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ほぼ日の「老いと死」特集 養老孟司×糸井重里「生死については、考えてもしょうがないです。」

☆mediopos3476  2024.5.24

ほぼ日の「老いと死」特集のはじまりに
養老孟司×糸井重里
「生死については、考えてもしょうがないです。」
全七回が掲載されている

糸井重里が鎌倉にある養老孟司の自宅を訪ね
「老いと死」についてお話を聞くというもの

「養老さんはそんなに簡単に
死を語ってくれないんじゃないかなぁ」
という糸井重里の予想どおり
そしてタイトルのとおり
「考えてもしょうがないです」との答え

とはいえ「考えてもしょうがない」のは
下手に考えすぎてしまうよりは
死んでからのことは死んでからでいい
というのが実際的だとはいえる
なにせ死ぬまでは生きているのだから

しかも生きているから老いもするので
死について語るよりも
これまで生きてこられ
いまなにを考えているのかについての話から
いかに生きるかの知恵を学ぶほうがいい
その知恵こそが死への知恵にもつながることになる

これは孔子の死生観に近いともいえる
「未だ生を知らず、いずくんぞ死を知らん」

お話の主なところを引いてあるが
そのなかからいくつか
テーマにつながりそうなところを・・・

解剖学に取り組むことは「一種の修行だ」という

ひとを解剖するとき
そこに「生」はないとしても
相手は人間なので「不要な好奇心は抑えないといけない」

そうしたなかで
「知り合いだった人を解剖するのはいや」だいう
「こっちの気持ちの中では「死んでいない」」からだ

死には
自分自身の死である「一人称の死」
親しい人の死である「二人称の死」
他人の死である「三人称の死」があるが
「二人称の死」の場合
知り合いだという感覚が邪魔になってしまう

「考えてもしょうがない」のは「一人称の死」だが
やっかいなのは「二人称の死」である
しかも「二人称の死」に直面し死をどんなに意識しても
それで「一人称の死」がわかるわけではない

それに比べやはり「老い」は
年とともに「一人称」として意識せざるをえなくなる

養老孟司が「老い」を意識し始めたのは
六〇歳・七〇歳を超えた頃
ベトナムの山奥で虫取りをしていたとき
ついてきた人に
「この人、年を取っても衰えないで、
 元気いっぱい網を振ってるよ」
とからかわれて気づいたときだったという

だれでも年をとっていくわけだが
「一人称」としてそれを意識するのは
ひとから年を取っているという現実を
示されるときなのはたしかだ

夢中で遊んでいるときなど
じぶんを外から見るということはあまりなく
若い頃とかわらない

養老孟司は虫の標本を集めているが
それを残そうとか貯めようとかは
若い頃から考えてはいないという

ただ「やりたいからやってる」
「形あるものは必ず滅びる、ということ」でいい

それはおそらく解剖学をしているなかで
つねに「人は死ぬんだ」という実感と
となりあわせだったこととも関係している

しかし現代のように
「情報化社会になってからは、
時間が経っても情報が劣化せずに
ずーっと残るということが当たり前になって」
「いまの人間は「時間が動く」ということに対する
感覚が鈍っていると思う」という

ほとんどの場合「死」は「三人称の死」で
いまや「二人称の死」もかつてのように
その生々しさに直面することは少ない

だからこそ「一人称の死」や「老い」から目を背け
アンチエイジングに価値を求めるようになる

養老孟司の基本的な姿勢は
いろんなテーマについて
「普通だったらしつこいだろうな、
と思うくらいまでは考え」るが
「特定のテーマについては、
どこかで打ち切るということも決めてい」る
ということのようだ

その「特定のテーマ」というのは
「自分」というもの、それから「生死」の話。」
「これらは、考えてもしょうがない」

「生きているのも修行」で
「どこかで終わりが来るから、
安心して修行していられる」のだという

まさに「未だ生を知らず、いずくんぞ死を知らん」
ということ

神秘学などを学ぶと
「死」についての認識を得ることはでき
その恐れからは自由になり得るが
あくまでも知識的なものでもあり
はたして今生きている「生」を知っているか
ということになると常にその「途上」にある

■ほぼ日の「老いと死」特集
 養老孟司×糸井重里
「生死については、考えてもしょうがないです。」

**(「第一回 知り合いだった人を解剖するのはいやです。(2024-05-08-WED)」より)

「養老 実際にご遺体やお骨を見てきて思うのは、
    そこにあるのは「死」だけだということです。
    「生」はありません。」

「養老 解剖学に取り組むことって、
    一種の修行だと思うんですよ。
    つまり、解剖の際は、
    感情を適度にコントロールしないといけないし、
    不要な好奇心は抑えないといけない。
    相手にしているのは、
    亡くなっていても人間ですから、普通は
    「どういう人だったんだろう」
    というような興味が出てきます。
    でも、その興味をあまり
    深堀りしないようにするんです。

 糸井 生前の故人に興味を持ってしまうことを、
    自分に禁じるわけですね。
    それは、訓練したんですか。

 養老 意識して訓練したというよりは、
    ひとりでに興味を抑えられるようになっていった、
    という感じですね。
    とはいえ、生前に知り合いだった人を
    解剖するのは、やっぱりいやです。
    知り合いだった人というのは、
    亡くなっていても、やっぱり、
    こっちの気持ちの中では「死んでいない」んですよ。
    僕は、こういった「知人の死」を
    「二人称の死」と呼ぶことがあって。

 糸井 自分自身の死が「一人称の死」、
    親しい人の死が「二人称の死」、
    赤の他人の死が「三人称の死」
    という、養老さんがたびたび提唱されている
    概念ですね。

 養老 それです。
    やむを得ない事情で、
    知り合いのご遺体を解剖したこともありましたが、
    「二人称」だと、どうしても落ち着かなかったです。
    言ってしまえば、知り合いという感覚が、
    解剖学の場面においては
    邪魔になってしまうんですよ。

 糸井 先ほど、ご自分とご遺体との距離感が
    だんだん縮まっていったとおっしゃいましたが、
    それも解剖を繰り返した結果というより、
    自然にそうなったのでしょうか。

 養老 はい、自分も年をとったからだと思います。」

**(「第二回 自分の老いより心配なこと。(2024-05-09-THU)」より)

「糸井 養老さんが「老い」を意識し始めたのって、
    何歳ぐらいの頃でした? 

 養老 60、70歳を超えたぐらいかな。

 糸井 その頃までは「老い」を意識することは
    なかったんですか。

 養老 ええ、自分に起こる変化は、
    当たり前のことだと思っていました。

 糸井 ああ、「当たり前」。

 養老 60歳を過ぎてから、趣味の虫取りを再開して、
    ベトナムの山奥をずんずんと歩いていたんです。
    そのとき、着いてきた人たちが
    「この人、年を取っても衰えないで、
    元気いっぱい網を振ってるよ」
    とか言って、からかってきて(笑)。
    僕自身は、自分が年を取っている自覚が
    ぜんぜんなかったから
    「そうか、おれ、年寄りだと思われてるんだ!」
    って、そこで気づきました。

 (・・・)

 養老 その経験がなかったら、
    自分が年を取ったことに気づかなかったかも
    しれないです。
    昆虫採集仲間と虫取りに行くときなんかは、
    やることも言うことも、子どもと同じですからね。
    一緒になって騒いでるわけで。

 糸井 言われてみれば、
    自分が一番自然な状態なのは、
    子どもっぽいことをやってるときですね。
    年寄りといわれる年齢になってからも、
    そういう「子どもっぽい気分」というものが
    消えないのが、
    僕はおもしろいなと思っているんです。」

「糸井 それだけ頻繁に自然と触れ合っていると、
    虫や自然に起こっている変化は、
    よく感じるんでしょうか。

 養老 感じますね。
    いまは、私が子どもだった頃に比べると、
    桁違いに虫が減ってしまいました。
    特に、昨年は暑かったから、
    虫がぜんぜんいなくて。
    この部屋からも、
    昔は虫が飛んでいるのが見えたんですが、
    最近はほとんどいません。

 糸井 それは、養老さんにとっては、
    ご自身の老いよりも心配なことかもしれませんね。

 養老  本当にそうですよ。
    1990年から2020年までの30年間で、
    世界中で昆虫の8、9割が消えてしまったと
    言われていますから、重大な変化です。」

(・・・)

 養老 虫が減っていることには、
    気候以外にもいろいろな要因がありそうで、
    僕は、相当深刻な問題だと感じています。
    少子化なども、
    この現象と並行していると思うんですよ。
    つまり、生き物が増えなくなっている。
    増えにくい環境を
    つくってしまっているのではないかと。」

「養老 残念なことに、
    人間が当たり前のことをしないから、
    結果的に、自然との付き合いが
    どんどん難しくなりました。
    しかも、動物だけでなく、植物も変化しています。
    ほとんどの植物が
    外来種に置き換わってきているんですよ。

 糸井 早いものですねぇ、環境が変わるのって。
    やっぱり、人間もそれに合わせて
    変化するんでしょうか。

 養老 ある意味、もう変化していると思います。
    例えば、日本の食料自給率は、
    2000年度以降ほぼ40%で低迷していますね。
    ということは、日本に暮らす私たちの体の
    60%は外国のものでできているんですよ。
    物質的なことだけで考えれば、
    60%は外国人だとも言えるかもしれません。」

**(「第三回 人体を語るように歴史を語る。(2024-05-10-FRI)」より)

「養老 共同体をつくり出しにくい社会に
    なってしまいましたね。
    その原因の一つは、
    「自分がどういう生活をしてきたのか」について、
    日本人があまり考えてこなかったことだと思います。
    だから、それまでは自給自足して生活していたのに
    「必要なものがあったら、
    外国から安い値段で買ってくればいい」
    と考えるようになって、急速に生活を変えていき、
    自給自足できる集団を壊してしまったんです。

 糸井 ああ、なるほど。

 養老 昔はお金をかけるのではなく
    自分たちでやっていたことを、
    お金でできることに変換してしまったんですね。

 糸井 世界的に見れば、
    そうなってしまうのは
    必然的なことかもしれないけど。

 養老 ただ、日本の場合、
    その流れだけでは語れないこともあって。
    国内のいろんなことを考えるときに、
    よく外国を比較の対象にしますが、
    実際は、日本は多くの点で
    外国と比較の基準が合わないんです。
    日本には、特異な点がたくさんあるからです。
    一番は、人口密度。
    日本は、可住面積あたりの人口密度が、
    世界一高いんですよ。

 糸井 山がこんなにあるから、
    人が住んでいるところの密度が
    ほかの国よりも高いんですね。

 養老 そうなんです。
    日本の過疎地域に行ったときに
    「なんでこんなに人がいないんだろう」
    と不思議に思ったんですが、
    おそらく、本来は人が住めるところなのに、
    そこに住みにくい社会をつくってしまったんです。

 糸井 ああー、なるほど。
    都会に住むしかない社会構造になったから、
    都会に人口が密集するようになってしまった
    わけですね。
    つまり
    「このほうがコンパクトに、早くできるでしょ」
    という考え方を実現したのが、今の都会。

 養老 ええ。
    でも、その考え方はアメリカ流なんですよ。
    アメリカは自国で石油が取れますから、
    他の国からの輸入に頼らない都会をつくれたんです。
    資源のない日本が、
    その結果だけをまねようとするから、
    国内での過疎と過密が両極端になってしまう。

 糸井 僕も東京にいると、
    どうしても狭い範囲でしか考えられなくなるから、
    よく「広い場所で考えたい」と感じます。」

「養老 「社会」という言葉が日本で使われ始めたのは
    明治時代になってからですから、
    日本に馴染み深い表現は「世間」でしょうね。

 糸井 世間ですね。
    世間は、
    人々の感情の動きとか、わだかまりとかも
    含んでいますね。

 養老 そうですね。
    自分の生きている社会を、
    内側から見たときの呼び方が「世間」です。

 糸井 ああ、そうか。
    ということは「社会」っていうのは、
    自分たちの生きている環境を
    外側から見たときの呼び方だから、
    意識的に客観視しないと出てこない言葉なんですね。

    日本は何度も自然とぶつかっては立ち上がってきた
    歴史がありますから、
    そのぶん、日本の社会、あるいは世間は、
    「老い」を重ねてきたと言えそうですね。

養老  そう、本来は、老いた人のように、
    経験豊富な社会であるはずなんです。」

**(「第四回 機嫌が悪かった時代。(2024-05-11-SAT)」より)

「養老 最近、日本のGDPがドイツに抜かれて
    世界4位になったというニュースが
    流れていましたが、
    僕は「これはそんなにマイナスなことなのか」
    ということが引っかかりました。
    日本のGDPがここ30年間伸びていない理由は
    「自然を破壊する公共投資をしなかったから」
    だと、はっきりしているからです。
    高度経済成長期には、経済発展のために、
    これでもかというほど自然をいじりました。
    それを、みんなが「嫌だなあ」と感じたんだと
    思います。
    その「嫌だなあ」の結果、
    GDPが伸びなくなっていったんですよ。

 糸井 ああー。

 養老 日本のGDPが、仮に他国と同じくらい
    伸びていたとしたら、
    その間にどれだけ温室効果ガスを出したり、
    石油を使ったりしたでしょうか。
    そう考えると、
    GDPが下がっている日本は
    褒められてもいいくらいだと思うんです。
    日本の実質賃金が上がらないのは、
    GDPを上げるための自然破壊を
    してこなかったぶんのマイナスを、
    国民全員が背負っているからだと解釈できます。
    つまり、GDPが下がっている間の日本は
    「全員が損してもいいから、
    これ以上無理をして発展しなくていい」
    という選択をしたのではないかと。

 糸井 自然を破壊してまでする経済成長に、
    嫌気がさしたということですね。

 養老 そうです。
    「嫌だな」という空気ができたんですね。

 糸井 「このまま進んでいくのは、息が苦しいな」と。
    この気持ちは、僕自身にも覚えがあります。
    養老さんも持っていますか。

 養老 もう、だいぶ前から持っています。
    だって、虫がいなくなっちゃうんだもん、
    嫌ですよ。
    だから田舎に引っ越したというのもあります。」

「糸井 国が経験を積んでいくことと、
    個人が老いていくことが重なるという話に
    立ち返ると、
    無理をして発展していた高度経済成長期は、
    日本も我慢していたから
    機嫌が悪かったということですね。
    「合わないなぁ」と思いながら
    大学教授をなさっていた養老さんと同じように。

 養老 そうだと思います。
   「お金にはなったけど、
    ほかのものにはならなかった」時期ですね。

 糸井 つまり、昔のドラマによく出てくる
    「お父さんはいま仕事のことで頭がいっぱいなんだ」
    と言ってる不機嫌な父親が、
    当時の日本だったということになるんですかね。
    で、たまには子どもになにか買ってあげようと
    言い出したかと思えば
    「効率」や「経済成長」みたいな、
    子どもにとっては、
    ほんとはあんまりうれしくないオモチャを与える、
    みたいな。
    長かったあの時代が、
    僕らにも影響を与えているんでしょうね。

 養老 そうでしょうね。
    僕も、つい最近まで
    「どんなときも作業していないといけない」
    と感じていました。
    実際は「そろそろ虫の標本をつくらなきゃ」とか、
    好きなことだからいいんですけど。

 糸井 「やらなきゃ」という気持ちが、
    だいたいよくないですよね。

 養老 そうなんですよ。
    誰に頼まれてるわけでもないし、
    やったからお金になるものでもないんだから。」

**(「第五回 変化を伝えるために物語がある。(2024-05-12-SUN)」より)

「糸井 養老さんが亡くなったあと、
    養老さんの集めている虫の標本が
    大事にされる保証って‥‥。

 養老 ぜんぜんないですよ。
    それは気にしていません。

 (・・・)

 養老 だって、私が標本にしているだけで、
    本来はただの虫の死骸ですからね。

 (・・・)

 糸井 養老さんは、その「作品」を残そうとか、
    貯めようとかは考えていないわけですね。
    若い頃からそうですか。

 養老 考えたことがないですね。
    そもそも、日本のような災害の多い国で、
    標本などをしっかり保存するのは
    かなり難しいと思います。

 糸井 つまり、養老さんの虫の標本づくりは
    「やりたいからやってる」。

 養老 そのとおりです(笑)。」

「養老 諸行無常でいいと思うんですよ。
    形あるものは必ず滅びる、ということで。

 糸井 その考え方は、
    解剖学をやってらしたことと関係がありますか。

 養老 ああ、あるかもしれません。

 糸井 「人は死ぬんだ」という実感と、
    常に隣り合わせだったわけですものね。

 養老 情報化社会になってからは、
    時間が経っても情報が劣化せずに
    ずーっと残るということが
    当たり前になっているでしょう? 
    例えば、写真なんかは最たる例です。
    そういう、時間が止まったものに囲まれて
    生きているから、いまの人間は
    「時間が動く」ということに対する
    感覚が鈍っていると思うんです。

 糸井 情報がデジタルになって
    劣化しづらくなったことで、
    変化するとか、朽ちていくとかいう
    ことに対する感覚が、薄れていると。

 養老 昔の人は、変化していくものを記憶に残すためには
    「言葉にする」という方法しか
    持っていませんでした。
    だから、物語が生まれてきたんだと思います。
    人間が、時間の中で変化していくものを表現して、
    記憶に留めるために持っていた道具は、
    ひとつしかなかった。
    物語だけだったんです。

 糸井 ああ、神話とかも、全部、物語ですね。」

「糸井 物語として見るというのは、
   「大きな進化が長い時間で起こっている」
    と捉えるってことですね。
    はーー、なるほどなぁ。

 養老 多くの人は普段意識していないと思いますが、
    人間も卵子、卵から生まれてくるんですね。
    みなさんの始まりは0.2ミリの受精卵です。
    その点では、シーラカンスと同じ。
    卵から親になっていく過程が違うだけなんです。

 糸井 現時点での進化の最終到達点が
    「私」です、ということ。

 養老 そうです。

 糸井 そして卵から大人への変化のプロセスには、
    必ず最後に「死」が組み込まれていますね。

 養老 そうです。
    「死」まで含めて生きもののプロセスで、
    それがまたその先へと続いていくんですよ。
    0.2ミリの受精卵がまたできて‥‥。
    生物はそれを繰り返しているんです。」

**(「第六回 考えてもしょうがないです。(2024-05-13-MON)」より)

「養老 生物の構造を見るときは
    「自分に関係がある」ということに
    引っ張られないように意識しています。
    「自分というものを考える」というのは、
    ある意味、病気みたいなものですからね。

 糸井 「自分を考える」という病気。
    その考え方は、さっぱりしていてかっこいいですね。

 養老 誰にでも、自分を客観的に見られなくなってしまう
    状況があります。
    だから、自分のことを突き詰めて考えようとすると、
    どこかで必ず論理がおかしくなってしまう。

 糸井 「解剖するご遺体が知り合いだったらいやだ」
    というのは、
    そのあたりのお話ととても近いと思うんです。
    自分のこと‥‥例えば
    「この人と自分は生前こんなことをしたな」
    なんて考え出すと、
    客観的に観察するなんてことは、
    きっと不可能ですね。

 養老 そうです。
    だから、はじめから「自分」についての考えは
    入れないんです。

 糸井 僕たちが生きている時代や世間に対しても、
    同じことが言えますね。
    時代や世間を、その内側から考えようとすると、
    どこかで狂いが生じてしまう。

 養老 人間は「自分」の視点から物事を考えると
    必ずどこかで論が破綻してしまうから、
    できるだけ客観的になろうとする
    「自然科学」という学問があるんですね。
    ところが、自然科学も、
    突き詰めれば自己言及だから
    「あなたがそう言ってるだけだろう」
    という追求からは逃れられないんですよ。
    厄介なことに。
    そこで、観察対象として一番いいのは、
    虫なんですよ。

 糸井 ここで虫が出てくるのか(笑)! 

 養老 だって虫は、
    とにかく「自分じゃない」ことは確かですからね。
    見ていると「ああ、俺じゃないなぁ」と思う。

 糸井 そうですね(笑)。
    どんなことも、
    自分に関係あることとして見たり、
    一方で全く客観的に見たりしないと
    うまく捉えられないですからね。
    例えば「死ぬ」ということに対しては、
    自分ごととして考えると
    「不愉快だなぁ」という気持ちが
    最初に来ると思います。
    ですが、養老さんは、そこのところの考え方が
    他の人とは一線を画している気がしているんです。
    実際、ご自身の死については、どう‥‥

 養老 考えないです。」

「養老 普通だったらしつこいだろうな、
    と思うくらいまでは考えます。
    一方で、特定のテーマについては、
    どこかで打ち切るということも決めています。
    さっき言った「自分」というもの、
    それから「生死」の話。
    これらは、考えてもしょうがないです。

 糸井 自分の身体のなにが衰えていって、
    なにが鋭くなっている、みたいなことの
    観察自体はおやりになるんですか。

 養老 やりますね。
    しかたがないから、という側面が大きいですが。
    腰が痛いだの、肩が痛いだのっていう
    「自分の痛み」については、
    もう辛抱するしかないと思っています。
    修行みたいなものですよね(笑)。
    お坊さんがよく滝に打たれたりしていますが、
    あれと同じで。
    生きているのも修行ですよ。

 糸井 そうか、そして、
    修行が終わらないままに‥‥

 養老 そう。
    どこかで終わりが来るから、
    安心して修行していられるんだと
    思うんですよ。

 糸井 今日はまさにこの話を聞きに来たんだ、
    という感じがします。
    ちなみに、虫も修行しているんでしょうか。

 養老 してるんじゃないでしょうか。

 糸井 虫なりに。

 養老 彼らにも、いろいろ大変なことが
    ありますからね。

 糸井 たぶん、ありますね。」

**(「第七回 不思議のままがおもしろい。(2024-05-14-TUE)」より)

「糸井 前々から気になっているんですが、
    虫の中には、他の生物から見ると
    花や木の枝に見えるように
    擬態する種族がいますよね。
    あれって、どういう仕組みなんでしょうか。

 養老 いろいろな説がありますが、
    いまは「生存戦略」と説明されることが
    多いですね。

 糸井 そうらしいですね。
    でも「戦略」だけだと
    納得できない部分もありませんか。

 養老 そうなんですよ。
    だから僕は、いま自分で言ったけど、
    「生存戦略です」という説明は、
    ほとんど信じていません。

 糸井 (笑)。
    養老さんご自身は、本心では
    どんなふうに考えているんですか。

 養老 「おもしれぇな」と思ってます。

 (・・・)

 養老 僕は、説明しようという気すらないですね。
    現に虫がそういう生態で存在していること、
    それ自体がおもしろいなと思います。」

「養老 虫を見ていると、
    次から次へと不思議なことが出てきますよ。

 糸井 その不思議なことに対して
    「なんでだろう」とは、あまり考えないんですか。

 養老 考えないです。
    なぜなら、自分について考えることと同じくらい、
    キリがないことだから。

 糸井 ああ、そうか。
    「周りの人が自分をどう思っているのか」とかは、
    考えますか。

 養老 それも、そんなに考えないですね。
    わかるわけがないと思うので。」

■ほぼ日の「老いと死」特集
 養老孟司×糸井重里
「生死については、考えてもしょうがないです。」


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