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保坂和志「連載小説64/鉄の胡蝶は記憶を夢は歳月に彫るか」(群像)/酒井隆史『賢人と奴隷とバカ』/デヴィッド・グレーバー /デヴィッド・ウェングロウ『万物の黎明/人類史を根本からくつがえす』

☆mediopos3281  2023.11.11

このところ酒井隆史の名をよく目にする
『自由論』や『通天閣』といった著書もあったが
最近ではこのmedioposでもとりあげた
『賢人と奴隷とバカ』という著書
そして『万物の黎明』という訳書がある

その酒井隆史と保坂和志が
この十一月十八日に対談するそうだが
保坂和志の連載(「群像」)
「鉄の胡蝶は記憶を夢は歳月に彫るか」の第64回は
その対談の「助走」として書かれている

そのなかから以下の3点について少し

AI的な文章とそうではない文章との違い
そのこととも関連した一貫性と不完全性のこと
そして言葉では説明できないこと

まずAI的な文章とそうではない文章との違いについて

AIによる文章作成は
「一回の作業ごとに作業時間ゼロ」で
「作業の開始と終了のあいだで作業主体たるAIは変化しない」
つまりその作業において完全に一貫している

それに対してふつう私たちが考えながら書くとき
あるいは話すこともそうだが
それは「不完全」にならざるをえない

「事前のプランがあったとしてもその通りにはならず
書きながら、書く日々を通じて気持ちが変わったり
方向を直したりする」
そしてそれを読むあるいは聞く私たちも
それとともに考えるプロセスを歩んでいく

そのことについて保坂氏は
ある「AIを批判する論考」を読んで驚いたという

「その文章は正しいことしか書いてないが
正しいことの向こうに踏み出して
あぶないことまで言おうとしていない」
「このタイプのAI批判の文章は
近い未来にAI自身が書くだろう」と
(酒井隆史の文章には「そういう安全な感じがない」)

AIを批判する文章が
AI的な文章になってしまっているのである
不完全であるままに考えていくプロセスが
そこでは失われているということだろう
思考する生きた主体のない
死んだ思考をしていることに気づけずにいるということ

次にそれとも関連した一貫性と不完全性のことについて

ここではカラヤンの指揮とバーンスタインの指揮が
比較されたりもしているが
「カラヤンの指揮による演奏」が
「寸分のズレもなくきっちり足並みが揃っている」のに対し
「バーンスタインの指揮にはぞろっとしたズレがある」という
そしてその「寸分のズレのなさ」に
不自然さを感じたのだというが

それが D・グレーバー〈万物の黎明〉に書かれてある
「「未開」社会」における
変わりもの(エキセントリシティ)に対する寛容」と
関連づけられている
いうまでもなくこの「未開」は
これから開かれていくという意味でのそれではない

それが「本当に厄介」なのは
「一貫性」を求めることで
「全、一、秩序、中心、それらを良しとする世界観支配」が
浸透していきかねないということである

そして言葉では説明できないことについて

文字が活字あるいはフォントとなり
データとして一見誰にでも読めるように表記されると
「言葉で説明できることがいいことだという了解」が
醸成されてしまうことにつながり
「自分がしていることを
他の人にもわかるような言葉で説明する」ことが
じぶんに対しても人に対しても
強要されるようになってしまう

それは「明治時代に国策として
表記法を一元化していった精神と根っ子が同じ」だともいえる

そこでは「変わりもの(エキセントリシティ)」は
許されなくなってしまうし
言葉にならない状態そのものが
単に「不完全」なものとして排されてしまうことにもなる

「不完全」であるということは
AI的な思考では不正解としてとらえられてしまうだろうが
それは視点を変えれば
変わっていけることであり
論点に閉じてしまわず表現されていないところへも
開かれてあることでもある

不完全ゆえに未知へと開かれた我あり
とでもいうことができるだろうか

■保坂和志「連載小説64/鉄の胡蝶は記憶を夢は歳月に彫るか」
 (群像 2023年12月号)
■デヴィッド・グレーバー /デヴィッド・ウェングロウ(酒井隆史訳)
 『万物の黎明/人類史を根本からくつがえす』(光文社 2023/9)
■酒井隆史『賢人と奴隷とバカ』(亜紀書房 2023/4)
■酒井隆史『完全版 自由論: 現在性の系譜学』(河出文庫 2019/8)
■酒井隆史『通天閣 新・日本資本主義発達史』(青土社 2011/11)

(保坂和志「鉄の胡蝶は記憶を夢は歳月に彫るか」〜
 「十一月十八日、酒井隆史さんとの対談の助走」より)

「十一月十八日土曜日の午後二時から京都のお寺で酒井隆史さんと対談することになった。」

「酒井隆史さんの文章は何を読んでもワクワクする。酒井さんは七〇〇頁以上の〈通天閣〉を書いてゆく過程で視力がひどく悪くなったと言った。〈通天閣〉は二〇一一年の出版だからネット検索がまだまだ充実していなかった時代の文章だし、あの本が扱っているのは明治大正昭和だから今でもやっぱり国会図書館で当時の新聞記事をマイクロフィルムで見ていくしかないんじゃないか、酒井さんはマイクロフィルムを見るためのヴューワーというのがどういうものか私は知らずに書いているんだが脇に回すハンドルというのかそういうのが付いていて、一枚一枚ガチャンガチャンとフィルムを送るのが、酒井さんの文章には資料を物質レベルで掘り返しながら肉体レベルでそれを見て記録してゆく、そういう泥道や雪道をザクザク力をこめて進んでゆく感じがある。

 このあいだ文芸誌でAIを批判する論考というのか、そういう文章を読んだときに驚いたのは、その文章は正しいことしか書いてないが正しいことの向こうに踏み出してあぶないことまで言おうとしていない、正しいことだけというのはとても抑圧的でもある。もともとそういう人なのだその人は、結局、このタイプのAI批判の文章は近い未来にAI自身が書くだろう、酒井さんの文章にはそういう安全な感じがないのだ。

 今日は電車の中で文庫の〈自由論〉の一番最後の、文庫のための語りおろしの文章を四段だが、酒井さんの言うフーコーは確定したフーコーでなく生きていたあいだに試行錯誤というのとは違うんだろうがいったい書いたことをあとで否定したりそれと矛盾することを言ったフーコーを言っているから酒井さんはこの人自身として切り開いていく感じがする。(・・・)書くこと考えることは事前のプランを超えたり外れたりすることだ、そういう過程を通して事前のプランなんてものがあったとしてもそれは観念的で痩せた考えにすぎず、実際に書く行為を通して考えは深められたり彩りができたりする、彩りというのは装飾でなく具体性にちかく具体性があるから矛盾もあれば発見もある。

 事前のプランがあったとしてもその通りにはならず書きながら、書く日々を通じて気持ちが変わったり方向を直したりするということは書く過程を通じてその人は不完全であるということだ、ここはすぐに誤解する人がいるからわざわざ言っておくが不完全だからその人は信用するに値するしエキサイティングだ。当然自分でも不完全であることを知りつつ書くだろう、というよりも自分が書くことが完全であることはありえない、だってそんなことは不自然だ、というか自然の摂理に反する、自分が不完全であるというよりも、そんなことはわざわざ言わなくても自分と完全という概念を並べることがそもそもない、完全なんてことを考えもしないかた書くプロセス、考えるプロセスをわざわざ不完全だと思わない、ところがAIを批判する文章を書いたその人の文章は、パーフェクトであろうとして書いている感じがした。

 私は思うのだがAIはAIとして成長するんだろうが毎回、というのは一回の作業ごとに作業時間ゼロ、ゼロというのは作業の開始と終了のあいだで作業主体たるAIは変化しない、次の作業のときはきっとまた少しは違うんだろうが作業の開始時と終了時ではAIに変化はない、パーフェクトであろうとす書き手の姿勢はそれと同じことなのだ、事前プランどおりにならないということは書く過程で資料を調べたりもともとある資料をもう一度読むことで気づいていなかったことを見つけたろ、自分の考えを詰めていくことで、矛盾したり深まったりする。ここからが大事なんだがそれによって、書くことと全能であることが切断される。」

「前に有名な指揮者の指揮風景を比べるみたいな番組があって、カラヤンの指揮による演奏はもうホントに寸分のズレもなくきっちり足並みが揃っている、それを聴いてしまうとバーンスタインの指揮にはぞろっとしたズレがある、カラヤンからバーンスタインにかわってすぐはだらしなく感じたんだがだんだんカラヤンの寸分のズレのなさが不自然に思えてきた、それをいい、それでなくてはダメという聴き手の態度も私には良くなく思えてきた、もともとフリージャズなんて揃うことを嫌う人たちの集まりだ、ベルリンフルだったかウィーンフィルだったか、どっちかのオーケストラは時代を超えて同じ音色で演奏されるように楽器が代々同じなんだという、オーボエならオーボエでメンバーは代々入れ替わるわけだが楽器は同一のそれが使われる、楽器は奏者の持ち物を使わずオーケストラが持つその楽器が使われる。

 オーケストラと対照的だったのが近所でたまたま聞いた保育園の子どもたちの合唱だった、一日の締めにみんなで歌を歌う、それがもう子どもたちが思いっきり、元気な声を出して、音程はバラバラだ、テンポもけっこうひとりひとりズレている、その歌声がものすごい解放感だった、D・グレーバー〈万物の黎明〉にこう書いてある。

「「未開」社会にかれがおどろいたのは、変わりもの(エキセントリシティ)に対する寛容であった」

 未開を「」で囲んであるのは「いわゆる未開」だからだ、私は昔から、
「あなたの友達には変わっている人が多い」
 「と言われてきた、私はそれをずっと「多士済々」の意味だと思っていた、ところがあるとき、といってももう三十年前のことだが、その頃知り合った十歳年下の女性が、
「変わってるよね〜」
 と笑いながら遠ざけるような調子を感じたから。「?」と思ってあとで妻に訊くと、「褒めてるわけないじゃん」と言われたのだ。
 それがわりときっかけになって私は世間の「善良な」人たちは変わり者を歓迎しているわけではないし、状況によっては不寛容になるんだということを知っていくようになった、私は子どもの頃から変わった人が大好きだからそれが敬遠されるような考え方があることがわからなかった、ここで私はフリージャズを自由とか反秩序とかの概念先行で無理して聞いてきたわけはないと、自分で自分にあらためて思う、私の音楽や美術の嗜好と社会や規則やそういうものに対する好き嫌いは一貫している————とここで、さっきまで批判していた一貫性が出て来る、全、一、秩序、中心、それらを良しとする世界観支配がどれだけ浸透しているか、これは本当に厄介なのだ。」

「いい本というのはこういう喩えはしたくないが数学の公式のようなもので問題を単一の問題でなく問題の群れとして全部を問題化する、そして公式というのはちゃんと公式の成りたちを理解するなら別の公式を自力で考えることもできる、〈万物の黎明〉が言っているのは、人類史にはオルタナティヴがありえたということ、オルタナティヴは「未開」とされて切り捨てられてきた社会が現実にその形態によった社会であって、しかもその社会は最近流行りの実証実験というんじゃなく、現実にその形態の社会は何百年単位で存在していた、だからそれゆえ、オルタナティヴな社会はえそらごとではないということだ。
「全能な神はえそらごとで、オルタナティヴな社会形態はえそだごとではなく現実にあった、それななのに現代人はえそらごとの方を世界観の基準にしている、と————」
 店長が私の言いたいことをそのまま言ってくれた、まさしくそういうことなのだ、グレーバーの「未開」にもとづくオルタナティヴな社会形態の議論はえそらごとではなく現実を根拠にしている」

「〈万物の黎明〉のこの今の社会はこうなった要素・原因の大きな一つが言葉で説明できることがいいことだという了解の醸成、そうか一端はフリードリヒ・キットラーの〈グラモフォン・フィルム・タイプライター〉が情報を記録する機会の発明とそれによるデータの平板化というようなことで言ってるんだと思う(・・・)。

「俺にわかる言葉で説明しろ」
 というのは、ゴルフ好きの経営者でなく本当は本人の中にいる、それを私は先月だったか、煩悩なんだと気がついた。私は私自身に向かって、
「俺にわかる言葉で説明しろ」と言ってしまっているのだ、それで私は自分がしていることを他の人にもわかるような言葉で説明する場面を思い描いたとき、私は私の関心からすでに心が離れている、私は私の関心の真ん中にいるときは私が私であることさえも意識にない、私はひたすら目の前の作業に集中したり、あるいは海に見とれてぼおっとしたりしている。

 その状態はそれを経験したことのない人にはわからない状態で、たとえば彫刻に没頭している状態とかサーフィンしている状態とか数学者の岡潔のように数について考えながら空を眺めていたり、それは幸福すぎるとその人は社会の一元化した順序の外に出てしまう、当たり前すぎることだが人ひとりひとりの心の中が一番不透明で、言語化も数値化もできない、しかし権力の側は最大公約数なのか最小公倍数なのかそんな風なものを言葉や数字ででっち上げたい、それがもっともらしくさえあれば社会の中の多数派である没入することを知らない人と偉くなりたい人をその気にさせて自分の側いn引き入れることができる。」

「AI批判のその人の批判ぶりが正しさの範囲から一歩も踏み出してなくて誰にとってもとても安全に正しい理屈であるその正しさぶりかが当て字を使わない文章みたいなもので、明治時代に国策として表記法を一元化していった精神と根っ子が同じなんだ」

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