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多和田葉子(関口裕昭訳)『パウル・ツェランと中国の天使』/『パウル・ツェラン詩集』(飯吉光夫訳・編)

☆mediopos2982  2023.1.16

多和田葉子がドイツ語で書いた
『パウル・ツェランと中国の天使』という小説を
ツェラン研究者の関口裕昭が訳し
さらになんとその訳者によって
小説の「エピローグ」が加えられている!
しかも大部の「訳注」が
論文の詳細な注釈のように加えられている

「パウル・ツェラン」と題されているだけでも
興味を惹かれざるをえないだけではなく
いってみれば訳者との濃厚なコラボ的な要素まで
加味されている変わったかたちの小説でもあり
読んでみないわけにはいかなくなった

パウル・ツェランについて
深く興味を惹かれていたというほどではないものの
学生時代からそうした現代詩を含む
ドイツ詩を読んでいたこともあり
また当時ネットなども存在せず
郵便でしか取り寄せられなかった原書なども
四十数年来いまだ手元にあったりもする
ということでこの際ひさびさに
ツェランにつきあってみることにした

多和田葉子は大学の頃から
じぶんなりにツェランを読み続けていたといい
門構えをめぐるツェラン論である
「モンガマエのツェランとわたし」(一九九四年)も
ドイツ語から翻訳される形で発表されている

なぜ「門構え」なのか

「単にツェランの詩に「門」や「扉」と訳せる
Torという形象が頻出するだけではなく、
ツェランの詩的言語が境界そのものであることを
暗示しており、そこに難解であるツェランの詩の
「翻訳不可能性」ではなく「翻訳可能性」を
多和田は読み取っている」というのだ

おそらくその「翻訳可能性」への試みとして
この小説をドイツ語で書き
そしてそれが適切な訳者によって翻訳されたということである

さて小説はこんなストーリーである
コロナ禍のベルリンで
若き研究者のパトリックは
ツェランを愛読する謎めいた中国系の男性に出会い
ツェランの詩の世界へと入り込んでいく・・・

その詩の中心にあるのが
パトリックがパリのパウル・ツェラン学会で発表しようとしている
最後の詩集『糸の太陽たち』(一九六八)である

パトリックはツェランの詩を生きていて
小説は詩集から引用された詩句によって綴られ
読んでいて現実か空想かわからなくなってくるのだが
小説の最後と訳者による「エピローグ」によって
ようやく小説の全体が感動的に浮かび上がってくる

以前はあまり意識しないまま読んでいたが
「糸の太陽たち」の詩には
帯にも引用されているように
「まだ歌える歌がある、人間たちの彼方に」
という未来への希望のような言葉がある

アドルノは
「アウシュヴィッツ以後,詩を書くことは野蛮だ」と言ったが
ツェランはそれでも詩を書き続けた
それは決して「野蛮」などではないが
ハイデガーとの失望の対話が象徴しているように
ツェランにはいかに「歌える歌がある」かが
試され続けていたのだろう

ところでこの小説で重要な役割を演じている
レオ=エリック・フーという「中国の天使」
謎めいていてとても魅力的だ

■多和田葉子(関口裕昭訳)
 『パウル・ツェランと中国の天使』
 (文藝春秋 2023/1)
 ※表紙:糸かけ曼荼羅「地球」 製作 吉川あい子
■『パウル・ツェラン詩集』(飯吉光夫訳・編)
  (思潮社 1975年)
■Paul Celan Ausgewählte Gedichte Nachwort von Beda Allemann
 (edition suhrkamp 262 7.Auflage 42.-45, Tausend 1977)

(多和田葉子『パウル・ツェランと中国の天使』〜「6 ミイラの跳躍」より)

「「最初に会ったとき、きみは否定の樹(ナイン・バウム)について語ったよね」
 パトリックは言う。彼は突然その樹を思いついたことに自分でも驚きを隠せない。一方、レオ=エリックはまるでこのテーマを予想していたかのように黙って頷く。
「そうそう、私のお気に入りの樹なんだよ。「否定(ナイン)」は打ち消しているにもかかわらず、柔らかい言葉だね。「誰でもない者(Niemand)」は透明人間。決して(niemals)先に待ち受けている未来を保証する時は来ないだろう。「どんな砂の芸術もない、どんな砂の本もない、どんなマイスターもいない」という詩は知っているかい?」
「ええ、もちろん。『息の転回』に収録されている。ぼくは『息の転回』を分析するつもりはないけれど、この詩集はツェランの詩作においてコペルニクス的転回として位置づけられるんだ。これなしに『糸の太陽たち』は考えられない。
「じゃあ、きみはこの詩の最後の数行も知っているよね。綴り字が少しずつ抜け落ちてゆき、まずは「雪のなか深く(Tief im Schnee)」とくる。ただしこの三つの単語は続けて書かれている。TiefimSchnee。それからtとschが消えて、新しい語「いーふぃむねー(Iefimnee)」が現れる。それからさらにe、f、n、eが消えてハイフンでつながれた三つの綴りからなる語が残る。I-i-e。Iieが何を意味するか知ってるかい?」
「いいえ」
「そのとおり」
「なんだって?」
「Iieという言葉は、いいえという意味なんだよ」」

「ひとつきみに美しい話をしてあげよう。マサ(註:パリの日本人女性)は一度、糸かけ曼荼羅、あるいは糸の太陽と彼女が呼んでいるセラピーについて語ってくれたことがある。まず私の母が編み物に使っていたような木の枠を用意する。小さな番号を打った釘がその周囲に固定されている。数字の神秘的な配列にイライラしてはいけないよ。ただ色のついた糸を素数に引っかけていけばいいんだ。気がつけば木の枠の中に素晴らしく色とりどりの太陽ができ上がってる。ルドルフ・シュタイナーが最初に考案したこのアイデアは、ヴァルドルフ学園のいくつかの学校で素数を学ぶために幾何学の授業に取り入れられている。今日、〈糸の太陽〉は日本で鬱に対するセラピーとして導入されているのだよ」
「きみは実際に〈糸の太陽〉というものを見たことがあるの?」
「うん、マサは自分の娘さんが造った実に美しい作品を見せてくれた。信じられないくらいたくさんの色とりどりの糸が互いに交差し、コロナのような美しいギザギザのある王冠を作っている。きみもそれを見れば、どんなもやもやした気持ちもすぐに吹っ飛ぶよ」
「ツェランは〈糸の太陽〉のセラピーに接近し、ことによったら自分でも試したことがあると思う?」
「たぶんなかっただろうね。でも精霊たちはいつも色彩豊かな、多言語の糸をわれわれの頭上に張り渡していて、われわれは彼らの活動をコントロールできないんだ」」

(多和田葉子『パウル・ツェランと中国の天使』〜関口裕昭「訳者解説」より)

「本小説にはツェランの詩が随所にちりばめられているが、その中心をなすのが、詩人が生存中に刊行された最後の詩集『糸の太陽たち』(一九六八)である。若き研究者であるパトリックは、この詩集についてパリのパウル・ツェラン学会で発表しようともくろんでおり、彼の行動や空想は詩集から引用された詩句によって綴られていく。ある意味でパトリックはツェランの詩を生きているとも言える。」

「六〇年代以降のツェランの詩作は大きく変貌する。六三年に刊行された『誰でもない者の薔薇』は詩人の頂点をなす詩集である。ラーゲリに散った薄命のユダヤ系ロシア詩人マンデリシュタームへの追悼をばねに、ヘルダーリン、ヴィヨン、ツヴェターエワをはじめとする詩人へのオマージュ、ブルターニュ地方への旅の詩、そして最後にはリルケの『ドゥイノの悲歌』を彷彿とさせる長大な詩群が広大な宇宙空間に響き渡る。詩人の絶唱である。
 しかしこの後に刊行された詩集『息の転回』(一九六七)では、詩行は極端に圧縮されて一〇行以下のものが大半を占め、沈黙への傾斜が明瞭となる。まるで詩人は歌うことを諦めてしまったかのようである。生前最後の詩集となった『糸の太陽たち』(一九八六)は精神の未踏の領域に入る姿勢が明瞭になり、自然科学関係の様々な専門用語が引用されて、ほとんど卒読では理解できない難解な詩で占められるようになる。
 しかし六〇年代の後半、ツェランは精神の危機と闘いながらも、独自の詩境を深め、様々な人物と会い、また新しい試みに取り組んだ。版画家であった妻ジゼルとは協力して二冊の詩画集『息の結晶』(一九六五)、『闇の通行税』(一九六九)を刊行した。一九六七年にはフライブルクでハイデガーと会い、長時間にわたって話し合った。この対話は詩人の失望に終わったが、翌年にもハイデガーと会い、物別れに終わった詩作と思索の二人の巨人の対話はのちの多くの問題を投げかけることになった。また一九六九年の秋には初めてイスラエルに旅行し、多くの旧友と再会し、また知識人と語り合ったが、彼は同じユダヤ人でありながら異なる立場から疎外感を味わわねばならなかった。晩年は妻子とも別れて一人で住み、一九七〇年四月にセーヌ川に投身自殺した。没後遺稿から多くの詩が発見され、書簡とともに刊行されて今日に至っている。二〇二〇年はツェラン生誕百年、没後五十年の区切りの年で、コロナ禍にもかかわらず、その業績を再考する催しが世界中で行われ、多くの書籍が刊行された。
 今日、ツェランの影響は文学をはるかに超えて、多岐のジャンルに及んでいる。美術では現代美術を牽引するドイツのアンゼルム・キーファーが「死のフーガ」をもとにした一連の作品を制作している。カンチェーリなどの現代本学の巨匠がツェランの詩に作曲して音楽の言葉の可能性を探り、ルジツカはオペラ『ツェラン』(二〇〇一)を作曲して話題を呼んだ。日本の高橋悠治や権代敦彦らもツェランの詩をもとに優れた楽曲を作曲している。
 このような中で、日本人の多和田葉子がドイツ語でツェランについて長編小説を執筆したことは、ツェラン受容に新たなページを開いたといえよう。」

「八二年にドイツにわたり、日本語とドイツ語の両方で創作を始めた多和田は、大学でドイツ文学の学業を続け、自分なりにツェランを読み続けていた。あるとき『テクストと批評』という定期刊行物から「ドイツ文学は外国でどう読まれているか」というテーマで原稿の依頼があり、テーマ設定に多少の疑問を感じながらも、執筆を引き受けた際に書いたのが門構えをめぐるツェラン論であった。これは「モンガマエのツェランとわたし」と題して『現代詩手帖』(一九九四年五月号)に日本語に訳して発表され、さらに「翻訳者の門————ツェランが日本語を読む時」という題で『カタコトのうわごと』に収録された。
 そのきっかけとなったのは知人のクラウス=リューティガー・ヴェアマンが、多和田がコピーを送った飯吉光夫の『閾から閾へ』の日本語訳に対して(ヴェアマンは日本語を学んでいた)、その翻訳における門構えの重要性を指摘したことに始まる。確かに『閾から閾へ』のその日本語訳には門構えの漢字————閾、闇、閃、開、間、門など————が頻出する。ツェランの「ぼくは聞いた」は「ぼくは「聞いた、水の中には/石と波紋があると、」と始まる。これらを踏まえて、多和田は「聞」という字についてこう述べる。「「聞」という字では、門の下に耳がひとつ立っている。聞くというのは、全身を耳にして境界に立つということらしい」。また「閃」という字については、「門の下に人がひとり立っている。(・・・)もしかしたら、門の下、つまり境界に立っている人の目には、見えない世界から閃き現れてくるものが見えやすいのかもしれない」と述べている。
 注目したいのは多和田が双方の「境界」に注目していることだ。単にツェランの詩に「門」や「扉」と訳せるTorという形象が頻出するだけではなく、ツェランの詩的言語が境界そのものであることを暗示しており、そこに難解であるツェランの詩の「翻訳不可能性」ではなく「翻訳可能性」を多和田は読み取っている。多和田はこうしたことを計算したうえで、つまり日本語に訳された時にどうなるかを考えてこの小説もドイツで書いたと訳者には思われる。」

(詩集『息の転回』より「糸の太陽たち」)

FADENSONNEN
über der grauschwarzen Ödnis.
Ein baum-
hoher Gedanke
greift sich den Lichtton: es sind
noch Lieder zu singen jenseits
der Menschen.

糸の太陽たち、
灰黒色の荒蕪の地の上方に。
ひとつの
樹木の高さの想いが、
その光の色調を
とらえる ──
まだ歌える歌がある、
人間の
彼方に。

──パウル・ツェラン「糸の太陽たち」(飯吉光夫訳)

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