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古東哲明「瞬間を生きること ドロモロジーから遠く離れて」(談 no.129)/古東哲明『瞬間を生きる哲学』『沈黙を生きる哲学』

☆mediopos3442  2024.4.20

『談 no.129』の特集
「ドロモロジー 自動化の果てに」
に関してはすでに
mediopos3402(2024.3.11)と
mediopos3404(2024.3.13)でとりあげている

「ドロモロジー」とは
P・ヴィリリオによって名付けられた言葉で
「前進、進行、競争、逃走」を意味する「ドロモス」と
「原理、言葉、論理」を意味する「ロゴス」の合成語
「〈今ここ〉ではない〈いつかどこか〉の彼方へと
競わせ走らせ追い立てる原理」である

今回はその「ドロモロジー」が隠蔽し忘失させてしまう
〈今ここ〉にしか生起しないリアリティ(存在・実在)を
取りもどすために必要となる「視座転換」について

古東哲明へのインタビュー「瞬間を生きること/
ドロモロジーから遠く離れて」をとりあげる

ドロモロジーは「生存の根本的な仕組み」であって
「ぼくらを〈今ここ〉というローカルな時空から追い出し、
〈いつかどこか〉の未来へ向け競って走るよう強いる
無気味な、人為を超えた強制力となって働いている」

それに拍車をかけているのが
ミヒャエル・エンデの『モモ』にでてくる
「時間どろぼう」(灰色の男たち)のような
資本主義的産業の基本構造としての
「前望構造」(G・バタイユ)で
それがわたしたちの人生を奪っている

しかし「存在忘却(=美や真実や倫理の喪失)の根本原因は、
ぼくら人間の側の怠慢、あるいはドロモロジーという
社会と時代の基本構造にあるのではなく」
「存在(リアリティ)自体の成り立ちに起因し」

存在論的忘失構造が原因となって
経験の仕方や意識作用にまつわる
認識論的隠蔽構造が生じるのだという

その隠蔽回路を破るには
五感を超えたリアリティを味わう「非意志的回想」と
「不在ゆえの現前」を経験する「隠しの技法」という
二つの通路がある

また「現実世界」を再発見するためには
「汚濁の現実、不完全な現実世界そのものを希求し、
根元から肯定する」ことによって
「現実世界の再創造」を行う道もある

「存在は無根拠、無底、そして無常」であるという
「在ることの否定的な性格は、
在ることの途方もない肯定性や神秘を
逆証(裏語り)しているから」だという

『瞬間を生きる哲学: <今ここ>に佇む技法 』
という古東氏の著書の冒頭に
「この本で明らかにしたいのは、たったこれだけのことです」
として次のように書かれている

 いまこの瞬間のなかにすべてがある。
 少なくとも、大切なものは全部でそろっている。
 人生の意味も、美も生命も愛も永遠も、なんなら神さえも、
 だから瞬間を生きよう、先のことを想わず、
 今このかがやきのなかにいよう。

言葉にすればこれだけのシンプルなことだが
「ドロモロジー」のようなさまざまな原理が
そしてそれを成り立たせている認識論的隠蔽構造が
私たちを<今ここ>から引き離し
「いつかどこか〉の彼方へと競わせ走らせ追い立て」ている

まずは「時間どろぼう」(灰色の男たち)が
私たちに行っていることに気づき
「視座転換」を試みることからはじめる必要がある
そうでなければ
「〈今ここ〉ではない〈いつかどこか〉」のために
〈今ここ〉に存在する「真の生」は失われたままだろう

今回の「瞬間を生きること」についての著書ではないが
古東氏は『沈黙を生きる哲学』のなかで
「「沈黙こそが、唯一、
存在(実在・リアリティ)に触れる態度だ」と述べ

そうしたなかで「非知に触れる」ための示唆として
次のようなノヴァーリスの言葉を引いている

  見えるものすべては、見えないものに触れている。
  聞こえるものは、聞こえないものに触れている。
  感じられるものは、感じられないものに触れている。
  おそらく、考えられるものは、
  考えられないものに触れているだろう。
  (ノヴァーリス「光についての論文」
   『新断片集』二一二〇節)

そんな「非知」へと向かうなかにこそ
「深く広大な沈黙がひろがっている」

〈今ここ〉のそんな「沈黙」のなかでこそ
限りない神秘としての
「存在」にふれることができるのではないか

■古東哲明「瞬間を生きること ドロモロジーから遠く離れて」
 (「談 no.129 ドロモロジー 自動化の果てに」水曜社 2024/3)
■古東哲明『瞬間を生きる哲学 <今ここ>に佇む技法 』(筑摩書房 2011/3)
■古東哲明『沈黙を生きる哲学』(夕日書房 光文社 2022/12)

**(佐藤真「editor's note 自動化の二つの側面/自動化する自律性、自律化する自動性」他より)

*「ドロモロジーが現代のウルチマ・ラティオ、すなわち究極原理として機能しているという問題意識のもと、そこから脱却する道を模索する広島大学名誉教授の古東哲明氏にお聞きします。ドロモロジーは、〈今ここ〉の瞬間を生きない傾向性(世界の老化)を、長い時間をかけて培養してきました。簡単には断ち切ることも破壊することもできません。であるならば、むしろその内部に定位し、内的環境そのものを問う必要があるのではないか。内的環境である「時間意識体制」に抗う方途を探ります。」

**(*古東哲明「瞬間を生きること」〜「ウルチマ・ラティオ(究極原理)としてのドロモロジー」より)

*「ヴィリリオによれば、ドロモドジーとは「瞬間を抹消させる」ものです。そして古東先生は、『瞬間を生きる哲学: <今ここ>に佇む技法 』(筑摩選書二〇一一年)の冒頭に「この本で明らかにしたいのは、たったこれだけのことです」として次の三行を記されています。

  いまこの瞬間のなかにすべてがある。少なくとも、大切なものは全部でそろっている。
  人生の意味も、美も生命も愛も永遠も、なんなら神さえも、
  だから瞬間を生きよう、先のことを想わず、今このかがやきのなかにいよう。

 存在しているのは、一瞬のことです。その一瞬刹那の存在を目撃できない「存在忘却」と、それを促進し常態化し、さらに拍車をかける社会の根元構造としてのドロモロジー。それこそが、膨大なさまざまな悪のそもそもの起原(大悪)ではないかと書かれています。」

*「ドロモロジー(速度体制)という言葉の説明から始めましょう。ドロモロジーは、ギリシア語の「ドロモス」と「ロゴス」の合成語です。ドロモスは「前進、進行、競争、逃走」を意味します。ロゴスは「原理、言葉、論理」等の意味です。その二つがくっついてできた言葉がドロモソジーです。ですから、〈今ここ〉ではない〈いつかどこか〉の彼方へと競わせ走らせ追い立てる原理、それがドロモロジー(速度体制)ということになります。リアリティ(存在・実在)は〈今ここ〉にしか生起しません。だからドロモロジーはいやでもリアリティを忘却させ抹消してしまうのです。

 ドロモロジーは、しかし、単にスピードや効率を求めるだけの表面的理屈ではありません。スローとかスピーディという相対的な区別を超えたところで働く、生存の根本的な仕組みのことです。だから問題は、ドロモロジーがぼくらを〈今ここ〉というローカルな時空から追い出し、〈いつかどこか〉の未来へ向け競って走るよう強いる無気味な、人為を超えた強制力となって働いているということになります。」

*「まず言えることは、ドロモロジーがぼくらの時代のウルチマ・ラティオ(究極原理)となっているということです。ウルチマ・ラティオとは、そのユエに、そのタメに何事も成立してくる根本の生存支配の構造のことです。だから一種の「神」と置き換えることもできましょう。といってもこの「神」は、「神の死」の後の現代という空白時代に忍び入ってきたいわば「代理神」です。ファシズムもその一つでしたが、ドロモロジーもそうでしょう。」

*「ドロモロジーに拍車をかけるのが資本主義的産業の基本構造です。それをG・バタイユは前望構造(projection)と名づけました。projectionとは、「前に(pro)」と「投げること(jacere)」が合わさった言葉。投機、生命保険、貯蓄利子、資格取得、年金、昇進試験、株式配当などにみられるように、資本主義的経済システムは、未来の利得や成果や褒賞をあてにし、今この時この場で味わえる喜びや充足はお預け式の経済構造、つまり前望構造です。」

*「世界時間によってぼくたちは、生活を根本かた規格化され管理され、世界時間を基準として人生設計を行い、そのなかで選択した社会関係を生きるよう求められ、そして死んでいくわけです。
 こんな時間体制のなかで、ドロモロジーという目には見えない強制移住によって簒奪されていくのが、刻一刻の〈今ここ〉の生、リアルな時、リアルな場、唯一比類なく個々人です。」

*「なぜドロモロジーが存在を忘却させるのか(・・・)。ドロモロジーはぼくらの人生を奪っている。ミヒャエル・エンデの『モモ』に登場する「時間どろぼう」(灰色の男たち)のように。」

**(*古東哲明「瞬間を生きること」〜「認識論的隠蔽構造と存在論的忘失構造」より)

*「存在忘却(=美や真実や倫理の喪失)の根本原因は、ぼくら人間の側の怠慢、あるいはドロモロジーという社会と時代の基本構造にあるのではなく————無関係とは言いませんが————、存在(リアリティ)自体の成り立ちに起因しているのです。」

*「隠蔽回路を破る通路は二つ考えられます。
 一つは、マルセル・プルーストが『失われた時を求めて』で剔抉した「mémoire involonnataire(非意志的回想)」です。敷石につまずいた途端に過去のある日のリアリティ————それとして明確な経験していなかったはずのリアリティ————が、なぜか初めてありありとブワーッと現れるとか、紅茶にマドレーヌを浸して食べた途端、その五感的な味を超えたような奥行きや陰影のあるリアリティの味をありありと想い起こす経験とか。五感的な味を超えたリアリティの味とは、いうまでもありません。「シュルレアル」な味です。ぼくはそんな味のことを「アムリタ(甘露=永遠の味)と言い換えるのですが、そんなアムリタを体験するのは「非意志的回想」です。
(・・・)
 もう一つの通路は、「隠しの技法」です。これは「不在ゆえの現前」という、ぼくらになじみのあの経験を逆用する手法です。何であれ、モノゴトのリアリティは、それが破損や喪失、逝去などによって不在化する時に、瞬時ありありと露光しまう。これが「不在ゆえの現前」です。(・・・)
 この「不在ゆえの現前」という事実を逆用すれば、存在やリアリティと遭遇する通路が開けます。それが「隠しの技法」です。わざと擬制的に自然の光景を隠す(亡くす)ことで、かえって岩群や苔などの「不在記号」(何は欠落しているかだけを示すモノ)以外何もない空間に、生ける自然がワーッと幻想的に甦ってきます。そんな枯山水の工夫は、「隠しの技法」の典型でしょう。」

**(*古東哲明「瞬間を生きること」〜「反未来主義に抗う————ホイジンハによる三つの道」より)

*「歴史家ヨハン・ホイジンハは、膨大な歴史的事象を探求した果てに、『中世の秋』第二章で、「人間はいつの時代も美しい世界を求めてきた。その美しい世界を求める求め方は三つあると総括いたします。
 一つは信仰の道、二番目は革命の道、そして三番目が夢想の道です。

**(*古東哲明「瞬間を生きること」〜「反未来主義に抗う四つの道————「生きているのだけでえらいのよ」より)

*「道は三つだけとホイジンハは断言しました。でも、第四の道があると、ぼくは考えています。それは、三つの道のいずれもが否定したまま前提とした汚濁の現実、不完全な現実世界そのものを希求し、根元から肯定する道、つまり「現実世界再発見の道」です。
 先の「生きられた瞬間の闇」でみたように、そもそもぼくらは現実世界(リアリティ)に遭遇できておりません。それなのに、三つの道は共に、現実世界を一方的に否定したうえで、上方天空の別世界や、前方未来のユートピアや、オブラートで包んで虚空間に夢をみるわけです。
 ですが、そもそも現実存在自体に出くわし、その真相に触れる道もあるのではないかと想います。それは、現実世界の見直しの道。これが第四の道です。リアリティに直面してそのすごさを実感する。一見どこまでも過酷で辛苦に満ちた実生活世界、これは否定できない現実です。しかし気づけば、その本体はじつはとんでもない至福の生起。ふだんあまりに夢中で見忘れて生き忘れていたこの世この生の真実に、あらためて逢着するということです。だから、「現実世界の再創造」と言うこともできるでしょう。」

*「なぜ生まれ、何のために生きて、なぜ死ぬか、死んでどうなるか。この生死の暗さを晴らすことこそが哲学の根本課題です。では、なぜそうまでして現実生起ないしは存在に直参しようとするのか、なぜそれが哲学の根本課題なのか。その小手は形式的には簡単です。存在が奇蹟だからです。驚嘆するしかないからです。
(・・・)
 たしかに、生きて在ることのどうしようもない不安や悲しみにかられたことは、どなたもあるでしょう。在ることの無意味さ、はかなさ、より所のなさを呪った記憶おありかもしれません。だが、在ることのそんな否定性(無根拠・無目的・無常)自体が、じつは在ることの最大肯定の論拠なのだとしたらどうでしょう。たしかに存在は無根拠、無底、そして無常ですが、そのことを考え極めてみると————これが哲学することです————まったく逆の結論になってまいります。在ることの否定的な性格は、在ることの途方もない肯定性や神秘を逆証(裏語り)しているからです。」

**(*古東哲明「瞬間を生きること」〜「共に在ることの不思議」より)

*「ものみな非在でもあり得た。非在がむしろ当然。どなたも親に頼んで生まれたわけではない。たまたま生まれただけでしょう。(・・・)でも、にもかかわらず、現に今こうやって、〈在るはずも〉また〈出会うはずも〉ないもの同士が、奇しくも、時を共にしている。それは、言葉の真の意味で奇蹟のめぐりあいです。しかも刹那生滅ですから、一瞬一瞬の出会いが最初にして最後、どれもこれも無条件に永遠に唯一一回きり、いつもが初回にして最終回。
 そのことに思いを潜める時、「なぜ在るか」へのあの暗い疑念や不安などふきとんで、〈在ること〉や〈共に在ること〉への驚嘆の想いが静かにあふれてこないでしょうか。存在肯定の得心。これこそ哲学の根本課題への回答です。」

*「こんな深い意味での共在の事実に気づきだけで、社会的な問題の多くは解決する。そうぼくは想っています。「無為の共同体」が潜勢的にいつも形成されていますから。そしてその無為の共同性が、神の死の後の新しい時代の倫理の源泉(根元的倫理)になるからです。
 もっとも、無為の共同体は地上に構築できるようなもモノ(存在者)ではありません。存在現象ですから。通常、共同体といわれるものはすべて人為共同体です。でも、無為の共同体は「明かしえない共同体」。地上に何らかのカタチ(国家とか村とか組合とか法律体系だとか)として樹立はできません。が、しかし、存在の事実として、無為の共同体はいつもあるし、必ずどこででもあり続けます。あとは、この根本の事実に気づけばいいだけです。気づけば、そしてたがいに気づきあえば、その瞬間から、コミュニズムの共同体が不可視の虚空間の〈今ここ〉に実現します。そのためにも、「存在」の真実に目覚める存在経験、つまりは哲学や芸術や宗教の営みがとても大事だと、ぼくは想っています。」

**(*古東哲明「瞬間を生きること」〜「現在は、過去から初めて出会われる」より)

*「現在は刻一刻、ほぼ過去色に染められています。(・・・)既知の概念や解釈が、ぼくたち本人の意思を超えて暗黙裡に即座に分泌され、唯一一回きりのはずの今この瞬間の光景を「過去化」するわけです。」

*「しかし、瞬時の闇化し過去化していくリアリティ(存在)を、幸運にも恢復することがあります。それが先ほど述べた「視座転換」の時です。その時に「初めて」過ぎ去った過去としてのリアリティが「それとして経験される」。」

**(*古東哲明「瞬間を生きること」〜「永遠の瞬間————「神秘の味」を味わう」より)

*「存在は一瞬刹那の生起です。その一瞬の存在の「意味」を深々と味わえば、永遠を生きたことに等しい。これが「永遠の瞬間」論の骨子です。」

*「きちんと視座転換すれば、つまり「現像」して事実を事実として見れば。「真の生」が明るみに出るのです。しかし、まさに普通に見ること、それはなかなかできなくなっている。それをさせない仕組みの一つがドロモロジーです。」

○古東哲明
ことう・てつあき
1950年生まれ。広島大学名誉教授、NHK文化センター教員。専門は、哲学、現代思想、比較思想史。京都大学哲学科西洋哲学専攻卒業、同大学院博士課程単位取得満期退学。著書に『沈黙を生きる哲学』(夕日書房 2022 )、『瞬間を生きる哲学:今ここに佇む技法』(筑摩選書 2011)、『ハイデガー=存在神秘の哲学』(講談社現代新書 2002)、『〈在る〉ことの不思議』(勁草書房 1992)、共著に『マインドフルネスの背後にあるもの』(サンガ 2019 )他。

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