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レイチェル・カーソン 『センス・オブ・ワンダー』

☆mediopos-2481  2021.9.1

アリストテレスは哲学のはじまりに
ワンダー(驚き)があるとしたが
それは自然学の著作が残されているように
実際に自然に対してワンダーを感じていたからだろう

逆に言えばワンダーをもたない哲学は
哲学(知を愛する)とはいえない

ひとは生まれてくると
じぶんのまわりにあるものや
起こる出来事にたいして
「神秘さや不思議さ」を
感じないわけにはいかないはずなのに
年をとるにつれて多くの人は
それらを喪失し続けることになる

生存競争とでもいえるもののなかで
ほんらいの「ワンダー」が失われ
その代わりのものを求めるようになるのだ

『沈黙の春』で環境に対する意識を
多くの人に目覚めさせたレイチェル・カーソンの
生前最後の著作が『センス・オブ・ワンダー』である
まさに「ワンダー」を目覚めさせるための
小さいけれどとても大きな意味をもつ一冊

それが今回文庫になり
そこに「私のセンス・オブ・ワンダー」として
福岡伸一・若松英輔・大隅典子・角野英子の
とても素敵なエッセイが寄せられている

そのなかから
「レイチェル・カーソンについて
是非とも書いておかねばならないことがある」
としている福岡伸一のものを以下に引いておいたが

それはレイチェル・カーソンが亡くなって
半世紀以上の現在でも組織的に行われている
徹底的なカーソン批判が溢れているという事実があるからだ

なぜそうした批判があるのかといえば
研究費や様々な恩恵を受けている科学者等に
多額の資金が流れ込んでいるということがある

そして「科学的な問題のほとんどは、
実は、科学の問題ではなく、科学の限界の問題である」という

現在まさに世界中で起こっている社会現象も
ある意味で「科学の限界の問題」であるといえる

「ほんとうに危険があるのかどうか、
科学的には見極められない」はずで
その点を踏まえた対策なりが行われてしかるべきだが
多額の資金が関わっている立場からすれば
その利害を優先する政治的なものが優先されてしまう

そしてその結果がどうなっていくのか
ほんとうは「見極められない」にも関わらず
それへの批判は許されず
おそらく責任の主体さえわからないまま
事は進んでいくことになる
やがて訪れることになるかもしれない
あらたな「沈黙の春」に向けて・・・

■レイチェル・カーソン
 (上遠恵子・訳 川内倫子・写真)
 『センス・オブ・ワンダー』
  (新潮文庫 2021/8)

「美しいものを美しいと感じる感覚、新しいものや未知のものにふれたときの感激、思いやり、憐れみ、賛嘆や愛情などのさまざまな形がひとたびよみさまされると、次はその対象となるものについてもっとよく知りたいと思うようになります。そのようにして見つけだした知識は、しっかりと身につきます。」

「人間を超えた存在を認識し、おそれ、賛嘆する感性をはぐくみ強めていくことには、どのような意義があるのでしょうか。自然界を探検することは、貴重な子ども時代をすごく愉快で楽しい方法のひとつにすぎないのでしょうか。それとも、もっと深いなにかがあるのでしょうか。
 わたしはそのなかに、永続的で意義深いなにかがあると信じています。地球の美しさと神秘を感じとれる人は、科学者であろうとなかろうと、人生に飽きて疲れたり、孤独にさいなまれることはけっしてないでしょう。たとえ生活のなかで苦しみや心配ごとがあったとしても、かならずや、内面的な満足感と、生きていることへの新たなよろこびへ通ずる小道を見つけだすことができると信じます。
 地球の美しさについて深く思いをめぐらせる人は、生命の終わりの瞬間まで、生き生きとした精神力をたもちつづけることができるでしょう。
 鳥の渡り、潮の満ち干、春を待つ固い蕾のなかには、それ自体の美しさと同時に、象徴的な美と神秘がかくされています。自然がくりかえすリフレイン−−−−夜の次に朝がきて、冬が去れば春になるという確かさ−−−−のなかには、かぎりなくわたしたちをいやしてくれるなにかがあるのです。」

(福岡伸一「きみに教えてくれたこと」より)

「センス・オブ・ワンダー。私の一番好きな言葉である。直訳すれば、驚く感性。何に驚くのか。と言えば、自然の美しさ、あるいは、その精妙さに対して、本書の訳者、上遠恵子の名訳によれば、神秘さや不思議さに目をみはる感性、となる。
 誰もが、自分のセンス・オブ・ワンダー体験を持っている。」

「ロジェ・カイヨワの遊びの社会論やホイジンハの『ホモ・ルーデンス』の遊び文化論を待つことなく、現在の私たちの社会制度、文明、文化はすべて、子どもの遊びを基礎としている。ゲームが経済行為となり、そのルールが法律となった。
 だから逆にいえば、大人になることは獲得のプロセスではないのだ。むしろ喪失の物語なのである。色気づくことは、闘争、競争、警戒といった行動が優先されるということであり、身体や知覚のリソースはそちらへ振り向けられる。その分、世界に対するセンス・オブ・ワンダーは曇りがちにならざるをえない。
 カーソンは言う。「やがて大人になるとやってくる倦怠と幻滅、わたしたちが自然という力の源泉から遠ざかること、つまらない人工的なものに夢中になること」が不可避的に起きると、カーソンはその理由までは書かなかったが、それは、子ども時代の終わりが、大人になること(性的な成熟)のトレードオフにあることなのだ。
 とはいえ、私たちは、センス・オブ・ワンダーを全く失ってしまうことにはならない。自分のセンス・オブ・ワンダー体験を憶えておくことができるし、思い出すこともできる。自分の原点として参照することもできる。あるいはこの先を生きていくための転回点にすることすらできる。」

「レイチェル・カーソンについて是非とも書いておかねばならないことがある。
 周知のとおり、彼女は、名著『沈黙の春』によって環境問題に対する意識を広く一般市民に知らしめた先駆者だった。(・・・)
 カーソンが着目したのはDDTという蚊やダニといった害虫に対する殺虫剤だった。
 殺虫剤DDTは開発当初、奇跡の化学物質に見えた。即効性があって、ほぼ完全に害虫を駆除できる。効果も長持ちする。なのにヒトには害がなくしかも安価。殺虫効果の発見者ミュラーはノーベル賞を受けた。誰もがDDTは安全だと思っていた。しかし、DDTは効き目があり、長持ちするからこそ、生態系の動的平衡を崩す。そのことに気づくためには、生命が時間の関数としてふるまうことに注意を向ける必要があった。」
「カーソンの指摘は衝撃をもって受け止められた。本はベストセラーになったが、一方で彼女に対する攻撃にもすさまじいものがあった。DDTによって経済的な恩恵を得ていた産業界や政治家から激しい暴言を投げつけられた。子どももいないヒステリーの独身女がなぜ遺伝のことを心配するのか、といった心無い言葉だった。結果的に、市民のあいだに環境問題に対する意識が高まり、時の政府も環境保全行政に舵を切り、DDTは規制されることになった。カーソンの思想は勝利したのである。
 ところが、カーソン没後、半世紀以上が経とうとする現在もなお、ネット上では、徹底的なカーソン批判が満ち溢れているのだ、いわく、カーソンは間違っていた。カーソンはナチスよりも、スターリンよりも多くの人を殺したと。Wikipediaの記述さえ、しばしば批判者によって書き換えられ、擁護者によって訂正され、また書き換えられることが繰り返されている。
 カーソンの批判者の主張はこうだ。カーソンの世論喚起によってDDTが禁止され、そのせいで何百万人ものアフリカ人がマラリアで死んだ。ひるがえって、DDTで直接、死んだ人はほとんどいない。人間の生命より環境の方が大事だという考え方は間違っていると。
 しかし事実を記せば、間違っているのはこのカーソン批判の方である、カーソンが警鐘を鳴らしたのは大規模な農薬散布であり、マラリア対策のためにDDTを家屋の壁面に塗ることには反対していない。しかも、カーソンが『沈黙の春』を書いた頃にはすでにマラリアを媒介する蚊はDDT耐性を獲得しており、DDTの禁止がマラリア死を増大させたという言い方は間違っているのだ。
 それにもかかわらずカーソン批判が消えることはない。この批判は組織的に行われており、そこには多額の資金が流れ込んでいる。なぜ今(・・・)カーソン批判がやまないのか。『世界を騙しつづける科学者たち』によれば、そこには隠された意図があるからである。(・・・)
 世の中には規制を受けたくない人々が存在する。酸性雨、オゾンホール、喫煙、地球温暖化。いずれの問題も、科学者の中には反規制陣営に味方する者がいる。研究費や様々な恩恵を受けているからである。
 科学的な問題のほとんどは、実は、科学の問題ではなく、科学の限界の問題である。ほんとうに危険があるのかどうか、科学的には見極められない。そのような問題がたくさんある。」

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