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対談=大澤真幸×吉見俊哉<追悼=見田宗介、その先へ> (「週刊 読書人 2022年5月27日」)

☆mediopos2755  2022.6.3

見田宗介がこの四月に亡くなって
「追悼=見田宗介、その先へ」という
見田宗介の弟子筋に当たる
大澤真幸・吉見俊哉による対談が
「週刊 読書人」に掲載されている

見田宗介には
自分が自由にものを書くときの
真木悠介というペンネームがあって
その名を使うのは「家出」することなのだという

見田宗介は真木悠介としての著作『気流の鳴る音』の中で
「根をもつことと翼をもつこと」について書いているが
真木悠介として「家出」することは
物事を根本的に考え
翼をもってみようという試みだったのではないかと
大澤真幸は語っている

ふつう「根をもつこと」と「翼をもつこと」は
矛盾してしまう関係にあるのだが

根をおろすところが
「存在それ自体という、最もたしかな実在の大地」ならば
「翼をもつことが根をもつことでもあり得るはずだ」
そう示唆されている

つまり「全世界をふるさととする」なら
「世界を俯瞰する「円天井は天上からでじゃなく、
大地によって支えられ」ることになる」のだと

見田宗介はそのように
「根をもつこと」が「翼をもつこと」となることが
現代社会のなかでどう実現し得るかを考えていた

そして「疎外」ということについても
「〜からの疎外」が起こるまえに
「〜への疎外」があるのだという

「〜への疎外」というのは
たとえばみんなが「同質の幸せを追求することで」
「むしろ真に幸せな人生の回路から疎外されている」ことだ
みんなが同じようなあるべき幸せを求めることで
規格品のようなかたちの「根」を求めてしまい
たとえ「〜からの疎外」が表面上は起こらなくても
その規格品の「根」を求めることそのものは
「〜への疎外」となってしまう

そして規格品の疎外された「根」から
「翼をもつこと」はできない

そこから少し飛躍するが
昨今のグローバリズム的な流れも
それそのものが「〜への疎外」となり
それが「〜からの疎外」を生み出してしまう
そこにはたしかな「根」を疎外する衝動があるからだ

しかもグローバリズムといいながら
それは世界をむすぶものではなく
むしろ世界を分断してしまう働きをもつことになる
いままさに起こっているさまざざまな世界的な事件は
そのグローバリズムの起こしたものだともいえる
それは「根」をスポイルさせる「疎外」に満ちている

■対談=大澤真幸×吉見俊哉
 <追悼=見田宗介、その先へ>
 (「週刊 読書人 2022年5月27日」所収)

(「家出と走る思想、根をもつことと翼をもつこと」より)

「吉見/なぜ真木悠介名を使ったかについては、見田先生自身が明快に由来を語っています。ペンネームは家出なのだと。その感覚を最初にスッと理解したのは、寺山修司だとも書いています。(…)

大澤/言語感覚的にも近いところがあるよね。

吉見/そうですね。私は『都市のドラマトゥルギー』という最初の本を書くのに、見田先生の『まなざしの地獄』からとても大きな影響を受けました。(…)
 『まなざしの地獄』の出発点には、見田先生の中で、寺山先生とのダイアログがあったと思っています。『人間解放の理論のために』が刊行されて、中に「空間の思想・時間の思想」という論文が入っています。ここで、寺山さんが歴史は嫌いで地理hじゃ好きな理由が解析されています。普通は歴史が動くといい、地理は静的だと思われているけれども、寺山修司からするとそうではない。歴史はなかなか動かない、革命は待っていないと起こらない。でも自分は一人、青森から上京してきた。地理は駆け抜けていけばいい。寺山にとって地理は走る思想で、歴史は待つ思想。地理の方が動的なのだと言うのです。
 この「走る思想」を突き進んで、目の前の都市と衝突してしまうと、永山則夫になる。寺山修司は、走っていった先に天井桟敷があり、演劇によって見えない世界を現出させることができや。でも永山則夫は近代に向かって走った先に何もなかったので、連続殺人に向かってしまった。
 当時の多くの人は、エレベーターを上がるように大学受験をして大学生になり、就職して企業で昇進していくことを目指す。それで一本の木のように、待つ仕事しかできなくなった。それを切断するには、横に走ればいい。時間論から空間論への転換が図られます。
 このモチーフは、家出にもつながります。寺山は芝居をすることで走り、家出した。永山は殺人になった。見田先生は、家出して真木悠介になった。モチベーションとしては、三者に重なる面がある。

大澤/面白い読みですね。見田さんは『気流の鳴る音』の中で、「根をもつことと翼をもつこと」について書いています。普通はアンチノミーになりますが先生の場合は、翼をもち続けていくことが根をもつことに繋がっている。二つのことが矛盾しない。真木悠介とは、物事を根本的に考えるために、翼をもってみようという試みだったのかもしれません。
 もちろんもっと単純な理由で、早い段階から有名になってしまって、見田宗介では自由にものが言えないということがあっただろうし、依頼されたものを書くときは見田で、自分が自由に書くものは真木、という形式的な区分があったでしょう。でもそれに当てはまらないものもあるしね。

吉見/だんだん家出しなくてもよくなっていったのかもしれません。家出した先も、世界中自分の家になっていった。
 普通は翼をもち続けると、根をもつことが難しくなる。聖人や神のように超越して、俯瞰で世界を見ることになる。でも見田先生は、翼をもつことが根をもつことである、といく回路がどこにあるのかを探し、全体を見ながら地面に降り立ち、現代社会の限界の彼方へと歩まれようとした。
 『気流の鳴る音』では、普通は飛翔する孤独と不安に苛まれる、でも「存在それ自体という、最もたしかな実在の大地」に根をおろすなら、翼をもつことが根をもつことでもあり得るはずだと書いています。「全世界をふるさととする」なら、世界を俯瞰する「円天井は天上からでじゃなく、大地によって支えられ」ることになる。それを、現代社会の中でどう実現するのかを、後年まで考え抜かれていた気がします。」

(「統計的事実の実存的意味「からの疎外」「への疎外」」より)

「大澤/都市社会学の研究はしばしば単なるデータの蓄積になって、吉見さんがおっしゃるようにちっとも面白くないんですよね。一方、見田先生の『まなざしの地獄』は、都市で生きる人の実存を捉えている。モノグラフ的な具体性に、客観的なデータを見事にシンクロさせる。その説得力はすごい。
(…)
 大都市で、まなざしに曝されながら生きていくことが、どんな苦しみであったのかと。せめて休日には、個室で誰の目にも曝晒されずに過ごしたい。何の変哲もない数字に、まなざしの地獄の中で苦しむ人々の思いを読み取る。すると休日の多い会社に勤めたいという一見呑気な人々の願望と、人を殺してしまうまでの少年の追い詰められた心理が繋がり、近代に生きる人間の普遍手樹名実存を浮かび上がらせるというわけです。これが本書で言う、「統計的事実の実存的意味」です。そういう独特の洞察力が見田先生にはありました。

(…)

大澤/マルクスやヘーゲルなどで「疎外」という言葉はよく使われています。でも見田さんは、『現代社会の存立構造』の中で、「〜からの疎外」の前に、「〜への疎外」があるのだと書いていて、これがすごく独創的。たとえばN・N(永山則夫)は富から疎外されていたけれど、その前に、全ての近代人が富へと疎外をされているということがある。あるいはN・Nは東京から疎外されていたわけですが、その前にすべての人の東京への疎外がある。「からの疎外」だけ見ると、恵まれていない人と恵まれている人の分断を問題にするだけになりますが、貧富の差別が生まれてくるより深い構造的な原因として「への疎外」があるのだと。
 つまり、東京でそこそこ成功している人も、実は東京/富「への疎外」の中で生きているので、いつ東京/富「からの疎外」に転落するかわからない。いかに自分が都会的な文化の中で豊かに生きているかを競い合う中で、どれだけ不安と焦燥に苛まれる寂しい人生を送ることになっているのか。「からの疎外」の前に「への疎外」を見出したことにより、見田さんの議論が全体性をもつことになった。

吉見/それは初期から一貫した姿勢でしたね。六〇年代頭に書かれた論文の一つが「現代における不幸の諸類型」ですが、この論文では不幸な境遇の人たちがどんな心理構造をもっているかという分析ではなく、人々がいかに幸福へと疎外されているかを浮かび上がらせました。五〇年代から六〇年代にかけて、日本人がみな同質の幸せを追求することで、潜在的に不安や虚無、そこから脱落したときの不幸の感覚が生じており、むしろ真に幸せな人生の回路から疎外されている。つまり、規格品になれない人がいることが問題なのではなく、規格品にみんながなろうとしてしまうことが問題なのです。戦後の日本人がいかに幸福への単線回路へ、集合的に疎外されてしまったのかということを、不幸という反射版を通して浮かび上がらせていました。

大澤/先生のこのような研究があったからこそ、社会学がこの国で意味のある学問になり得たと言えますよね。」

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