エピメデスの誠実さが、彼の語る瞬間において、その明言の内容によって危うくされていること、自分が嘘つきだと言っているのは嘘であることも大いにあり得ること————そうしたことはみな、越えがたい論理的障害であるというよりも、一つの単純明快な事実の帰結なのである。つまり、話している主体が、話の対象になっている主体と同じ一つのものであるということの。」

「言語が真理の場および時間の絆として定義されていたときには、クレタ島のエピメデスが、この島の住民がすべて嘘つきであると明言したことは言語にとって絶対に危険だった。つまり、この言語の自分自身に対する絆が、あらゆる可能な真実との結びつきをほどいてしまったのである。だが言語が起源と死の相互的な透明性として露呈されるならば、いかなる人間といえども、「私は話す」というこのただ一つの明言のうちに、みずからの生滅の、みずからの来るべき出現の脅威的な約束を受けとらない者はいないのである。」

(松村圭一郎『小さき者たちの』〜「はじめに」より)

「大きくて強くて多いほうがいい。そう教えられてきた。人口の少ない田舎町よりも、大都会のほうが便利で進んでいる。就職するなら、大企業がいい。小さい店よりも、大きな店。売上や収入は多いほどいい。そうやって、「大きさ」や「多さ」を称える価値観に知らないうちにさらされてきた。
 どんなに偉い人でも、有名な人でも、ひとりでは生きていけないし、いつかはかならず死を迎える。一人ひとりは、みんなちっぽけな存在だ。その人間の小ささや弱さから目を背けるために、大きくて強いものにすがろうとしてきたのかもしれない。
 歴史の教科書に出てくるのも、英雄や偉人たちばかりだ。皇帝とか、国王とか、将軍とか。でも、そんな歴史に名を残した人たちだけで、この世界を動かしてきたのだろうか。彼らの住むところや着るもの、食べるものは、いったいだれがつくったのか。その「偉業」を可能にし、生活を支えたのはどこのだれなのか、
 いまこの瞬間も世界を支え、動かしているのは、教科書には載らない、名もなき小さな人びとの営みなのではないか。文化人類学を学ぶ、エチオピアの農村に通いながら、ずっとそんな思いを抱いてきた。

(・・・)

 小さき者たちの生活は、この世界がどういう姿をしているのか、それを映し出す鏡である。人間は。これまでどんな暮らしを営んできたのか。そこに世界の動きがいかに映し出されているのか。
 本書では、私が生まれ育った九州・熊本でふつうの人びとが経験してきた歴史を掘り下げようとした。とくに私が地元でありながらも目を背けてきた水俣に関するテキストを中心に読み込み、自分がどんな土地で生を受けたのか、学ぼうとした。そこには日本という近代国家が暮らしの何をもたらしたのか、はっきりと刻まれていた。
 小さき者たちの暮らしをたどる。そこから、この世界を考える。
 この試みが、さまざまな土地で営まれている小さき者たちの生活のリアリティと結びつくことを祈りつつ。」

(松村圭一郎『小さき者たちの』〜「おわりに」より)

「私は日本のことを、自分たちのことを何も知らなかった。(・・・)エチオピアに赴いて人類学の研究をするなかでも、つねに「私たち」とはいったい何者なのかが気になっていた。本書は、その問いに正面から向き合うための最初の一歩である。」

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