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小野純一『井筒俊彦/世界と対話する哲学』

☆mediopos3251  2023.10.12

慶應義塾大学出版会から
井筒俊彦に関する重要な研究書が
二冊刊行されたところだが
安藤礼二『井筒俊彦 起源の哲学』については
mediopos3237(2023.9.28)でとりあげている

今回は主に小野純一『井筒俊彦/世界と対話する哲学』を
とりあげることにする

あえてこの二冊を比べてみると
安藤礼二の著作は
井筒俊彦の背景を含め総合的に描いているのに対し
小野純一の著作は
「世界と対話する哲学」とあるように
井筒俊彦の言語哲学の核にあるものが
正面から論じてられている

そしてどちらも日本語で著された著作だけではなく
「英文著作翻訳コレクション」全7巻も踏まえられ
この二冊を読めば
これまで以上に井筒俊彦とその思想の全体像が
ずいぶんクリアに見えてくる

個人的な関心からいえば
以前から「意味とはなにか」をめぐり
いろいろ考えてきたこともあり
そのなかで山内得立の『意味の形而上学』などにも
ずいぶん啓発されてもきたが
(mediopos2713(2022.4.21)でとりあげている)

やはり井筒俊彦の言語哲学についての
その根源的なアプローチは深く頷けるものだ

「意味とはなにか」
「意味はどこからくるのか」
といったことを考えていくばあい
その根源には「言語」への問いがある

「日常の「現実の世界」は言語によって
表象され思考され、経験となる」からである

そして多くのばあい
そこで規定されている「意味」に
わたしたちは強固にとらわれている
いろんな意味で言語は「呪術」でもあるのだ

井筒俊彦の「東洋哲学」は
その囚われた思考を
「自由の空間」へと開こうとする

そしてそれは自己と他者
自文化と異文化の「世界観」を
架橋するための「対話の哲学」ともなっている

仏教では「あらゆる人の経験が意識の深層に
言葉の意味になる可能性(種子)として
蓄積された深層の記憶」を「アラヤ識」と呼ぶが

それを言語論としてとらえたとき
「母語に固有の意味連関が下意識に広がり、
さらに意識化が不可能な深層領域にまで広がる」

そうした他者とも共有されているような意識下から
わたしたちが通常使っている言葉
そして意味が表出されてくるのである

わたしたちはそうした言語に規定された
「コスモス」を生きている
しかしその存在秩序は「抑圧のシステム」でもある
決められた意味に縛られてしまっている

そのように「意味なるものが人間の意識の深層に淵源する
柔軟な存在分節の型であるとすれば」
それを解体することを通じて
「一定の分節体系に縛りつけられない融通無碍な意識」を
再構築することも可能である

そうすることで
他者とも異文化とも対話可能な
言語意識と意味を育てる可能性もひらけてくる

「意味」は人間のあらゆる活動が「種子」として
蓄積されたところから「言葉」として現れてくるが
その「言葉」について自覚的であること

そうすることで
いわゆる「常識」や「世間」「共同体」にとらわれた
牢獄のなかにいるような思考から自由になる可能性を
開くこともできるのではないか

現代はますます「危機」の様相を呈しているが
そんな危機を回避し得るのも
そうした「世界と対話する哲学」の観点なのだろう

規定されたコスモスに自足し
その「常識」を疑わないまま生きていると
異なるものを架橋する可能性はひらかれない
みずからのコスモスから外にでることから
まずははじめる必要があるのではないか

■小野純一『井筒俊彦/世界と対話する哲学』(慶應義塾大学出版会 2023/9)
■井筒俊彦『意識と本質/精神的東洋を求めて』(岩波書店 1983/1)
■井筒俊彦『意味の深みへ/東洋哲学の水位』(岩波書店 1985/12)
■井筒俊彦『コスモスとアンチコスモス/東洋哲学のために』(岩波書店 1989/7)
■井筒俊彦『意識の形而上学/『大乗起信論』の哲学』(中央公論社 1993/3)
■井筒俊彦(安藤礼二監訳・小野純一訳)『言語と呪術/英文著作翻訳コレクション』(慶應義塾大学出版会 2018/9)
■山内得立『意味の形而上学』(岩波書店/1967/4)

(小野純一『井筒俊彦/世界と対話する哲学』〜「第五章 世界と対話する哲学————自由なる思考を求めて/1 アンチコスモスの創造性」より)

「日常の「現実の世界」は言語によって表象され思考され、経験となる。そこに意味が不可避に介在することに私たちは無自覚であり、それだけに意味の規定性は強固である。だがその規定性に囚われた思考を「自由の空間」へと東洋哲学は開こうとする(「コスモスとアンチコスモス」)ここまで跡づけてきたように、井筒の著作を『言語と呪術』を軸にして読み直してみると、井筒は常にこの言語の限界を乗り越え、そしてその問題と表裏一体である言語の可能性を追求してきたように思える。その探究は最晩年まで貫徹された。」

(小野純一『井筒俊彦/世界と対話する哲学』〜「第五章 世界と対話する哲学————自由なる思考を求めて/2 文化と言語とアラヤ識」より)

「仏教は、あらゆる人の経験が意識の深層に言葉の意味になる可能性(種子(しゅうじ))として蓄積されると考え、その深層の記憶を「アラヤ識」として措定する。経験の痕跡は個人を超えて蓄積される。これを言語論として解釈するなら、母語に固有の意味連関が下意識に広がり、さらに意識化が不可能な深層領域にまで広がると措定できる。(・・・)井筒にとって、言語は個人の心を常に超出する外部性であった。それは限りなく豊かな他者の声を含む「心」として定立される。

(・・・)

 あらゆる可能性に開かれた「意味可能体」が意識の深層ではダイナミックに連動し合いながら意味構成を支えつつ、いつか一つの意味として顕在化するのを待っていると措定する点に、井筒の意味論の独自性がある。意味要素は、潜在性においてはあらゆる結合の可能性に開かれている。この無限の意味の可能性が蠢く次元は、完全なカオスでもなく、一義性によって秩序だったコスモスでもなく、その中間的な常態を指す。井筒はそこにテクストを解釈する際の無限の可能性や発話における創造性の根拠を見る。それを支えるのが個人を超えた複数の他者の生きた跡である点が重要だ。」

「井筒は鍵概念の分析を通して日常生活の言語的な秩序を根底から支える意味関連を明らかにし、他者理解や異文化理解を実現しようとした。井筒の関心は、文化そのもの、すなわち世界観を意味関連として描き出すことだった。そして文化に固有の世界像を井筒は「意味マンダラ」と呼び、「異文化の接触とは、根源的には、異なる意味マンダラの接触である」と言う(「文化と言語アラヤ識」)

 井筒にとって、異文化とは、根源的に理解されるべきものだった。例えば、自然で素朴な物の見方をする人は、慣習的な記号のシステムに依拠し、その有意味的な秩序に従って生きている。そのような人の日常意識では、まず世界が存在し、その世界の中に事物事象が存在する。言語は、その相互関係で成り立つ世界を「外側からなぞっていく」。井筒はこのように世界を自分の外に自律して存在する客体として捉える方法を「水平的なアプローチ」と呼び、それに対して世界をどのつどの経験によって意味として立ち現れると考える態度を「垂直的なアプローチ」と名づける(「意味分節理論と空海」)。

 井筒の見立てでは「垂直的なアプローチ」によって、世界経験とその主体とを重ね合わせて捉えるのは、現代人の心に潜在する「呪術という太古の精神」(『言語と呪術』)、すなわち意識の「太古」の薄暗がりである。その意識の領域を井筒は「記憶の彼方」や「無意識」と表現した。経験の固有性を捉えるために、井筒は「垂直」という言葉で表現するのは、太古から連綿と受け継がれた言語が彼方から自分へと到来するような主客未分の感覚である。経験の固有性に至るには、意味マンダラ、言語アラヤ識、そして意識のゼロ・ポイントを視座に据える必要がある。異なる文化や他者との対話は、自己の意味構成に変動を生じさせる。概念と概念の境界線がわずかながら移りゆく。井筒にとって、「世界」とは、概念と概念、意味と意味とが複雑にダイナミックに絡み合い、変容しながら、時々刻々と新たに生み出されるそのつどの経験のことであった。」

(小野純一『井筒俊彦/世界と対話する哲学』〜「第五章 世界と対話する哲学————自由なる思考を求めて/6 自由なる思考を求めて」より)

「井筒の哲学は、自由に思考する可能性に基礎を与えてくれる。彼には、固定観念によって規定された言葉の意味が、表層意識からは隠された無限の意味に支えられているという直観があった。その直観にもとづき、言語学や哲学、心理学、人類学、文学の叡智を用いて、言語の秘密を明らかにしたのが『言語と呪術』だった。このテーゼは、井筒の中で二つの道を取ったように思われる。一つは、意味が確立する瞬間と「アラビア語」である。第二章で見たように、イスラームが成立する前と後で「意味の構造」に変化が生じた。それを明確に分析することのできるアラビア語の文献は豊富に存在する。だからこそ井筒は、アラビア語によって書かれたコーランを中心とする思想伝統を考察対象に選んだ。もう一つは、仏教の唯識説である。唯識論は第四章で論じた通り、意味の規定性と無規定性を問題にする。井筒はその理論化を試みた。

 井筒は、活動を開始した初期から最晩年に至るまで、数多の主題をめぐり一貫性のある思索を紡いだ。その歩みは、この二つの選択に支えられている。井筒が自己の哲学の方法論を構築し、彫琢するのを支えたのは、物心ついた頃から禅や老荘思想、儒学などの漢籍によって涵養された精神と、ギリシア語やアラビア語の古典を自由に読みこなす言語能力であったのは間違いない。それらの条件が揃うことで、井筒は世界的な哲学者として認められるに至った。井筒は、意味の規定性に無自覚であることから生じる硬化した思考や固定観念に縛られずに、経験のさなかで充溢する意味を捉え、理論化しようとした。彼は儒教や老荘、仏教の古典、あるいはアラビア語の聖典や古典の解釈史を研究史、意味を自由な創造性へ送り返す技法を身をもって知っていた。だからこそ、社会を規定し文化を形づくる古典を、自由に思索する源として読み直し続けたのだろう。

 習慣、社会、日常言語に不可欠な意味の規定性は、意味の豊穣さを犠牲にせざるをえない。だが同時に意味とは「潜在的な可能性の宝庫そのものであり、条件が揃えば思いがけない分岐線にそってさまざまに展開しうる」と井筒は考えた(『言語と呪術』)。意味が形作る「世界」は、豊穣な世界の可能性そのものである。言語の創造性と無限の可能性こそ、井筒が生涯をかけて解明しようとした主題だった。

 井筒の思索は、自由な思考の根拠を探ることであり、また言語の自由を自らの表現の可能性として探求する実践哲学である。それは目の前の事物や社会、思想的基盤が言語によってどのように規定されているのかを分析し、対象となる異文化や他者、そして自己を真に理解しようとする営みだった。それは、目の前の「花」であろうと、異文化であろうと、哲学や文学であろうと、それらがよって立つ前提条件から捉え直し、その理解を固定観念に囚われずに「言葉」によって表現することだ。井筒の言語探求は、自己探求でもあり、自己表現の探求でもあった。言うまでもなく。私たちは心底に蓄積された言葉と文化によって支えられる存在である。そこに蓄積された複数の声と視点を一般化せず、それらを言葉の意味として自由な言説空間に送り出し、思い込みに安住せず語り直す。そのような世界との対話は、生きるに値する日常を実現するための、絶え間なき前進である。」

(井筒俊彦『意味の深みへ/東洋哲学の水位』〜「2 文化と言語アラヤ識」より)

「異文化の接触、異文化の衝突が、世界の至るところで惹起しつつある現代世界の混迷状態を、人間文化の危機として受けとめる人がある。たしかに危機には違いない。それは進んでいく方向によっては。だが、それはまた、個別文化の新生へのチャンスでもあるのだ。

 異文化の接触とは、根源的には、異なる意味マンダラの接触である。我々が既に見たように、意味マンダラは、特にそのアラヤ識的深部において、著しく敏感なものだ。刻々に生滅し、不断に遊動する「意味可能体」は、それ自体において既に、本性的に、かぎりな柔軟性と可塑性とを持っている。まして、異文化の示す異なる意味マンダラに直面すれば、鋭敏にそれに反応して、自らの姿を変える。だから、異文化の接触が、もし、文化のアラヤ識的深部において起こるなら、そこに、意味マンダラの組換えを通して、文化テクストそのものの織りなしの機会が生じることはむしろ当然のことでなくてはならない。文化の新生。新しい、より包括的でより豊富な、開かれた文化の誕生する可能性が成立する。そこにこそ、我々は、異文化接触の意義を見るべきなのではないか。そして、それこそ異文化間対話の究極的な理想像であるべきなのではないか、と私は思う。」

(井筒俊彦『コスモスとアンチコスモス/東洋哲学のために』〜「Ⅲ コスモスとアンチコスモス」より)

「アンチコスモス、存在解体。なぜ解体するのか。(・・・)人間は、なんらかの形での有意味的存在秩序なしでは生存できない。コスモスとは、それほどまでに人間にとって大切なもの。それをかぜ解体するのか。
(・・・)
 東洋哲学の立場から見ますと、我々の自然的意識の見る世界、そしてそれに基づく常識的な、あるいはロゴス的な、存在観には根源的な誤りがある。仏教ではそれを「無明」(根源的無知)と呼ぶわけですが、それは常識的人間が、経験的事物を純粋に「有」的に、つまり客観的対象として、すなわちAはどこまでもAであるというような動きのとれない形で実在するものと思っている、ということです。しかも人は、普通、自分がその中で生きているコスモスを、そのような、実体的に凝固した無数の事物からなる一つの実体大系であると思っている。それが常識にとってのコスモスなのであります。だが、そういう形で表象されたコスモス空間(存在秩序)には、どこにも抜け道はない。だからこそ、彼にはコスモスが、堪えがたい抑圧のシステムとも見えてくるのであります。

 このようなコスモス観にたいして、東洋哲学は、おそらくこう主張するだろうと思います。たしかに、「有」がどこまでも「有」であるのであれば、そういうことになるでもある。しかし、「有」が窮極においては「無」であり、経験世界で我々の出合うすべてのものが、実は「無」を内に抱く存在者(「無」的「有」)であり、要するに絶対無分節者がそのまま意味的に分節されたものであることを我々が悟る時、そこに自由への「開け」ができる。その時、世界(コスモス的存在秩序)は、実体的に凝り固まった、動きのとれない構造体であることをやめて、無限に開けゆく自由の空間となる、と。なぜなら、一々のものが、それぞれ意味の結晶であり、そして意味なるものが人間の意識の深層に淵源する柔軟な存在分節の型であるとすれば、「無」を体験することによって一度徹底的に解体され、そこから甦った新しい主体性————一定の分節体系に縛りつけられない融通無碍な意識。「柔軟心」————に対応して、限りなく柔軟なコスモス(限りなく内的組み替えを許すダイナミックな秩序構造)が、おのずからそこに拓けてくるであろうから、であります。

 東西の哲学的叡智を融合した形で、新しい時代の多元的世界文化パラダイムを構想する必要が各方面で痛感されつつある今日の思想状況において、もし東洋哲学に果たすべきなにがしかの積極的役割があるとすれば、それはまさに、東洋的「無」の哲学が、今お話したような、内的に解体された、アンチコスモス的なコスモス、「柔軟なコスモス」の成立を考えることを可能にするというところから出発する、新しい「柔軟心」の思想的展開であるのではなかろうか、と私は思います。」

(山内得立『意味の形而上学』より)

「事物は意味なしに実存することができない、単に存在はしても実存するとはいえないのである。しかし意味とは何であるか、意味はそれ自らとしてあるか又は事物の意味としてのみあり得るのであるか。この問題は単なる意味の論理学ではなく、意味の形而上学でなければならない、意味はあると言う、しかしこの場合「ある」というのは如何なることであるか。一般に「ある」ことを問題とするものが形而上学であるとするならば意味のあることを、さらには意味の何であるかを問うことは形而上学でなければならぬ。我々の形而上学は単なる存在の額でなくして意味的存在の学である。存在学は意味的存在学であることによって同時に存在の認識論となり得るのであろう。」

「人間的存在は社会にあって種々なる階型的意味と価値とに縛られて殆ど身動きもできないくらいである。時としてその息苦しさに堪えかねて、価値を転換し、社会を革命せんとする。しかし転換させられた価値といえどもなお価値の体系に属する。たとえ逆転せられても依然としてこの体系組織を脱するに由なかった。そしてこれを可能にするものは恐らくは宗教を措いて外にはなかったであろう。
 宗教に於いては就中価値は意味に転入する。価値は善悪を分ち、真偽を区別し美醜を分別するのみでなく、善を取り悪を捨て、正を容れ、邪を排す、その取捨選択に於て最も厳なるものは価値作用である。しかし神は罪深きが故に人間を捨てない、むしろそれ故にこれを愛し救おうとするのである。
(・・・)
 神は単なる存在でなく、有りてあるところのものである、即ち単なる存在でなくして存在の表現である。アリストテレスの実存もまたそのように「かつてあったものの現にあるところのもの」であり、単なる存在ではなく、存在の表現であったのである。神を信ずるとはその存在を信ずることであっても存在の何たるかが語られることなしに信ずることができない。信ずるとは殊にその言を信ずることである。それが人の語であるか神の言であるかは問わずもあれ信ずることは常にロゴスのことでなければならなかった。ロゴスは単なる存在でなく意味的存在であり、単なる言葉ではなく意味の表現でなければならなかった。初めにあったものはロゴスであり単なる存在ではなかった、神は存在なくして存在するものでなければならない。」

○小野純一『井筒俊彦/世界と対話する哲学』【目次】
はじめに
第1章 記憶の彼方の言葉――『言語と呪術』とクルアーンの詩学
第2章 存在の夜の黎明――意味分析論の行方
第3章 生々流転する世界――「存在が花する」のメタ哲学へ向けて
第4章 存在零度の「眺め」――存在と本質の拮抗を超える『意識と本質』
第5章 世界と対話する哲学――自由なる思考を求めて

参考文献
あとがき

○小野純一(おの・じゅんいち)
自治医科大学医学部総合教育部門哲学研究室准教授。専門は哲学・思想史。 東京大学大学院人文社会系研究科博士課程修了。博士(文学)(東京大学)。代表的な著作に「根源現象から意味場へ」(澤井義次・鎌田繁編著『井筒俊彦の東洋哲学』慶應義塾大学出版会、2018年)など、訳書にジェニファー・M・ソール『言葉はいかに人を欺くか』(慶應義塾大学出版会、2021年)、井筒俊彦『言語と呪術』(安藤礼二監訳、慶應義塾大学出版会、2018年)がある。

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