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『〈こころ〉とアーティフィシャル・マインド』

☆mediopos-2391  2021.6.3

「自然」とはもともと
おのずから然らしむる生成する力
とでもいえるものでもあって
それを大自然の力といったものとして
とらえることが多いが
そうした自然に対立するものとして
「人工」という言葉が使われたりもする

その人工的なものを
自然の生成する力のなかの一部を
技術化したものとしてとらえたとき
必ずしも「自然」と「人工」を対立的に捉える必要はない

問題があるとすれば
「自然」の力の一部を取り出して
その技術がほんらいの生成する力をスポイルし
破壊的な形で使ってしまうところにあるのだといえる

また「アート」には「人工」という意味もあるが
「芸術」という意味でも使われる
いわゆる「ファイン・アート」である

昨今では「AIが描いた絵画を」
「レンブラントによる芸術作品と見違え」てしまうように
「AIにアートは可能か?」というような
問いさえもなされることがあったりするが

レンブラントの絵画を再構成する技術は
「レンブラントらしさ」を見せることにはなるが
それを芸術的な創造としてとらえることはできない
「芸術」と「芸術らしさ」とはまったく異なるからだ

もし人間に機械と同じ力を求めて
それを比較するとすれば
人間を機械として見ているだけのことになる

AIもまた同様である
AIが行うデータ処理作業を人間と比較することは
人間をAIとしてみなしてしまっているのである

人間の力の一部には
機械やAIにあたるところもあるが
人間の創造力はそうしたものとは比較できない

そうした問いや発想には
「自然vs.技術、芸術vs.機械」という対立的な捉え方を
自明のものとする先入観があるが
じつのところその対立は
「アート」ということにおいては意味をもたない

人間のまわりには生成する「自然」の世界があり
人間自身のからだもまた「自然」の一部でもある
そして「アート」は必要に応じそれらのなかの一部を
技術にそして芸術に使うことでもあるのだが

人間は「自然」の一部であるだけではなく
(本書でいうところの)「こころ」がある
その「こころ」は自然の外にある
外にあって自然に働きかけること
それを創造的な意味での「アート」として
とらえることもできるだろう

人間は霊魂体という三分節の存在である
人間を機械やAIと比較するのは
人間を「体」のみの存在と規定する認識にすぎない

たとえ人間のからだがすべて作られ
アンドロイドのようになってしまったとしても
そこに宿り得る「こころ」があるとすれば
それは決してAIのようなデータではない

さらにいえば
人間は「自然」に働きかけて
自然そのものを「高次の自然」へと変容させる
そんな神秘学的課題をも担っている存在である
それこそが「芸術」的な営為にほかならない

■河合俊雄・吉岡洋・西垣通・尾形哲也・長尾真
 『〈こころ〉とアーティフィシャル・マインド』
 (創元社 2021.2)

「吉岡洋「こころとアーティフィシャル・マインド」より)

「アーティフィシャルな存在、つまり人工知能やロボットに「こころ(マインド)」はあるのか?というのは、昔ながらもSF小説のテーマとなる哲学的な問いです。けれどもそうした空想上の物語において定番の主題であった、ロボットが人間の挑戦するとか、機械が人類に取って代わるといった想像は、現代の現実社会における私たちの経験の中で、次第に古めかしいものに感じられるようになってきたのではないか、とも思われます。
 本書においては、人工的存在にこころはあるのか?といった直接的な問いよりも、むしろ、そもそも人工的な存在を和たちたちはどのように理解すればよいのか、今後もますます増えていくと思われるそうした存在とどう付き合っていけばいいのか、そしてまた、それらとの共存を通して人間自身のこころはどのように変化し、人間のこころのどのような側面が明らかになってくるのか、といった問いかけをしてみたいと思います。」

「「芸術」という日本語は近頃、いっぱんにあまり好まれなくなり、その代わりに「アート」という言葉を多くの人が使うようになりました。日本語の「アート」は「ファイン・アート(芸術)」の略称として使われているわけですが、本来「アート」という概念は、いわゆる「芸術」を超えたはるかに広い意味、「技術」や「技」「やり方」というような意味を持っています。芸術とはそうした技術一般の中の「美しい技術(ファイン・アート)」、言い換えれば何か他の目的に奉仕する手段としての技術ではなく、それ自体が目的であるような技術のことを言います。これがカントによる芸術の定義です。
 一方、「アーティフィシャル」という英語には、自然のものではなく「人工の」という中立的な意味の他に、「無理がある」「わざとらしい」といったネガティヴな意味があります。人工知能における「アーティフィシャル」は、言うまでもなく中立的な意味です。一方、例えば、an artificial smile(アーティフィシャルな笑い)と言ったら、「作り笑い」というような意味です。しかしながら、作った笑いがすべて「わざとらしい」わけではありません。役者は演技で笑うことができますが。優れた演技は作為でありながら、わざとらしくあってはなりません。それは自然の模倣、つまり「本当に笑っているように見える」必要がありますが、さらに言うなら、それ以上が望まれます。つまりおかしな言い方ですが、本物の自然よりも「自然」であるべきなのです。優れた役者演技で「作り笑い」すらできますが、それは人が何かを誤魔化そうとして思わず見える「作り笑い」よりも、ある意味もっと「作り笑い」らしくなければなりません。
 このように芸術においては、自然と技術との間には単純な対立はありません。むしろ、互いが互いを反映しつつ、相互に作用し合うような関係がそこにあります。自然と技術とのインタラクションこそが、いわば芸術を駆動するエンジンなのです。このことから、機械と芸術との関係について改めて考えてみるなら、そもそも「AIにアートは可能か?」というような問いそのものが、自然vs.技術、芸術vs.機械といった対立や、そうした対立を自明とする先入観によって、大きく歪められた問題であることが分かります。ナイチンゲールの啼き声をそっくりに真似る少年がいるように、美空ひばりそっくりに歌ったり、レンブラントそっくりの絵を描く機械が存在することは。テクノロジーとしては驚くべき達成ですが、芸術的な観点から言うなら、特に驚くべきことではないのです。それは自然を冒涜するものでも、芸術にとって脅威となることでもありません。むしろ、そうした新たな技術的達成は、芸術表現の可能性を大きく広げる希望と考えるべきです。
 重要なことは、「AIは人間の創造行為にとって脅威となる」というような固定観念から、早く自由になることです。そのためには、次のような問いを考えてみる必要もあるでしょう。すなわち、AIが描いた絵画を私たちがレンブラントによる芸術作品と見違えるのは、実は私たちがこれまで「レンブラント」の中に観てきたものが、本当は「芸術」などでは少しもなくて、単なる「レンブラントらしさ」に過ぎなかったからではないか?という問いです。つまり私たちは、芸術と「芸術らしさ」とを混同してきたのではないか、ということです。「らしさ」の認識や構築、つまり事実の持つ複雑で膨大な特徴要素を正確に分析したり、その結果を用いて再構成する能力においては、言うまでもなく人間よりも機械の方がはるかに優れています。だから、そうした競争で私たちがAIに敗北するのは、まったく当たり前なのです。言ってみれば、AIが創造行為にとって脅威に感じられるとすれば、それは、私たち人間自身が創造などしておらず、AIと同じことしかしてこなかったからではないか、ということです。AIが人間に挑戦しているように感じるのは、実は私たち人間が自分自身を(能力の劣った)AIとして理解してきたからではないか、と問うべきなのです。
 これがおそらく、「アーティフィシャル・マインド」という言葉が持ちうる、もう一つの意味です。それは、私たちが知らず知らずのうちに、自分のこころを「アーティフィシャル」なものとして理解するようになってしまったのではないか?ということです。けれども「芸術」とは、「芸術らしさ」の全体とイコールではなく、むしろその外にある何かです。それと同じように「こころ」とは、アーティフィシャルに実現可能なすべての機能の外部にある何ものかのことです。そしてこのことが、現代のテクノロジーが私たちに教えてくれる本質的な教訓なのだと思います。」

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