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C・リンドホルム『カリスマ』

☆mediopos-2590  2021.12.19

本書『カリスマ』が刊行されたのは一九九〇年
邦訳は一九九二年だが(本書はその文庫化)
その時点ではまだオウム真理教の事件は起こっていない
にもかかわらず本書ではその事件を
多面的に理解するための考察としても有効である

本書の基本テーマは集団の狂気
あるいは集団形成の核に存在する
特異な人格的威力の「カリスマ」

そのテーマについて理論と実例の両面から
その現象についての考察が繰り広げられている

理論として参照されているのは
ヒューム/ミル/ニーチェ/ウェーバー
デュルケム/メスマー/フロイトなど
実例としてとりあげられているのは
ヒトラーとナチズム/チャールズ・マンソンとそのファミリー
ジム・ジョーンズと人民寺院/シャーマンと共同体である

なぜカリスマという存在があらわれ
そこに信奉者が集まり集団化されるのか

本書で論じられる主な内容について
訳者の森下伸也氏がわかりやすく紹介しているが
その六つの論点をまとめてみると以下の通り

(1)「カリスマ=自己喪失欲望」論
カリスマ現象の最も奥深い源泉は
初期幼児期における自他未分化へと回帰しようとする
自己喪失の願望である

(2)「カリスマ=現代のシャーマン」論
カリスマの形成はシャーマンの成巫過程と
同じプロセスで形成される

(3)「カリスマ=ナルシシズム」論
アイデンティティ崩壊の危機にあたって
カリスマ的パーソナリティないし
ナルシシズム障害を病んだ人格がつくり出される

(4)カリスマ集団の深層相互作用論
ナルシシズム障害を病んだ大衆が
カリスマ的人物の啓示を人格的再生の核とし
自己喪失願望の対象として集合する

(5)カリスマ集団のラベリング理論
カリスマ集団が危険な存在になるのは
集団の構成員が極度の幻想に取り憑かれたり
孤立させられることで
潜在的な暴力が顕在化するときである

(6)カリスマのコンティンジェンシー理論
自己喪失の欲望を満たすべき条件が満たされないとき
集団の狂気があらわれる危険性がある

基本となるのは「自己喪失の願望」である

カリスマを現代のシャーマンとしてとらえたとき
その人格が形成される過程は上記の(2)の説明では

自我構造の徹底的な破壊
 →自明な世界の完全な崩壊
  →誇大妄想をともなった啓示の経験
   →新しい人格としての再生

となっているがその過程は
古代のシャーマンのようなありようではなく
アイデンティティ崩壊の危機にあたってつくられた人格や
ナルシシズム障害としてあらわれる

そしてその人格のもとに信奉者が集まり
みずからの自己喪失願望を実現させようとする
それがネガティブなかたちで発現しなければ
その集団は危険なものとなることは少ないが
いわば過剰なまでの反社会的な幻想を伴い孤立するとき
危険な存在として顕在化されることになるわけである

しかしおそらく私たちが意識しておく必要があるのは
そうした「自己喪失の願望」は特別なものではなく
わたしたちは多くの場合
日常からじぶんを解放させてくれるものとして
なんらかのかたちでそうした
「自己喪失の願望」を充足させようとしていることだ

それは現代的な消費活動もそのひとつだし
国家などの集団や共同体への愛着
芸能人や有名人への投影
ロマンティックな恋愛
権威への畏敬
そしてもちろん宗教的な帰依なども
「自己喪失の願望」のあらわれである

それらは愛や聖なるものがもつ
両義性としてもとらえることができるだろうが
みずからの自我の発達プロセスに無頓着な場合
それらもなんらかのかたちでの危険性をともなって
顕在化される可能性をもっている
自我はそれほどに危ういものなのだ

■C・リンドホルム(森下伸也訳)『カリスマ』
 (ちくま学芸文庫 筑摩書房 2021/12)

「カリスマの通俗的なイメージにとって決定的に重要なのは、明らかに、もって生まれた資質で他者を惹きつけるきわだったカリスマ的個人の存在である。カリスマの本質をなすこの磁石のような資質は、ごくわずかな人間しか自分の基本的性格の一部として「所有する」ことのできないもの、と考えられている資質である。カリスマは学習されるのではない−−−−それはちょうど背丈や目の色のように存在しているのだ。
 だがカリスマは、身体的な特徴とちがって、それを欠いた他者との相互作用のなかでのみ出現する。換言すれば、カリスマは個人に内在する何かと考えられるけれども、ひとはその資質を他者から隔離された状態で発揮することはできない。それが露わになるのは、ただその影響を受ける人々との相互作用のうちにおいてのみである。カリスマとは、何よりもまず、ひとつの関係、指導者と信奉者両方の内的自我が関与する相互交流なのである。したがって、もしカリスマ的な人間がひとを服従せしめる力をもっているとしても、その信奉者は服従させられることにぴったり合うような能力をもっていなければならないわけで、もしカリスマを理解しようと思うなら、われわれは指導者ばかりでなく信奉者のパーソナリティ形態をつくり上げているんは何なのかを考えてみる必要があろう。
 だが、指導者と信奉者の相互作用とは別な、もうひとつの側面がある。指導者のまわりに集まる群衆(あるいは恋人に惹きよせられる人間)は、興奮しやすさ、非利己性、感情的激しさといった一定の特徴を、彼らが一人の個人でいるときの通常の意識よりも強くしめすために、また魅惑されている人間がカリスマ的他者への崇拝のうちに個人としてのアイデンティティをうしなってしまうために、カリスマは西欧社会において、物理学者が言うような意味での「強い力」として感じられるのだ。そしてそれは、信奉者がそれぞれ各自の自我を−−−−そしておそらくは指導者の自我をも−−−−超越し変形させるようなやり方で、人々をたばね上げるのである。(・・・)
 このダイナミズムは途方もなく強力で、かつ著しく両義的な、つまり激しく願望されるものでありながら、同時に激しく恐怖されるダイナミズムであり、また道徳的には、利他的愛の頂点でありながら同時に残忍なファナティズムの深淵であるものと想像される。」

「(自我の限界を脱出しようとする深い)願望は社会環境のあり方によって多様な外姿をとる。非日常的な無我の状態に到達できる一つの方法が、移ろいやすい気質をもったカリスマ的指導者という霊感喚起的な人物によって結合された集団に所属するのだということを、われわれは見てきた。シャーマニズムの社会にあっては、カリスマに関与するそうした経験が生活の日常に組みこまれ、現にある世界を強化する。自分たちが不当なものとみなすシステムに人々が虐げられ抑圧されている、あるいは無意味なものに見える社会のなかで人々が無気力になっている、より複雑な社会システムにおいては、ひとはエクスタシーてき交感に参加する機会をあたえてくれるばかりでなく、堕落した世界に対する変革運動を導く約束もしてくれるカリスマ的救済者を待望するであろう。」

「現代社会の世俗的領域には非常に多くの選択肢が機能しており、それらはカリスマがもたらすのと同質の、しかしおだやかに飼いならされた熱狂の経験をあたえている。たとえばアメリカでは、消費の倫理が重要な共同体的機能をはたしている。なぜならそれは、自由企業の倫理が設定する目標が現実に到達可能であること、我慢強さと総称の運があればだれでもそれに参加し成功することを、社会に対して証明するものだからである。自分の選好に耽溺する可能性、したがってまた衒示的消費で自己の価値を証明する可能性は、共創主義的な枠組みにもかかわらず、わかちあいの感情をもたらす。(・・・)
 このような文脈で言えば、商品を買う行為は共同体におけるひとつの儀礼であり、商店街は他人とつどい、日常意識からの快適な離脱を集団のなかで楽しむ舞台となっている。抑鬱状態にある人々が夢中になって大散財する事実は、物質的財の誘因力ではなく、むしろそうした微弱な形態の交感状態がもつ魅力を語っているのだ。
(・・・)
 市場そのものがうまく機能しているかぎりは、物質的な満足と一般的な参加感覚がより強制的でリスクが大きいカリスマ運動に巻きこまれることを未然に防ぐ。もちろん経済が破綻すれば、人々は自信を喪失し、おそらくはカリスマ的な関わりによって、集合的な力を回復するための新しい道を求めることもあろう。
 カリスマ運動のメンバーとなることに対するもうひとつの代替的選択肢は、個人と国家全体のあいだに育まれる強い愛着である。国家に対する民衆の強度の長女的関係は家族や近隣的紐帯の解体と密接に結びついており、その結果として、国家は共同体に参加する感覚の中心的な源泉となる。」

「現代の問題はカリスマ的な経験そのものではない。というのは、「カリスマ」とは結局のところ、恩寵の賜物を意味する言葉だからである。それは本質的に、世俗的な世界の疎外と孤立の外部にあって、それと対立する根源的な超越の瞬間をもたらす直接的なエクスタシーの経験−−−−これは日常生活を構築するための土台となる記憶である−−−−、ということ以上の実質的な内容をもたない。ウェーバーやデュルケムによって確立され、心理学的な理論によって異なった表現をあたえられたパラダイムが主張しているのは、実のところ、社会は自己と他者の深い情動喚起的な交感、理性ではなく生きられた生命力をもたらす交感をその基礎としているということであった。人間を充電するこうした境界の超出がなければ、もはや生はその醍醐味を損ない、行動は力を欠き、世界は色彩をうしなって単調さのうちに沈むであろう。
 だから問題なのは、このような無我と交感というモーメントが今後も存在しつづけるかどうかではない。それはわれわれ人間の不可欠な条件の一部である。問題なのは、そうしたモーメントがどのような形態をとるかということなのである。」

(「訳者まえがき」より)

「『カリスマ』という標題から察せられるように、本書の主題は、集団の狂気という人類の古くて新しい問題である。」
「多くの理論家が自己の思想的生命を賭けて−−−−場合によっては文字通り命がけで−−−−立ちむかってきたこの問題に、著者は思想史、社会学、心理学、精神医学、宗教学、人類学など多方面の文献やフィールドワークを広く渉猟し、先達の知見を吸収しながら、「カリスマの総合理論」とよぶにふさわしい大胆かつ精彩にとんだ考察と主張を展開している。
 老婆心ながら、読者の便宜のために本書の要点を列挙しておこう。
 (1)「カリスマ=自己喪失欲望」論・・・・・・カリスマ現象の最も奥深い源泉は、自己喪失の願望、すなわち初期幼児期における自他未分化の溶解状態へ回帰しようとする、人間の終生変わることのない根源的かつ普遍的な欲望にある。その欲望を満たすものであるという点で、宗教的・政治的カリスマ集団への参加は、祝祭における集合的沸騰、恋愛、アイドルやスターへの傾倒、国家的シンボルへの同一化、アルコールや麻薬への耽溺など、基本的に等価である。
 (2)「カリスマ=現代のシャーマン」論・・・・・カリスマ的指導者は多くの場合、境界的パーソナリティあるいは深刻な自己愛障害の持ち主であり、そうしたパーソナリティは、〈自我構造の徹底的な破壊→自明な世界の完全な崩壊→誇大妄想をともなった啓示の経験→新しい人格としての再生〉という、シャーマンの成巫過程とほぼ同一のプロセスをたどって形成される。
(3)「カリスマ=ナルシシズム」論・・・・・・複雑な社会構造と社会変動の恒常化のため、アイデンティティがつねに崩壊の危機に瀕している現代の社会には、大なり小なりのカリスマ的パーソナリティ、またそれに近いナルシシズム障害を病んだ人格が、たえず大量につくり出される条件がそなわっている。
(4)カリスマ集団の深層相互作用論・・・・・・ナルシシズム障害を病んだ大衆は、彼らのいわば先達であるカリスマ的人物の啓示を人格的再生の核とし、彼あるいは彼女を自己喪失願望の対象として集合することによって、カリスマ集団が成立する。一方、追随者集団の存在はカリスマ的人物にとって、自己の誇大妄想を維持と、人格の解体をくいとめるための絶対条件である。軽度の患者たちが重症患者のもとに惹きよせられてでき上がる信奉者と指導者の関係は、こうして相似した欲求の相互作用・相互充足をその本質とする。
(5)カリスマ集団のラベリング理論・・・・・・カリスマやカリスマ集団それ自体は善でも悪でもない。それが危険な性格を帯びるのは、何らかの危機的社会状況によって集団の構成員が極度の幻想に取り憑かれる場合、また「異常」というレッテルを貼られて孤立させられ、それぞれの集団に固有な反社会的病理性や、集団そのものに潜在的にそなわっている暴力性が肥大し顕在化していく場合のみである。
(6)カリスマのコンティンジェンシー理論・・・・・・「ナルシシズムの時代」である現代にあっても、社会秩序が相対的に安定し、自己喪失願望を充足する他の選択肢が機能しつづけるかぎりにおいては、カリスマ集団という選択肢は採られることが少ないし、カリスマ集団もそれに偏見をもって排除するというかたちで接しないかぎりは、危険な性格を帯びることはないであろう。だが、現代は自己喪失の欲望を満たすべき人間間のエロス的接触がますます乏しくなりつつある時代であり、もしそうした条件が満たされない場合には、集団の狂気という亡霊が何度でもあらわれてくるにちがいない。」

【目次】
第I部 序説
第1章 序説

第II部 理論編
第2章 「あるがままの人間」――情念の社会理論
第3章 非合理なものの社会学――マックス・ウェーバーとエミール・デュルケム
第4章 催眠と群集心理学――メスマー、ル・ボン、タルド
第5章 エディプスとナルシス――フロイトの群集心理学
第6章 カリスマは精神の病か、それとも再社会化か
第7章 カリスマの総合理論

第III部 実例編
第8章 「取り憑かれた従者」――アドルフ・ヒトラーとナチ党
第9章 「愛こそわが裁き」――チャールズ・マンソンとそのファミリー
第10章 「あなたが知る唯一の神」――ジム・ジョーンズと人民寺院
第11章 「聖なるものの技術者」――シャーマンと社会

第IV部 結論
第12章 今日のカリスマ

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