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臼田捷治 『<美しい本>の文化誌/装幀百十年の系譜』

☆mediopos-2338  2021.4.11

夏目漱石の『こころ』(一九一四年)は
漱石自身がアートディレクターとなって装幀されている
装幀家は若き橋口五葉
夏目漱石の全集もそのデザインがベースになっているようだ

夏目漱石の全集の何冊かを
すでに古びて「黒っぽい本」となっている
かつての旧字体での全集で読み直したことがあるが
文庫本で読んだときとは
作品から受けるイメージはずいぶん異なり
しかもかつてその全集がでたころにでも
タイムスリップした感もあった

その夏目漱石以来
「美術家や著作者自身、文化人、編集者たちが」
「近代装幀を築いてきた」という

北原白秋の『思ひ出』
萩原朔太郎の『青猫』などは
著者自身が装幀を
泉鏡花の『日本橋』は小村雪岱が
小林秀雄の『私小説論』は青山二郎が
装幀を行っているように
本にはまさにオーラのようなものがあった

個人的にいえば装幀をはじめて意識したのは
松岡正剛とも深く関わりのある杉浦康平で
本というものをそれまでよりも
ただ本文を読むものとしてだけではなく
多面的なイメージでとらえるきっかけにもなり
その後はずいぶんと装幀のことが気にかかるようになった

内容だけではなく
ときには内容はほとんど忘れていても
印象に残る本は
それなりの「顔」をもっている

最近では古書店で少し前のアナログ装幀の時代の書籍
たとえば塚本邦雄の歌集や評論集などを手に取り
その装幀の素晴らしさに時を忘れることもある
かつての優れた本には
それなりのオーラを発している「顔」があるからだ

これは装幀だけについていえることではなく
デザイン全般さらには映像についてもいえることで
アナログからデジタルへの移行は
ずいぶん「顔」の変化を伴ってきている
本書でも示唆されているように
「奥行きある身体性」の有無とも関係しているのだろう

もちろん現在もすぐれた装幀はあるのだが
スマホで撮る写真や動画のように
DTPによるカンタンベンリなデザイン処理が可能になり
だれでもそこそこのレベルでできてしまう反面
そこにオーラを発している「顔」」は稀薄になってきている

個人的にいえば
本を特別視する気もなく
(希少本だとか歴史的価値だとかには特に関心はない)
その内容をちゃんと受けとれればいい
そう思っているところはあるが

問題はその内容を受けとるというとき
装幀を含んだ表現部分が
さまざまに影響してくるということだ

読みやすければいいというわけでもなく
必要条件としての読み難さを伴っていることもある
また「読む」ということは
単に「読む」ということだけではなく
そこには五感+αによる知情意が総合的に関わっている

だから書店や古書店を渉猟しているとき
ときにオーラを発している「顔」」があって
じぶんが呼ばれているように感じることもある
反対にテーマ的に興味はひかれるのに
何度手にしてもどうしても読む気にならない
そんな本もずいぶんと多くある

しかしあらためてこうして
「装幀百十年の系譜」を辿ってみると
ずいぶんといろんな発見がある
じぶんがどんな基準(好み)で本を見てきたのか
そのことも含めあらためて振り返るきっかけにもなったようだ

そんななかで
編集者でもあり詩人でもあり
じぶんの詩集をはじめ装幀も手がけていた
吉岡実のこんな言葉が印象に残っている
「要するにね、ぼくの中には〝あきのこない本〟、
〝いやみのない装幀〟という気持ちが基本としてあるんだよ」

■臼田捷治
『<美しい本>の文化誌/装幀百十年の系譜』
(Book&Design 2020.4)

「書物を読者に書店などで届ける際に、その選択の手がかりを、書名・著者名・版元名を付し、装画やや写真などをあしらうことで提供するのが、本の<顔>である<装幀>だ。そして、書物と相対したいときの喜びに、いわゆる<美しい本>との出会いがある。内容にふさわしい装幀によって装われた美本をおもむろに我が掌に収めるーーーー。何物にもかえがたい愉悦であり、醍醐味である。
 極論すれば、書名と著者名、それに出版社名、定価の表示があれば、とりあえず成立するのが装幀だ。しかし、その書名を活字で組むのか、レタリング(デザイン文字)でいくか、手書き文字にするのかと分かれる。活字の場合も明朝体にするか、それともゴシック体にするのか。そして、それを大きく押し出すのか、逆に小さく控え目に置くのか、縦組にするのか横組にするのか・・・・・・。見知らぬ街に立ち入ったときのように、さまざまな選択肢が待ち構えている。
 実際に本を手にとると、函やカバーの用紙の材質がそなえる手触り、見返しのハッとするような色調、ページを繰るときのかすかな紙すれの音とやさしい手触り、ほのかにかぎとれるインキの匂いなどが五感を刺激してやまない。本に固有の感触と物性である。さらには「花ぎれ」(背の内側上下に貼る布)のような極小世界の色模様の選択や栞紐(スピン)の色合い・風合いにも、装幀者の心づかいが感受できるときの新鮮な驚き。」
「このような至福感は、外函やカバー、帯をはずされ、どことなく寒々しい印象を与える図書館の架蔵本などではというてい味わえない。ましてや「もの」としてのたしかな手ごたえを感じとれない伝書籍では、はじめから無理な注文というべきであろう。
 しかも紙の書物には電子本にはない時間性が折り畳まれている。書物はその時どきの文化を背景に生み出されるものであるが、刊行当時の「時間」をそれぞれが刻印しているとともに、その時から現在までの不可逆な時の推移を塗り込めている。つまり、書物には二重の時間性はあるということ。
 ひとつは、表層的になるが、時代をさかのぼるほど「黒っぽい本」とか、逆に近年のものほど「白っぽい本」と、古書業界の人が本の経年変化を呼び慣わしているのがそれに相当するだろう。時が経った書物に親しんでいると、そうした変移を欠く新刊の、のっぺりとした表情に物足りなさを感じてしまうほどだ。
 ふたつ目は、書物には内在する時空の厚みをとおして時代の相貌が浮き彫りにされること。本はたしかに知の独立した王国を築いている。が、それぞれの時代の文化状況の後押しされて企図されたものであり、それを三次元のかたちをもつ器として立ち上げるには、印刷や製本の技術を借りなければならない。逆の側面からいうと、時代の文化と技術の枠組みがその書物を誕生させたといえるだろう。本のタイトルなどにくわえて、その本全体のたたずまいから、おおよその刊行年が推し量れるのはそのためである、」

「装幀は時代の精神や空気を映す器であるとともに、文学(テキスト)と美術(意匠)とが響き合っている。その成り立ちには、まず著者および出版社、編集者、校閲者があり、装幀家が造本意匠を懲らす。装幀家は画家やイラストレーター、写真家などとタグを組むことも。ついで印刷会社が提供する用紙を用いて印刷者が印刷し、それを製本者が最終的なかたちに仕上げる、印刷にはインク業者の支えもある。フォント(活字書体)は専門の書体デザイナーが設計したものだ。本が立ち上がるまでにはじつに多彩な人たちのかかわりと協働の課程があればこそ、それゆえ<小さな総合芸術>だといえるだろう。そして、取次や書店などで販売する人の手を経て多数の読者の手に・・・・・・・。」

「現在、一方で電子書籍化への流れがあり、紙の本存亡の危機が叫ばれている。だが、風合いと色、柄があり、さらに匂いもあって五感にやさしく寄り添い、時間軸を超えて存在する紙の本が消滅することはあるまい。
 その紙の集積からなる本を、装幀は魅力ある<かたち>に仕立てて読み手に差し伸べる。そして、美しい本が語りかける<言葉>はテキストと一体となって、読者それぞれのうちで<生きられる>存在となるのだ。ちょうど建物がその住み手によって慈しむように丁寧に住まわれると、命あるもののように、年を経るごとにかけがえのない深みを増していくように。あるいは、ヴァイオリンの名器がすぐれた奏者との出会いによって音質が磨かれ、日を追って<育って>いくように・・・・・・。」

「装幀文化揺籃期は模索の時代。夏目漱石がアートディレクター的な役割を果たし、時に自ら手を下しつつ、橋口五葉という若い異才をわが国はじめての装幀家として育てることで、ひとつの規範を開示。以来、美術家や著作者自身、文化人、編集者たちがその一翼を担い、近代装幀を築いてきた。多士済々、多彩を極める担い手の登場には目を見張る。とりわけ、五葉や小村雪岱の版画的な美との調和と、象徴的な存在であり続けた恩地孝四郎に代表される版画家の活躍を特記したい。版画と装幀とはその複製性において共通のモーメントを持っている。が、その版画表現の変質を契機とする版画家装幀の退潮は、わが国の近代装幀が共有し、読書人から広く支持されてきた<物語>の喪失を印すものとなった。
 一九六〇〜七〇年代以降の装幀は、画家や版画家による<美術>としてのそれに代わって、タイポグラフィへの認識に立って、本文組を出発点とする<ブックデザイン>への移行が進んだいきさつを見てきた。装幀あるいはブックデザインに特化したプロフェッショナルの進出も顕著となり、当然のこととしてあった編集者などによる社内装幀の占める役割は大きく後退した。
 また、「平成」の始まり(一九八九年)とほぼ重なり合うかのようなDTP時代の到来は、それまでのアナログ時代の「一子相伝」的なデザイン手法の終焉をもたらした。それぞれの出版社であったり、有力なデザイナーやデザイン事務所であったりが独自につちかってきた<基準>にとって代わり、デジタルテクノロジーの高度な巣切りは、誰でもがそれ相応の完成度に導かれることになった。が、その結果としてデザインのある種の<大衆化>現象が生じ、それぞれの完成度は相応のレベルに達していながら、皮肉にも函からこぼれ落ちたコンペイトウが散乱しているがごとき細分・分極化が進行している。奥行きある身体性を欠いたデジタル特有の平板さもその印象をさらに強くする。
 公式のない現代の写し絵のようなこうした様相に直面すると、わが国の装幀文化が営々と積み上げ、共有されてきた価値観をもう一度、問い直してみることが肝要だと思えてならない。」

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