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安田登『野の古典』

☆mediopos-2246  2021.1.9

学校で勉強したことはほとんどないけれど
教科書を勝手に読むのはそれなりに面白かった

そのなかでも
数学や理科などはわりと面白かったのに対し
国語や社会などにあまり興味はわかなかったが
高校になって漢文
それも老子にふれたとき
世界が変わったような気がした

その頃興味をもっていた相対論的なものと
どこかで通底しているように感じたのかもしれない
そしてそれが「数」という秘密とも
どこかで関係しているのではないかと

しかし漢文をふくむ古典に対して
渇望のようなものを覚えるようになったのは
比較的最近になってからのことだ
情けないことにそこに至るまでに半世紀近くかかっている

最新の内容が含まれた本は
読めるものはできるだけ読もうとしているものの
そのときの基礎として重要なのは
やはり古典といわれるものなのだ

いかにじぶんが古典にふれずにきたか
そのことに気づいて以来
時間があれば翻訳もふくめて
目を通せるものには
できるだけ目を通そうと奮闘している
時遅しなのかもしれないが
わずかでも底上げしなければ
新たな内容を理解するための基礎がつくれない

まさにここでとりあげた引用にあるように
「温故知新」である
温故がなければ知新もない
そしてその間にある「而」という
じっくりと取り組む時間で
そのあいだを魔術的に変換しなくてはならない

古代の叡智にこだわる気はないし
それにとらわれすぎて
過去向きになるのは避けなければならないが
古典という滋養はあらたなものを見出すための
貴重な栄養源になることは間違いない

そしてそれは与えられるものではなく
みずからが見出し問いかけることで
はじめてそのさまざまな姿を見せてくれるようになる

そして日本語を主に理解できる物にとって
古語や漢文で書かれたさまざまは
身近であるだけあって
少し努力するだだけで活用しやすい資源となってくれる

■安田登『野の古典』(紀伊國屋書店 2021.1)

(第二十二講「漢文と日本人」より)

「いままで考えもしなかったことが問われる時代が、すぐそこに来ているのかもしれません。そのような時代が来たとしたら、「どうしたらいいんだ」と頭を抱える人もいれば、「ついに俺たちの時代だ」と喜ぶ人もいるでしょう。
 SF的社会の到来は先の話にしても、少なくともこれからは記憶力やマニュアル化された問題解決能力だけでない、もっと深い「知」や身体性が問われる時代が訪れるはずです。そして、そのときにこそ大切なのが、逆説的に聞こえるかもしれませんが古典、それも漢文なのです。
 ここで「漢文」とはなにかをひと言で説明しておきますと、古代中国の文章で、いわば中国版の古文です。だから現代の中国人でも、勉強をしないと『論語』や『詩経』などもなんとなくでしか読めません。古典を勉強していない日本人が『平家物語』や『源氏物語』をきちんと読めないのと同じだと思ってください。」

「いままで考えもしなかったような問題に直面したとい、現代人の多くはその答えをまずネット検索に頼る傾向が強いように見受けられます。しかし、ネット上では答えが見つからず、詩人に尋ねてもわからなかったら自分で考えるしかありません。
 では正解のない難問が立ちはだかったとき、いったいどうすればよいのか。
 そう、そんなときこそ漢文なのです。
 古代中国の賢人、孔子の言行録を収めた『論語』に「温故而知新」という章句があります(為政十一)。この有名な句を一文字ずつ読んでみましょう。
 「温」とは、蓋のある鍋のようなものに具を入れて、ゆっくり、じっくり煮るようなものです。蓋をしているのでその変化は見えませんが、なかの具は確実に煮えている。それが「温」です。
 「故」は、いまの「古」(=古い)です。本に書かれてあることや、だれかが知っていること、あるいは自分が持っている知識も「古」です。これはただ古いだけのことではありません。それは「固」(=不変)にも通じます。古ければなんでもいいというものではない。本当にたいせつなことが「故=固」です。
 そんな大切な知見を「温」、すなわちじっくりと煮る、焦ってはいけません。ゆっくりと時間をかけて煮続けます。
 すると「知新」となるのですが、この「知」はいまの「知る」とはちょっと違います。
 「知」という文字は、孔子の時代にはなかった文字です。あったのは「矢」だけです。この「矢」を上下逆転させ、地面を表す「一」を組みあわせると「至」になります。
 「至」とは、矢が目の前に飛んでくるように、なにかが突然、出現することをいいます。『論語』のなかの「知」は、この「至」に近い意味をもちます。
 ある問いに直面する。そうしたら、まずは「故(千古不変の知見)」をたくさん探す。そして、それらをぐつぐつと煮る。すると、ある日まったく「新しい」知見や方法が突然出現する。それが「温故知新」なのです。
 いや、まだありました。「温故」と「知新」のあいだにある大事な「而」という文字を忘れてはいけません。
 (・・・)何かが変容するための魔術的な時間が「温故」と「知新」のあいだに入ります。その時間を経過することによって、ぐつぐつ煮続けた「故」が想像し得なかった変貌を遂げて、その姿を現します。
 それが、「温故而知新」なのです。」

「孔子のいう「故」は、古典だけを指すのではありません。どんな新しい本も、それが書かれた時点で「古く」、すなわち「故(古=固)」になります、ぐつぐつ煮込む材料として、あたら資本はむろん必要です。しかし、数千年、数百年の風雪に耐えた古典派、やはり外すことができません。
 西洋のものならヘブライ語やギリシャ語、ラテン語で書かれた古典があります。でもわたしたち日本人がそれらの古典を原文で読むのはなかなか大変です。わたしたちにちょって、原文で読めるもっとも身近な古典、それが漢文なのです。」

「漢文と和文のバイリンガルは、江戸時代が終わるまで続きました。」
「それが大きく変化し始めるのが、明治時代です。
 漢文中心の世界に、英語やラテン語をはじめ、さまざまな西洋言語が入ってきました。それでも外国語の多くは和語ではなく漢字に翻訳され、その翻訳文体も漢文訓読体でしたので、まだまだ漢文の影響は強くありました。」
「江戸幕府が瓦解したとき、列強の脅威にさらされながらも植民地にされなかったのは、漢文を基礎とする知識人層が、その語学力や学問の吸引力によって、西洋人に伍するような知識をあっというまに取得したかたではないかと思うのです。」
「翻訳ものだけではありません。明治期の知識人にとって漢文は和語と同じくらい、あるいはそれ以上に読みやすかったので、そのころの小説も漢文訓読体のものが多く流通していました。」

「古典を捨ててしまったら「温故」ができません。温故ができなければ「知新」もない。これからの未来を「考える」ことができなくなってしまうのです。
 情報が氾濫しているこの時代、これからの世界に必要とされるのは、自分の頭と身体で考えること。(・・・)そのためには古典、特に漢文が必要なのです。
 世のなかに人工知能(AI)がさらに浸透してきても、やはりいつまでも漢文の学習は残るべきです。かりに人間の知能を超えるAIが出現したら、AIも自ら「漢文やシュメール語の文書から学ばなければ」と判断して、古代からの叡智をどんどん吸収していくかもしれません。」

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