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『メディアと感情の政治学』

☆mediopos-2291  2021.2.23

メディアを通じた「感情の政治」が
注目されるようになっている

ごく単純にいえば
ひとは感情で動く
思考の論理では動かないということだ
好きだから正しい
嫌いだから間違っている
という感情の論理である

しかも現代では
ニュースメディアやソーシャルメディアが
ひとの政治感情を形成している

ニュースメディアやソーシャルメディアは
ある特定の政治感情をつくりあげるために
みずからのイデオロギーに基づいた情報を
収益を得るために有効な形で提供し
その逆のものはかぎりなく抑制する

そこでは事実が多面的に受容され理解され
その上で考えが形成されるのではなく
操作された情報だけによって作られた感情によって
政治的な判断がなされることになる

その政治的な判断というのは
作られた「政治感情」を吐き出すことであり
それが世論を形成していくことにもなる

ソーシャルメディアでも
ある種の(偏向した)情報が
短絡的で扇情的にシェアされることがよく見られる

それはある種の正義感情ではあるのだろうが
その正義の向けられる方向は
ニュースメディアやソーシャルメディアによって
すでに操作されている
好きだから正しいという感情の論理であり
それは作り出された政治感情なのだ

そのことに気づくためには
メディアリテラシーが重要になるのだが
与えられたものや権威を信じるだけでは
リテラシーは基本的に成立しえない
与えられたものの外にでる必要があるのだ

感情はいまやかつての時代以上に
巧妙に管理され作られている
それがどのように管理されているのか
そのことに意識的であることが重要なのだが
それは感情の論理ではとらえにくい
ひとは感情で動くからだ

「山道を登りながら、こう考えた。
智に働けば角が立つ。情に棹差せば流される。
意地を通せば窮屈だ。兎に人の世は住みにくい。」
(夏目漱石『草枕』)

■カリン・ウォール=ヨルゲンセン(三谷文栄・山腰修三 訳)
 『メディアと感情の政治学』(勁草書房 2020.11)

「私たちが日常生活の中で、「共感疲れ」に苦しむほど感情にさらされているのではないか、あるいはより劇的に、私たちがもはや真正の感情を経験できないほど、作られた「疑似感情」に圧倒され、それゆえ実際に「ポスト感情社会」にいるのではないかという問いが生じるのは驚きではないだろう。こうした主張は、感情が議論や論争の中心になりつつあることを浮き彫りにしている。
 感情文化が一層進展するという様々な主張にもかかわらず、次の点に留意することが大切である。すなわち、社会的相互作用は常に感情で満たされており、それゆえ社会は常に感情を管理しようと熱心に取り組んできた、という点である。したがって、個々の時代はそれぞれ特有の「感情のレジーム」と呼ばれる規範的感情、あるいは公衆の面前で感情を表現する規範的な方法によって特徴づけられている、と述べるのがより正確であろう。単純に言えば、公衆の面前で感情を管理する方法は、時代とともに変化するということである。」

「本書は、感情がニュースメディアを通じて広がるものとして研究するという前提に立っており、この目的と密接に関連する現象を理解する方法を採用したいと考えている。本書では、ジャーナリストからオーディエンスに至る様々な集団や個人が、いかに感情を経験し、感情的に反応するのかについての検証を行う。その一方で、一連の事例ーーーーピューリツァー賞を受賞した記事から、抗議運動に関する報道、フェミニスト的なツイッターのハッシュタグやソーシャルメディアのレディットにおけるドナルド・トランプに関する議論に至るまでーーーーでは、メディアによって媒介されたテクストの中で感情がどのように構築されるのかに焦点を当てている。これは感情とは何かを理解するだけでなく、メディアを通じて構築された感情は、諸個人の身体をめぐるものとしての感情とは異なると認める必要がある、ということを意味している。」

「感情価、すなわち感情の肯定的ないし否定的な傾向とメディア政治におけるそれらの役割との関係は、単純ではない。怒りや悲しみから愛や幸福といった感情は、公に表明しやすい一方で、嫉妬や苛立ち、不安、パラノイア、嫌悪などの感情は「暗い」、あるいは「醜い」とされる。これらの感情は社会的に望ましくないと一般的にみなされ、それゆえ他者とほとんど共有されず、まして公に表明することは憚れるとされる。
 それにもかかわらず、個人が政治的に行動する動機となるのは特定の集団や考えに対して向けられる怒りや恐れ、憎しみ、嫌悪といった否定的な感情だ、という点が問題をさらに複雑にする。否定的な感情を向けられる集団や考えは、異質なものとして、すなわち「他者」として境界線の外部に言説的に位置づけられてします。日常的な会話も同様だが、実際のところ、メディア上の語りでは、希望や愛情といった肯定的な感情ではなく、恐れや怒り、心配などの否定的な感情が優勢なのである。
 ソーシャルネットワーキングの時代では、こうした懸念が一層切迫してきた。ここでがプラットフォームのアフォーダンスが「有害な技術文化」の興隆を促し、ヘイトスピーチが抑制なく広がりつつある。さらに、ソーシャルメディアはヘイト集団が自らの考えを拡散し、正当化することを可能にした。」

「I  感情はメディア政治において重要である」
「II 感情と合理性は相互に排他的ではない」
「III メディアにおける感情はパフォーマティブである」
「IV 感情はメディア政治の中に遍在する」
「V 感情的な語りは、真正性と共感を育む」
「VI 怒りはきわめて重要な政治的感情である」
「VII 愛情は私たちが政治に関与する動機を与える」
「VIII感情の広がりは、プラットフォームのアフォーダンスとアーキテクチャによって形成される」
「IX メディアと政治の研究課題は、感情の役割を考慮しなければならない」

(「訳者あとがき」より)

「なぜメディア政治やジャーナリズムの研究にとって「感情」が今日的な問題となっているのであろうか。それは目下展開している現実政治をより深く分析するためである。「トランプ現象」や「ブレグジット」に代表される現代的ポピュリズム政治の交流に始まり、「Me TPP」や「Black Lives Matter」なども含めた広範な政治現象の中で表出・表象される「怒り」に学術的な関心が寄せられるようになった。そして「ポスト真実」という状況とも連動しつつ、これらの政治現象ではメディアが中心的な役割を果たしている。ソーシャルメディアはポピュリストやハッシュタグ・アクティビズムの参加者の感情を拡散する。一連の出来事は主流メディアのニュースによって社会的に広く共有される。あるいはポピュリスト政治家やソーシャルメディアを通じたアクティビズムがしばしば主流メディアに向ける怒りや不信もそこには含まれるであろう。いずれにせよ、メディアを通じた「感情の政治」が注目され、そのメカニズムや機能が問われているのである。
 その一方で「感情」の分析に正面から取り組むという点において、メディア政治の研究、とくにジャーナリズムも含めたニュースメディアと政治との関係性をめぐる研究は社会科学の中でも最も立ち後れた領域の一つとも言える。社会科学全体としては、感情を分析の中心に据えた研究の潮流がこの数十年の間で厚みを増してきた。今日に至るこの潮流を形作ってきた中心は社会学であった。」
「こうした中でーーーー少なくとも「感情」の社会学的分析が発展したこの数十年間ーーーーメディア政治やジャーナリズムの研究は、「感情」を重要なものとみなしてこなかった。それは同じメディアを対象とした研究の中でもこうした動向にいち早く対応し、さらに近年の「情動論的転回」を受けた独自の研究に取り組むカルチュラル・スタディーズのメディア研究と対称的だと言える。」

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