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『「顔」の進化/あなたの顔はどこからきたのか』

☆mediopos-2294  2021.2.26

ひとの五感といえば
視覚・聴覚・嗅覚・味覚・触覚で
それぞれの感覚器官は
眼・耳・鼻・口・皮膚
主な感覚とされる五つのうち
四つまでが「顔」のなかにある
(「顔」にも触覚・触覚はあるから全部ともいえる)

その意味でも「顔は、静的な肉体の一部」ではなく
「コミュニケーション情報を交換する場」だから
わたしたちが人を識別するのもほとんどの場合「顔」である

そして「顔」という言葉には
頸から上の頭部という身体的な意味だけではなく
「個人あるいは社会などを象徴する意味」が含まれている

「口」からはじまる顔の生成や
顔のない動物・顔はあるが頭部と顔の区別がない動物など
生物学的な進化プロセスは本書に興味深く書かれているが
やはり人間にとっては
「人間らしさ」を表現する顔のかたちや表情が重要な意味をもつ

「顔」は世界に対する人のフロントとしても機能するから
人はじぶんの「顔」がどのように見えているか
その「顔」をどのように見せたいかということに
美容整形にもみられるように
涙ぐましいまでのエネルギーを注いだりさえするくらいだ

昨今のコロナ禍で
顔のなかにある「口」と「鼻」がマスクで隠されて
「眼」がさらに強調されるようにもなり
多くの場合人の顔の中心が眼だということが再認識されるが
そのぶんマスクを外したときの顔の印象が
ずいぶん異なるときなど驚かされることもある
鼻もそうだがやはり「口」である

モデル撮影したりするときに
顔を派手に見せるために歯や歯茎を出して笑顔にすることも多いが
あえてそうしなくても日本人の多くは出っ歯(反っ歯)が多い
明治時代に西洋で紹介された日本人の漫画などでも
日本人といえば出っ歯のイメージで描かれていたりする

もともと日本人はそうなのかといえばそうでもないらしい
中世から近代になって食生活が変化し
切歯で食いちぎることが減った関係で
切歯を支える歯槽骨が退縮して
切歯の前方への傾きが強くなったからなのだという

美醜などの問題は別としても
現代に近づけば近づくほど
「顔」の筋肉と骨を鍛えることがおろそかになっている
硬いものを避けて柔らかいものばかり食べることで
切歯で食いちぎるような食べ方が減ってきているからだ

身体をどんなに鍛えても頭をどんなに鍛えても
「顔」の筋肉と骨を鍛えることはできない
食べなくても生きていけるならばそれはそれでいいのだが
上顎と下顎の働きは四肢の働きのように
未来の人間の霊性を作り出していくもとでもある

これから日本人がどんな顔になっていくか
本書ではCGによる未来予測が載ってたりもするが
ほとんど顎のない顔に近づいていくようだ
その是非を云々することはできないが
「健全な咀嚼機能」について再考することも必要だろう

■馬場悠男『「顔」の進化/あなたの顔はどこからきたのか』
 (講談社ブルーバックス 2021.1)

「あなたの顔はどこかややってきたのだろう? そしてこれから、どこへ行くのだろう?
 そもそも動物の顔は、食べるためにできあがった。やがて、外界のさまざまな刺激を感知するようになり、さらには情報を発信するように進化してきた。顔には、さまざまな動物がそれぞれの環境に適応するために努力してきた工夫が満載されている。
 だからあなたの顔は、動物進化が長い時間をかけて生みだした、究極の傑作なのだ。
 それにもかかわらず、あなたの顔には、これまでの動物たちにはなかった悩みが映し出されることもある。」
「あなたの顔には、眉毛があり。眼には白眼がある。頬から高まる鼻があり、中には鼻毛もある。唇がめくれ、赤く染まり、すぐ上に人中と呼ばれる窪みもある。じつはこんな特徴は、ほかの動物には見られないものであり、ヒトが進化の過程で獲得した「人間らしさ」の表出ともいえるものなのだ。そして、こうした特徴が、我々の祖先が文化を生み出し、文明を築くようになった原動力ともなっている。」

「さまざまな器官が集まっている特定の部分が、なぜ「顔」と呼ばれるのかを考えてみよう。」
「顔は、静的な肉体の一部ではない。いつも変化し、エネルギーや情報が出入りする生きた存在である。とくに重要なのは、お互いに相手の顔がどのように見えるか、見られるかである。足が足のように見えなくても、当事者(自分)も他者(相手)もかまわないが、顔にとっては、顔が顔に見えるかどうかは大問題なのだ。それは、意識するとしないとにかかわらず、顔がコミュニケーション情報を交換する場所だからである。人間の場合はまた、顔は年をとるにつれて、人格を代表する存在にもなる。
 顔とは身体の部品(器官)のうち眼、鼻、口、耳などが集まっている領域である。しかし、なぜこれらが1カ所に集まっているのか、そしてその領域を我々がなぜ顔とみなすのかはわからない。」

「顔がない動物とは、どのような動物だろう。
 たとえば、ヒトデなどの棘皮動物やクラゲなどの腔腸動物の体制は放射性相称であり、動きを見ると、動く方向が定まらない。だから彼らには顔がないのだということがすぐに理解できる。
 顔があるかないかややこしいのは、左右相称だが分節構造のない軟体動物である。ハマグリなどの二枚貝には相称性がないように見えるが、本来は左右相称で、前後の区別があり、二枚の貝には左右の区別がある。貝殻以外の軟体部分が左右相称性を失ったのだ。」

「節足動物や脊椎動物の頭部とは、(・・・)体節のうち、前方の数個から十数個が集まって形成されたものである。(・・・)とくによくわかるのは、ヒトの顔を支配している脳神経は12対が順序よく並んでいることである。顔にも分節構造があるのだ。
 ヒトの顔ではどこが最も前なのかはわからないが、ウマやオオカミの顔を見ると明らかなように、最も前なのは鼻であり、最も後なのは頸椎につながる大後頭孔の周りである。」

「顔は、和語では旧仮名遣いで「かほ」であり、現代仮名遣いでは「かお」である。漢字では、「彦」は成人となる男子が額に朱色の文字や線を書いたことを表し(だから「彦」は男子の美称となった)、「頁」は「首」と同様に、頸から上の頭部のことらしい。これらからは、「顔」という言葉には身体の一部としての顔の意味だけでなく、個人あるいは社会などを象徴する意味も含まれていることがうかがえる。」
「ドイツ語で顔を意味する「Gesicht」は興味深い。それは「見る」という動詞「sehen」の過去分詞「gesehen」が変化して受け身の意味をもつ名詞になったものらしく、「見られるもの」という意味もある。(・・・)
 顔が見られるものであることは、昆虫などの擬態に、誇張した目玉のような模様がよく出現することでもわかる。大きな眼を尻のほうにつけて「顔」に見せ、敵を脅かしたり欺いたりする作戦だ。そして顔は多くの哺乳類にとって、とくに嗅覚が退化した霊長類にとって、個体認識のために最重要の見る対象となっている。
 なお、イヌが嗅覚で個体認識をして追跡できるのは周知の通りだが、人間でも、家族の匂いを嗅ぎ分けられる人は多い。(・・・)最近、赤ん坊のときに愛用した匂いつきタオルがないと眠れないという珍妙な子供や若者が増えたが、生活環境が清潔になりすぎて、固有の匂いがないと不安になるのだろう。ヒトを含めた哺乳動物は、つねに匂いを発散し、嗅ぎ合うのが当たり前なのだ。体臭を極端に嫌うヒトが男女ともにいるのは、化粧品会社の戦略にでも乗せられているのだろうか。」

「ほとんどの動物はヒトのように脳が大きくはないので、顔と頭を区別することが難しい。そこで、頭と顔は一体として「頭部」として扱われ、それが見かけ上は顔として認識される。身体の前端に顔があるというのは、一般化すれば、前端に頭部があるということである。したがって、前後の区別のある動物では、前端のほうを「頭側」(顔側ではない)、後端のことを「尾側」(尾がなくても)という呼び方をする。
 また、動物の進化にともなって頭部が重要度を増し、発達する傾向を「頭化」という(顔化ではない)。さらに、脳が重要度を増し、発達する傾向を「脳化」という。ヒトではその傾向が顕著であり、大脳が発達するので、「大脳化」という。こうした傾向は、脊椎動物の胎児の状態を見るとよくわかる。進化にともない、身体に比べて頭部あるいは脳がきわめて大きくなっている。」
「顔はどこからどこまでが顔なのかは、意外にややこしい問題である。サカナは顔と頭が一体なので区別できないし、そのほかの動物でも、一概にはいえない。」

「私たち日本人の顔は、自分では見慣れているので普通の顔に見えているが、ヨーロッパ人やアフリカ人から見ると、ずいぶん変わっている。アジア人の中でも、私たちと同じような顔は北東アジア人にしか見られないのだ。」

「弥生時代に大陸から渡来してきた人々は、日本列島の中央部を占拠し、古墳時代以降に中央集権国家を築き、平安時代にはさらに、貴族階級を形成することになった。『源氏物語絵巻』を見ると、貴族たちは「引目鉤鼻」の平坦でのっぺりした顔に描かれている。富と権力を手に入れ、進んだ技術力と華やかな文化をわがものにした彼らの顔は、「良い顔」「福々しい顔」とみなされ、さらには「日本的な顔」として認識されていった。
 その一方で、大昔から日本に住んでいた縄文人の子孫たちは、中央の権力に従わなかったために、そのはっきりした顔が「人相の悪い顔」「泥棒の顔」とされ、甚だしきは「鬼の顔」にされてしまった。歌舞伎の泥棒の顔は、顔半分が黒く塗られている。つまり、顔がステレオタイプにパターン化され、社会的差別を受けたのだ。(・・・)ただし、明治以降に、欧米の文化が入ってくると、欧米人に対する憧れから、ヨーロッパ人の顔に似た縄文人のような顔に対する偏見が薄れていった。いわば、縄文顔の2000年ぶりの復権といえるだろう。ただし、好まれるか好まれないかは微妙で「バタ臭い(バター臭い)顔」ともいわれた。(・・・)
 昭和の終わりには、「しょうゆ顔」(=弥生顔)と「ソース顔」(=縄文顔)などの表現も生まれたが、その後は漫画やアニメの影響で、子どものような、あるいは中性化された顔が好まれるようになった。さらに平成から令和には。CGで合成された仮想現実の顔が、まるで実際に生きているかのような存在感を醸し出している。」

「縄文人も渡来系弥生人も、顎の骨はしっかりしていて、歯並びもよく、側頭筋や咬筋が発達していたので、現代人に比べるとはるかに硬い食物を食べていたことがわかる。」
「古墳時代人の頭骨は、正面から見ると幅が広く、下顎のエラが出っ張って、いかにも頑丈そうだ。しかし横から見ると、縄文人ほど頑丈ではないことがわかる。」
「さらに、中世から近代になると、切歯で食いちぎることが減少したので、切歯を支える歯槽骨が退縮し、切歯の前方への傾きが強くなり、いわゆる出っ歯(反っ歯)になった。」
「それでも江戸時代の人々は、こうした少数の、身分が高い人々を除けば、全体としてはなんとか健全な咀嚼機能を持っていた。この状態は昭和40年ほどまで続いていたと考えられる。(・・・)
 ところが、最近の子どもや若者では、歯並びの悪い人の方が多いくらいである。」
「学校では、各教科の勉強で頭の脳を鍛えている。また、体育で身体を鍛えている。しかし、頭と身体の中間にある「顔」の筋肉と骨を鍛えることを忘れているのは、大きな問題である。言っておくが、いくら硬いものを食べても、顔の美的要素が損なわれることは決してない。むしろ、口元が整って端正な顔立ちになるのだ。」

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