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栗原康×松村圭一郎×森元斎(構成・辻本力)鼎談「アナキズム会議」(文學界(2022年4月号) 特集「 アナキズム・ナウ」)

☆mediopos2688  2022.3.27

大逆事件で処刑された幸徳秋水の生まれた
高知県の中村(現在の四万十市)で
生まれたというのもあり
大杉栄の名とともに
その意味もよくわからないままだったが
比較的小さい頃から
アナキズムには親近感があった
管理されたり束縛されたりすることに対して
意識的にならざるをえなかったのだ

昨今の国家の行状をみていても
国やそれに紐付けられている政治家は
国民なるものをどのようにすれば管理できるか
そのことを至上の課題としている

そして国民が管理されやすくなるのは
国民が自由になるときではなく
むしろ危機感のもとで生きるときのようだ

特に日本人にその傾向が強いようだが
危機的な状況が訪れたとき
国や政治家を見限るのではなくその逆に
「ちゃんと支配してください」
というようなことになってしまう

「管理」の要請である
じぶんを家畜のような「国畜」にせよということだ
学校教育や医療やもその準備に怠りない

ほんらいアナキズムには
管理されるような仕方ではない
「相互扶助」がその中心にある
ということが議論されるようになっている

相互扶助が一人ひとりの自由から
なされるようになることが基本にあれば
この世もずいぶん生きやすくなりそうだが

現状はまったくその反対で
国家や組織の管理下において
一人ひとりがそれに抵抗するどころか
管理を強く求めることを通り越し
第二次世界大戦下の国防婦人会のように
自粛警察のようなことさえも起こり得ている

もちろん各種メディアやインターネットでも
都合の悪い情報は検閲下において隠蔽削除され
まさに現在は戦時下にあるといっても過言ではない
そして隠された戦意高揚は静まる気配がない

暴力革命は必要ないし避けねばならないが
ハナムラチカヒロの提唱しているような
「まなざしの革命」こそが
今もっとも必要とされていることなのだろう

でき得ればそうした社会的な諸々とは
距離をとりながら生きていきたいものだが
そうするには現代はあまりに困難な時代だ

■栗原康×松村圭一郎×森元斎(構成・辻本力)鼎談「アナキズム会議」
■栗原康「きみは負けるってわかってて、たすけにきてくれたんだよな」
■松村圭一郎「ほんとにアナキズムは可能なのか?」
■森元斎「「ただ生きる」というアナキズム」
(文學界(2022年4月号) (特集「アナキズム・ナウ」文藝春秋 2022/3 所収)

(栗原康×松村圭一郎×森元斎「アナキズム会議」より)

「−−−−近年、急速にアナキズムへの関心が高まりつつあります。少し前までは、どちらかというと暴力革命といったものを連想されることの多かったアナキズムが、ここにきて急激にリアルなものと感じられるようになった背景には何があるのでしょうか。

栗原/確かに、この十数年で大きく状況が変わってきましたよね。それこそ九〇年代後半、僕が大学生のころなどは、アナキズムを勉強しているというだけで「こいつバカなのか」と(笑)。僕が政治学科にいたというのもあるのですが、みんなただの庶民でしかないのに、なぜか為政者目線でしゃべりたがる。「国家なんて別にいらないじゃん」というだけでザワザワって。
 でもコロナ以前からですが、世界的に国家や資本主義に対する不信が高まっていますよね。二〇〇〇年代終わりにはリーマン・ショックで資本主義がふっとんだ。金持ちに好き放題やらせた結果がこれです。日本では原発事故があって、福嶋で甲状腺ガンが増えても、国と御用学者は因果関係を求めない。みんなわかってしまいました。「国はいざというときに民を守らない、都合が悪くなったらすぐに嘘をつく」。(・・・)」もはや国のトップが憲法や法律を守らない。めちゃめちゃな世界になってしまった。「なら、こっちも法なんて守らねえぞ、あばれちゃえ」とか「自分たちのことは自分たちで守らねば」となりますよね。そこに、アナキズム的な言説がスッとハマったのではないでしょうか。

松村/日本の政治状況が、逆説的にアナキズム的な言論の場を作り出してきたということはありますね。(・・・)安倍元首相を始めとした政治家たちこそが、今の日本のアナキストを生み出した功労者だたったわけです(笑)。政治家がいかに信用ならず、害悪かということの見本を示した、という意味で。」

森/アナキズム的なものって、生に対する具体的な問題から出発していることが多い。我々日本人が今抱えている絶望感も、もちろん同様です。(・・・)つまり「我がこと」として参加しやすい問題になったということですね。そうした時、アナキズムというのは一つ使える思想だな、という感触はあります。

松村/(・・・)かつてアナキズムは、「社会のレースから外れた人たちの思想」みたいな形でしか認識されず、「落ちこぼれ」「はみ出し者」みたいなネガティブな言葉とセットでしか理解されなかった。でも本当は、アナキズムは、社会の中で生きることの中に積極的な意味を見出すための考え方でもあったわけです。つまり今、本来の形で−−−−この時代に生き残るための術、ちゃんと人間らしく生きるた、めにプラスに作用するものとして認識され始めたということなんでしょうね。やっぱりみんな社会の在り方とか、既存のルールにモヤモヤしている。その「このままでいいのか?」に言葉を与えているのがアナキズムなのではないか。」

「−−−−現在世界を覆っているコロナ禍とアナキズムとの関係についてお伺いします。先ほどの政治不信のお話にも繋がりますが、日本では3・11以降、国家に対する不信感が募りつつあり、今回のコロナにおける対応をめぐって、それがいや増している。この状況をどう生き延びていけばいいとお考えでしょうか。

栗原/ひどい話ですが、国があまりになにもしないから、みんな「ちゃんと支配してください」になっている気がするんですよね。「ヨーロッパみたいにロックダウンをやってください」と、左派の人ほど言ってしまう状況にある。それでいいのかと。それで気付いたら国の家畜になっているなんてごめんです。ブレイディさんの言葉を借りるなら「国畜」。何もしてもらえないからこそ、国がしっかりしないと死ぬと思いこまされるこの逆説的状況。その結果、自粛警察みたいな人たちが湧いてきたり。僕はこの状況が怖いですし、同じような恐怖を感じている人も少なくないと思う。

松村/ちょっと日本社会が異様すぎると思うんですよね。欧米社会と比べても、みんな真面目過ぎるというか、従順すぎる。日本から出たら、もっと適当だし自由だし、それこそアナキスト的な生き方だってもっと普通なんですよ。日本の場合、ずっと自民党政権だし、戦後作られた制度もかなりそのまま引き継がれているので、自分たちの生活を相対化したり、そこから距離を取って別の視点から考える機会を失い続けてきたのかもしれません。」

「森/松村さんが『くらしのアナキズム』で書かれていたように、日々の暮らしのような、身近な側面にもアナキズムはある、というご意見には強く同意します。そうした視点をもって、我々も一人ひとりがやれる範囲で相互扶助をやっていくべきだと思う。その一方で、アナキズムなるものの中の、ともすればある種の批判の対象にもなる部分も決して無しにして考えてはならないとも思っていて。つまり、生活のアナキズムがあった上で、闘争を含むアナキズムの「運動」も、現代的な視点で捉え直していき、その面白さを広めていきたい。

(・・・)

栗原/僕も森さんと同じようなことを考えています。人が立ち上がって「うりゃあ」となっていく運動的な側面は、つい日常生活と切り離して考えられがちだけど、意外と地続きなものだと思っていて。
 そういう感覚をもう一度よびおこすために、最近は明治時代のアナキスト、幸徳秋水を読んでいます。日本では、かれがクロポトキンの最初のちゃんとした紹介者であって、それこそ「相互扶助」や「パンの略奪」の思想を紹介した。でも、彼の考え方を見ていくと、もともと儒教を学んできた人というのもあって、「相互扶助」がほぼほぼ孟子の「仁」だったりするんですよね。「仁は人の心なり」。要するに、思いやりの心は人が本来持っている心であると。
(・・・)
 優しい人助けであると同時に、権力者のせいで人が困っていたら、たとえ自分が殺されても決起する、みたいな二面性がある。そういう危うさも込みで相互扶助なんです。僕はそれが的外れじゃないと思っていて、クロポトキンもそういう人だったと思います。めっちゃ優しいイメージと、略奪者を略奪せよという好戦的なイメージの同居。その両方の側面を持っているからこそ、統治者・権力者にとってアナキズムは怖い思想なのだと思います。」

(栗原康「きみは負けるってわかってて、たすけにきてくれたんだよな」より)

「相互扶助とは、目のまえで困っているひとがいたら手をさしのべる、ただそれだけだ、だいじなのは、はじめからこれが正しいというたすけあいの方法があるわけではないということ。
(・・・)
 クロポトキンはいう。相互扶助はその「実行によって得られる勢力の無意識的承認」なのだと。おまえがやれ。たんにあれこれと思慮をめぐらせて、これだけの成果がみこまれるから、これだけの見返りがあるからやるというのではない。自(おのずか)ら然る。あたまよりもさきに身体が勝手にうごいてしまう。失敗してもいい。身を滅ぼしてもいい。それでもあたりまえのように手をさしのべるのだ。」

(松村圭一郎「ほんとにアナキズムは可能なのか?」より)

「アナキズムは、国家や市場を下支えし、それを可能にしている無数の無名な人びとの営みに目を向ける視点でもある。(・・・)国家を支え、可能にしている力の源泉はどこにあるのか。これまで権力者や支配者の力だけが過大に信じられてきた。「無力で無能な国家」くらいに思っていて、ちょうどバランスがとれる。」

「アナキズムの基本は相互扶助だ。」

「政治家や国家にはできない「政治」がぼくらにはできる。アナキズムはその一人ひとりのもつ力を信じる思想なのだ。」

(森元斎「「ただ生きる」というアナキズム」より)

「私たちは本来、ただ生きているだけである。ただ生きるというのは欲望に忠実になり、時にそれを節制したりしながら生きることだ。」

「人間は自由に基盤を置くからこそ、その能力が開花できる。それは何度言っても言い過ぎることはない。労働にしてもそうだし、教育にしてもそうだ。」

「自由を奪うのが国家である。(・・・)資本主義は一見自由に見えるが(・・・)そもそもの欲望やその発露である自由をずらり、みかけ上の自由(自由主義や新自由主義の「自由」は全くもって偽の言葉である)を設定し欲望を商品に結実させていくのみだ。」

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