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西平直『養生の思想』

☆mediopos-2367  2021.5.10

「養生」といえば
貝原益軒の『養生訓』がイメージされ
古い語感さえ受けることから
現代的ではないとも感じられるが
思いのほか「自由」と相性がいい

「養生」は「自分で自分をケア」し
「癒ゆる力(自然治癒力)」を育てるものであり

ひとから治療を受けたりするものでも
神仏への信仰による加護を受けようとするものでもなく

しかも「修行」や「稽古」のように
師匠による指導を受けるほどの
身心への負担の大きいものでもない
また人から評価されて
競い勝つことを求められるようなものでもない

また「健康はまったく個人のもの」であり
「誰も他人の身代わりに健康になることはでき」ない
そうした場所ではじめて成立する

そうした意味で「自由」と相性が良く
「養生」は自律的な身心の自己管理であるといえる

そうした在り方に対して逆の発想をしてみると
ひとからケアされ治療されなければならず
信仰によって神仏に頼らなければならず
厳しい修行によって競い勝たねばならない
というように極めて依存的で他律的
しかもときに厳しく競争的なものとなる

この「養生の思想」は
「この身体をもった現世の生に留ま」るものだが
これを生死を越えた霊的な観点へと拡張したとき
「自由」に基づく現代的な「神秘学」とも
とても相性がよさそうだ

神秘学は信仰ではない
「組織や制度」により規制されるものでもなく
しかも「世俗外」でしか成立しないものではなく
「世俗内」にありながら
一人ひとりの自由にもとづいて自律的に
認識と実践を深めていく魂の学だからだ

さらにいえば
「新宗教や修養思想のように
人生の困難を「自らを磨く試練」として
意味づけたり」することで
ときに中庸を超えた在り方が
強要されるようなものでもなく
極めて現代的なスタイルの思想でもあるのだ

その意味でも「養生」という知恵を
現代的な観点からあらためて見直してみることは
未来に向けたあらたな知恵を得ることにもつながりそうだ

ちなみに本書は
『稽古の思想』『修養の思想』に続き
西平直さんが日本における身体知を
現代的にとらえかえそうとした三部作?の三作目

■西平直『養生の思想』(春秋社 2021.3)

「養生は、医者から治療してもらうわけではない。自分で自分をケアする(労る・休ませる・養う)。しかし「鍛える」ことはしない。鍛える(トレーニング)というほど身心への負荷は強くない(この点は修行や稽古と異なる)。そこで「老いの知恵」と呼ばれることもある。養生は、病後の静養や老後の健康管理を含んだ柔らかな感触なのである。」
「哲学者・三木清は『人生論ノート』の中で、健康は「各自のもの」と強調する。誰も他人の身代わりに健康になることはできない。誰かに自分の身代わりとして健康になってもらうこともできない。健康はまったく個人のものである。「すべての養生訓はそこから出立しなければらなない」。」

「養生とはどういうことか。
 一、養生は(今日の用語で言えば)「健康」を求めた実践である。欲望のままに生きるのではない。適度に自制し人生を楽しむ。健康に生きるための知恵であり習慣形成である。
 二、養生は医学と近接する。しかし治療ではない。治療してもらうのではなく、自ら「癒ゆる力(自然治癒力)」を育てる。自らの工夫によって身心のバランスを制御するセルフケアである。そして予防医学である。症状が出る前の「未病」に対処する。あるいは、「病後の静養」と語られる場合もある。
 三、養生は個人の努力を基本とする。病を悪霊の仕業と見る場合、神仏の加護が必要になる。それに対して、養生は、本人の努力によって予防する。あるいは、努力によって生の時間を延ばそうとする。養生は信仰ではない。」
「四、養生は「気」の思想と関連が深い。人の身体は、気を介して、宇宙や自然とつながっている。養生は、気を養うことであり、気の新陳代謝を促すことである。個人は、直接的に、宇宙や自然と結びつく。人間関係を軽視するわけではないが、組織や制度が中心ではない。養生が組織化されることは少ない。稽古のように「家元制度」を作ることもない。養生は、個人が直接に宇宙エネルギーを取り入れ、それと一体化しようとする。
 五、気の思想は世界をエネルギーと見る。気の新陳代謝とは、エネルギー交換であり、その流れを潤滑にすることである。今日のホリスティック医学は「エネルギー医学」という。それは、実体化された物質相互の関係ではなく、エネルギーの流れ(流体的変容)を見る。養生思想は、西洋近代(科学)とは異なる「エピステーメー(存在・認識論)」に根差している。
 六、しかし養生は世俗社会で実践される。確かに古代中国の「仙人」思想は世俗から離れる道を用意し、「文人文化」はそれを理想としたが、しかし多くの養生は世俗の内側で実践された。庶民の暮らしの中でこそ養生は必要とされる。そしてこの点が「修養」との重なりを複雑にしてきた。あるいは、「科学(西洋近代科学)」との関係を複雑にしてきた。養生それ自身の中に、世俗外の発想と世俗内の発想が併存していたのである。」

「養生には道場がない。師匠もいない。道場に通わずとも日々の暮らしの中で務めることができる。「鍛える」というニュアンスは強くない。そこで「老年の健康法」と理解されることもあるのだが、もちろん老年期に限定されない。むしろ重要なのは、洋上のは「評価」が馴染まないという点である。そこには「段」や「級」がない。特別な「学派」もない。まして「家元制度」などとは無縁であって、伝授における「正統」を競うこともない。養生は初めから庶民向けであり「民生日用」なのである。」
「もう一点、養生は信仰ではなかった。養生はこの身体をもった現世の生に留まる。死後の身体を気遣うとうこともなければ、清らかに死んでゆくという発想もない。養生は現世の社会生活に役立つ実用的な知(処世術)であろうとする。
 さらに、そこには「信じる・任せる」という発想がない。「感謝」も強調しない。ある種の「合理的」地平で、与えられたいのちを最大限生かそうとする。言い換えれば、養生は人生の困難を特別に意味づけることをしない。新宗教や修養思想のように人生の困難を「自らを磨く試練」として意味づけたりせずに、日々健やかに過ごそうとする。寝て・起きて・食べる。生命体としての土台を整えようとする。養生の発想は合理的で実用的である。
 しかし「出世」や「儲け話」とは違う。現世的・世俗的な有用性を重視するのだが、社会的成功を主たる目的としない。」

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