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北野圭介『情報哲学入門』

☆mediopos3378  2024.2.16

二一世紀のはじめころ
カーツワイルが「シンギュラリティ」という用語を使い
「二〇四五年にはコンピュータの知能が
人間のそれを越えるだろう」と言って以来
昨今のChatGPTをはじめとしたAIが象徴するように
情報技術に関する問いを避けては通れなくなっている

わたしたちは日々
情報を得るためのツールを手にし
多岐にわたる情報を得て生活しているにもかかわらず
実際のところ「情報」なるものについて
明確な視点を持ちえないまま
ともすれば与えられた情報を受容するばかりとなっている

けれども「情報とはなにか」という問いに対し
それに関わっている研究者にしても
その明確な見取り図といったものさえ
提示し得ているとはいえない

そんななかで本書
北野圭介『情報哲学入門』は

技術の未来に関わる領域については
カーツワイル(ポスト・ヒューマン論)
ボストロム(スーパーインテリジェンス論)
テグマーク(生命システム論)の視点から

経済の未来に関わる領域については
マカフィーとブリニョルフソン(第二のマシン・エイジ)
ズボフ(監視資本主義)の視点から

政治の未来に関わる領域については
フクヤマ(テクノロジーの政治学)
サンデル(守るべき美徳)
ハラリ(自由主義の擁護)の視点から

「情報と人間」の関わりに関する
現時点でおこなわれている論点が紹介され
「情報」がもたらすであろう
未来の見取り図を与えてくれる

そうした代表的な論者の視点は
決して楽観的なものばかりではない
むしろ未来に警鐘を鳴らす視点が多いが
それらの視点をガイドとすることで
そこから重要な示唆を得ることができる

上記の技術・経済・政治における情報という問いは
いわばマクロ的な視点だが
本書ではそれに続き
情報処理研究におけるミクロ的な視点の現在も示唆され

さらにマクロ的な視点とミクロ的な視点のあいだに立ち
世界・社会・人間を「セッティング」するための
「情報の実践マニュアル」として
《思考のヒント1〜17》が提示されている
(以下の引用を参照のこと)

「情報」への問いは今後さらに重要となり
ますますその全体が見通せないものになってきそうだが
そんななかで本書は少なくとも
どのような態度をとり得るのかについて考えていくための
重要な導きとなってくれるように想われる

AIなどの「道具」に使われ
無自覚なまま情報に操られるのではなく
むしろ有効に使うことができるようになるためにも

■北野圭介『情報哲学入門』
 (講談社選書メチエ 2024/1)

*(「はじめに」より)

「こんにち「情報」という言葉が指し示す意味は、なんと多岐にわたることか。日常生活のやりとりの中での多様な使い方はもとより、巷には、企業情報、医療情報、顧客情報、ホームページの情報、SNS上の友人た知人の近況情報などなど、わんさかわんさかだ。」

「情報なるものは、その個々の内実も、全体の実態や挙動も、不確かなままわたしたちに浸透しているのだ。情報はいまや、まったくもってつかみどころのないまま漂っていて、わたしたちの個々の生をとり撒いている。
 だからだろうか、自らの生活が情報テクノロジーに、とりわけデジタルテクノロジー技術にますます媒介されはじめているという事態は、高揚感をもたらしたり、逆に、いいしれぬ不安をかき立てたりもしている。」

「そもそも、わたしたちの思考自体、情報なるものを抜きにしては一歩も進まない————そうため息を漏らしてもおかしくない、そんな状況だということだ。」

「二一世紀が明けてほどなく、ひとつの語が登場するや世界中をかけめぐり、会議室から居酒屋にいたるまで、あちこちで高揚、覚悟、諦め、焦り、さまざまなリアクションを触発した————「シンギュラリティ」だ。ジャーナリストでもあり研究者でもあるレイ・カーツワイルが、二〇四五年にはコンピュータの知能が人間のそれを越えるだろう、と言い放ったのである(カーツワイル 二〇〇七)。この語が放ったインパクトはじつに大きかった。少なくとも、アカデミズムをはるかに越えて、政治家やビジネスマンが大きな声で口にする言葉になっていったのだ。」

「「シンギュラリティ」という言葉が起爆剤となり、「ケンブリッジ・アナリティカのスキャンダル」g台風の渦巻きとなって、アカデミズムからジャーナリズムにいたるまで、情報技術が約束する未来に賛同する側と反対する側の双方が、それまで以上に熱く議論することになった。人間はついに完全な満足が手に入る段階に突入したと言祝ぐユートピア論から、人間なるものがロボットに乗っ取られるぞといったディストピア論まで、多種多様な見解が現れ、喧々諤々、論議が巻き起こったのだ。そしてそれは今日にいたるも継続している。この「情報」という言葉の曖昧な輪郭、つかみどころのない磁力がいっそう視界に浮上してきたようにも思える。」

*(「序章 情報という問い」より)

「二一世紀のいま現在、「情報」という言葉がかたちづくる光景の無定型ぶりと無軌道ぶりは、「情報」なる言葉を何か特定の規定を基軸にして考察することを許さない。だが、翻っていえば、「情報」と呼ばれる現象は人類史にとってどのように立ち現れているのかを見定める好機でもあるかもしれないのだ。もっといえば、それこそを見究める必要があり、そうすることで「情報」の世界に介入する一助となる攻めの知になりうるのではないかとさえ想いはふくらむ。」

*(「第I部 情報がもたらす未来」より)

「情報哲学と銘打った本書の導入部として、第I部では、「情報」という語が、その作動範囲をどの程度まで深め、そして拡げてきているのかについて、二一世紀も二〇年以上過ぎた現時点で観測することを目指したい。」

「ここでは、三つの知的領域に照準を合わせて作業をすすめたい。(1)技術の未来に関わる領域、(2)経済の未来に関わる領域、(3)政治の未来に関わる領域、である。

☆ダイアグラム1

*(「第I部 情報がもたらす未来」〜「第1章 情報と技術の未来」より)

「情報技術が形づくっている未来に関して、ほとんど手放しで祝福するカーツワイル。他方、その実り多き社会像に関しては希望を託すものの、正統派の科学哲学者の立場から情報技術開発の主要プロジェクトを精査し、合理的かつ穏当なロードマップを示しながら、来るべき難事を警告するボストロム。さらに、物理学者の立ち位置から情報技術が切り拓いていく地平の生命体の新しい未来を予知し、そこに見出される諸課題への防御策を講じるべきだと説くテグマーク。自らがどの論者に一番近いか、思考を巡らしてみるのも面白いブレーンストーミングになるだろう。」

「それぞれの論者は人工知能開発というトピックを軸足にし「シンギュラリアン」と大きく括ることができるものの、三者三葉の特徴をあえて浮かび上がらせる(・・・)。わたしたちが二一世紀に差し掛かろうとするいま、視野に収めておくべき論点の析出に向かうステップをすすめたということである。具体的には、明るい未来を展望する者と暗い未来を展望する者、個体としての人間に照準を合わせる者と集団に照準を合わせる者。そもそもが、人工知能を位置づけるのに、情報技術の核として捉える者と、情報技術の多様な具現の集合体と考える者と、技術炉をはるかに越える宇宙や生命の尺度から捉える者。それぞれに、論の内実はかなり異なる方向性をもっていた。」

☆ダイアグラム2

*(「第I部 情報がもたらす未来」〜「第2章 情報と経済の未来」より)

「本章では、情報技術が将招来する未来にかかわって。人間の具体的な活動、とりわけ経済活動の次元において、どのような展望をもつことができるのか。それを、マカフィーとブリニョルフソンの論を明るい展望の典型として、ズボフの論を暗い展望の典型として見てきた。
 そこに浮かび上がってきたのは、情報技術がもたらす未来の予測には、〈個人−集団〉の軸に、もしかすると〈人間の集まり〉といったレンズも必要なのかもしれない、ということである。マカフィーとブリニョルフソンが「企業」、ズボフが「社会」と呼んだ実在だ。前章で見た技術文明論、とりわけボストロムとテグマークが、〈個体としての人間〉と〈集合としての人間〉の間で、なにがしか競合する〈人間の集まり〉同士を予測せざるをえなくなっていたことを思い返してもいい。これは具体的な人間の活動の局面を考えようとするときにはなおさら考慮に入れないわけにはいかないポイントとして浮上するものだろう。」

☆ダイアグラム3

*(「第I部 情報がもたらす未来」〜「第3章 情報と政治の未来」より)

「情報をめぐる関心が政治の言説の圏域にまで及んでいること、それを本章ではみていくことにしよう。」

「(政治学者のフランシス・フクヤマ)は、バイオテクノロジーという科学秘術の行方に関する大きな課題について、自由民主主義によって「人間の尊厳」を擁護する意思決定手続きこそが不可欠である、という結論に到る(・・・)」

「(哲学者マイケル・サンデル)にいわせれば、バイオテクノロジーが実現(強化)していくと標榜している理想の多くは、個体としての人間の満足を最大化するプロジェクトにほかならない。最大多数の最大幸福という素朴な功利主義的な発想の背後で走っているのは個人を単位とした計算主義ロジックである。そうしたロジックは、人間が互いに信頼し合いながら築き上げてきた価値、集団として共有される美徳、そこにおいてこそ了解される人間としての尊厳などを端的に損なうものにしかならない。」

「フクヤマの論立ては、(・・・)情報テクノロジーに関わっては、それをあくまで中立的な「道具」として了解している向きが強い。バイオテクノロジーは「人間の尊厳」を脅かすものであるが、それは自由と民主主義の精神が損なわれるからであった。他方、サンデルにあっては。テクノロジーはときとして人間の美徳にそのまま侵襲してしまう怖れのあるものだ。哲学の営為は都度、テクノロジーの侵襲から人間の美徳、人間の尊厳を守ってやることが求められるということになるだろう。」

「(歴史学者ユヴァル・ノア・ハラリ)が注意を促すのは、(・・・)アルゴリズム主義が「求職者の採用」に適用されることが招く経済体制上、さらには社会体制上の帰結である。プログラムをデザインする人が、意識的にせよ無意識的にせよ、雇用条件に関わるなにほどかの論理基準をそこに反映させてしまった場合、どのような求職者が当該企業に、あるいはそれと似たプログラムをもつ多くの企業に採用されてしまうか、という自体の帰結である。
 こういっておこう、リベラリズムを否定するコミュニタリアニズムは、ややもすると特定の美徳を過度に持ち上げ、穏当な水準での公平性や平等性の社会的な仕組みを人間の尊厳にとって価値のないものとして退けてしまいかねないように映るのだ。
 こうした事態を回避するためには、つまり人間がいま享受している「自由意思」の権限を奪われないためには。「一握りのエリート層の手に富と権力が集中するのを防」ぐことができるように、「データの所有権を統制することが肝心」だろう、という具体的な施策もハラリは示している。」

☆ダイアグラム4

*(「第II部 情報哲学の現在」より)

「第II部では、狭い意味での哲学研究それ自体においてなされている、いわば原理論的な思考の代表的なものをとりあげて考察したい。あえていえば、「情報とはなにか」という問いをミクロ的な観点から掘り下げて精査する思考といってもいいだろう。」

「そうした情報をめぐるこんにちの思考のうち、もっとも先鋭的な二つをとりあげ、考察したい。イタリア出身であるもののオックスフォード大学を拠点に活躍するルチアーノ・フロリディの情報哲学」、そして間違いなくこの分野における日本を代表する研究者である西垣通の基礎情報学である。」

*(「第II部 情報哲学の現在」〜「第4章 情報の分析哲学」より)

「フロリディの論では。情報が関わる意味作用は多様であり、したがって情報がなす実在も多様である————彼は、自らの考える情報存在論は、デジタルという観念を過度に作動させて、一元化した実在を唱える立場とは異なる、とも論じている。情報がなす実在の間の相互作用は、したがって多岐にわたり、一元的に捉えうるものではない。そういう前提がここにはある。」

「この時代において、私たちが直面している問題は、技術がいつか人間を凌駕するのではないかという問題ではない。そうではなく、人間が関わるインフォスフィアのいかなる部分を機械にどのように代替させるかという問題をどこまで人間知性(intellect)で見極めることができるのか。という問題なのだ。インフォスフィアを成り立たしめている実在は多岐にわたるからである。
 フロリディによるこれらの主張が導くのは、「シンギュラリティ」をめぐる議論は「憶測」
の閾を出ないものであり、その無香性は自明である、という主張だ。」

*(「第II部 情報哲学の現在」〜「第5章 情報の基礎づけ」より)

「西垣の基礎情報学の特徴として、次のような点が浮かび上がってくる。
 第一に、マクロ的な視座からいえば、まず汎生命主義が独特な存在論を呼び込んでいる。それはメタ存在論的な世界理解を組み立てるものになっており、思弁的実在論などと半ば共鳴し半ば競合する先鋭的なのものである。情報が環境になった時代の存在論の更新について。機械情報ではなく生命情報を基軸に置き、畢竟、機械的自然観と異なる、もっといえば人間関与以前の物理的自然(自然の斉一性を前提としないもの————前提とすれば機械的自然観と同じになる)とも異なる、生命活動を核にした世界図式を提示するものになっているのである。
(・・・)
 第二に、ミクロ的な視座に関わるのだが、情報をめぐる概念整理にあたって、分子生物学や生命科学が先端的な科学の地平を拓きつつあるこんにちにあってはなされてしかるべきはずの区分け、シグナル的情報とシンボル的情報の区分けにすぐれて鋭敏に対処している。これは第一の点とも呼応するものでもあり、理論的体系性においては、吉田の情報学よりも汎生命主義がいっそう貫かれたものになっているといえる。生命情報を自らの基礎情報学の土台に置くという西垣にお意図は、それほどまでに徹底されたものなのである。」

「意味なるものを統語論の地平に回収しようとするフロリディと、生命現象の奥行きを重ね合わせようとする西垣は、人間にとって意味なるものをいま再考する際のポイントを与えてくれるだろう。フロリディと西垣はそれぞれの仕方で知能と身体の関係、すなわち情報の時代における心身問題の組み立て方について、再考を促しもする。また、存在とは何か、世界のなかで在るということはいかなることかにまで両者の情報理論が切り込んでいるのも、みてきたとおりだ。」

*(「第II部 情報哲学の現在」〜「第6章 人工知能の身体性」より)

「いったいどこで(心の働きのひとつだといわれてきた)知能は働いているのか、という心身問題が浮かんでくる。心と身体を区分けすることを前提とした上で、その関係を考察しようとする身心問題ではなく、心と身体のそれぞれがそもそもいかなる実在的身分をもちえているのかを根本的に再考しなくてはならないという意味合いでの心身問題である。デカルト以前の(もっといえば、デカルト以前の身心図式を謳うものの情動論にとどまっている脳科学者アントニオ・ダマシオ(一九四四年生)というデカルト以前よりもさらに溯る)身心をめぐる問いにわたしたちを引きずりこむ、といってもよいだろう。
 人工知能とロボットの関係は、哲学を巻き込む深い問題群を形作っているのである。」

*(「第III部 情報の実践マニュアル」より)

・第I部における情報をめぐる構想論の代表的な考え/二つの極からなるスペクトラムrとしての有効性の提示

「《思考のヒント1》個体としての人間 ⇔ 集団としての人間
 《思考のヒント2》人間活動の生産力 ⇔ 人間活動の自律性
 《思考のヒント3》人間中心主義 ⇔ 非人間主義というパラメータ」

・第II部/方法に関わる現理論的な考察のための立場

「《思考のヒント4》情報にかかわる質的な分類の必要性
 《思考のヒント5》情報と物的技術の間の曖昧な関係性
 《思考のヒント6》情報にかかわる究明的な世界観/制作的な世界観

*(「第III部 情報の実践マニュアル」〜「第7章 世界のセッティング」より)

「《思考のヒント7》制作的世界観と究明的世界観の作動を複眼的に捉える。」

「《思考のヒント8》世界は、情報の内容のみならず、情報の「挙動」の観測も重要だ。」

「《思考のヒント9》情報の世界への波及は、「効果」と「制御」という両面から捉える。」

「《思考のヒント10》複数の世界の乱立という状況を受けとめる。」

「《思考のヒント11》世界は、環境(構造)としてよりも、ダイナミックな生態系として捉えた方がより的確である。」

「《思考のヒント12》必要があれば、形而上学的思考のアップデートを意識することを怖れない。とはいえ、メタ形而上学はウルトラ抗争主義になりかねないので、その手前で踏みとどまることが必要だ。」

*(「第III部 情報の実践マニュアル」〜「第8章 社会のセッティング」より)

「「《思考のヒント13》情報技術は、「社会」概念を一新する可能性を胚胎していることに留意する。」

「《思考のヒント14》「人間交際」としての社会に情報技術が介入し、意思疎通の基盤が揺さぶられはじめている。」

「《思考のヒント15》情報技術が関わるコミュニケーションには多様な物質が関わる。」

「《思考のヒント16》情報においては、認識上の作動だけでなく行為上の作動も重要である。」

*(「第III部 情報の実践マニュアル」〜「第9章 「人間」のセッティング」より)

「《思考のヒント17》こんにちにあっては。人間と非人間の間、人間と動物の間、人間と無生物の間、それぞれの水準での倫理が問われている。」

○目次

はじめに

序 章 情報という問い

第I部 情報がもたらす未来
第1章 情報と技術の未来
一 カーツワイルのポスト・ヒューマン論
二 ニック・ボストロムのスーパーインテリジェンス論
三 マックス・テグマークの生命システム論

第2章 情報と経済の未来
一 マカフィーとブリニョルフソンによる第二のマシン・エイジ
二 ショシャナ・ズボフの監視資本主義

第3章 情報と政治の未来
一 フランシス・フクヤマと「テクノロジーの政治学」
二 マイケル・サンデルと「守るべき美徳」
三 ユヴァル・ノア・ハラリと「自由主義の擁護」

第II部 情報哲学の現在
第4章 情報の分析哲学
一 第一哲学としての情報哲学
二 機械情報の振る舞いを把捉するための情報概念の再定義
三 情報技術を再定義し、情報化された環境における生の条件を問う
四 知能(インテリジェンス)とは何かを再定義する

第5章 情報の基礎づけ
一 生命情報、社会情報、機械情報
二 情報とは何か――パターンのパターン
三 情報学が揺さぶる哲学的思考
四 情報論的転回は大文字のパラダイムチェンジか
五 シグナルの存在論、シンボルの存在論

第6章 人工知能の身体性
一 知能は実装されるのか、知能は生成するのか
二 ロボットのなかの「知能の誕生」(ピアジェ)

第III部 情報の実践マニュアル
第7章 世界のセッティング
一 交差する二つの世界理解図式
二 複数の世界像の乱立
三 「世界像の時代」の果て

第8章 社会のセッティング
一 「社会とはなにか」という問いを変容する技術
二 コミュニカビリティに関わるデジタル・メディア
三 行為の時代

第9章 「人間」のセッティング
一 自己表象の時代
二 自由意志のデザイン─世界は誰が設計するのか
三 「人間」の溶解、あるいは民主主義の溶解


文献一覧
あとがき

○著者プロフィール
北野 圭介 (キタノ ケイスケ)
1963年、大阪府生まれ。ニューヨーク大学大学院映画研究科博士課程中途退学。ニューヨーク大学教員、新潟大学助教授を経て、現在、立命館大学映像学部教授。専門は、映画・映像理論、メディア論。ロンドン大学ゴールドスミス校客員研究員(2012年9月-13年3月)、ラサール芸術大学客員研究員(2022年6月-11月)、ハーヴァード大学エドウィン・O・ライシャワー日本研究所客員研究員(2023年11月-24年3月)。
主な著書に、『新版ハリウッド100年史講義』(平凡社新書)、『映像論序説』、『制御と社会』、『ポスト・アートセオリーズ』(以上、人文書院)ほか。
主な訳書に、デイヴィッド・ボードウェル+クリスティン・トンプソン『フィルム・アート』(共訳、名古屋大学出版会)、アレクサンダー・R・ギャロウェイ『プロトコル』(人文書院)ほか。

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