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東畑開人「贅沢な悩み 連載第5回」(文學界)/アーサー・クラインマン『臨床人類学』

☆mediopos3432  2024.4.10

東畑開人が「文學界」で連載している
「贅沢な悩み」の第5回目

第1回から第4回までは
第1回:mediopos3310(2023.12.10)
第2回:mediopos3343(2024.1.12)
第3回:mediopos3376(2024.2.14)
第4回:mediopos3409(2024.3.18)
でとりあげている

前回ではクライエントが「自己診断」で
「贅沢な悩み」であることを語り
カウンセラーにその診断を問う事例が紹介され

贅沢な悩みが現れるときの臨床的特徴が
以下の3点挙げられていた

①クライエントの自己診断であること
②心をかき消すこと
③診断の是非を確定したくなること

問題になるのは
「贅沢な悩みが現れるとき、
「客観」が吹き荒れること」である

クライエントは「「客観」的に
自分のことを贅沢だと思っているし」
治療者は「「客観」的にクライエントが
贅沢であるか切実であるかを判断したくなる」

その「客観」について問うために
東畑開人はアーサー・クラインマンの「臨床人類学」により
「診断とは何か」という問いについての補助線を引く

その補助線とは「病い」と「疾患」である

クラインマンは1970年代の
様々な治療たちが並列する台湾で行った
フィールドワークを通じ
「近代医学と中国医学、そしてシャーマニズム、
どれが『効く』のか?」と問い

「シャーマンは癒やすが、医者は絶対に癒やせない。
 呪術は必ず癒やすが、近代医学は絶対に癒やせない。」

という結論を導いている

そこにおける「診断」とは「物語」であり
「治療者とは物語を処方する仕事」であって
「それが病者との間で共有されると、治療はうまくいく」

クラインマンは
「呪術師の診断は「病い」の物語を、
医師の診断は「疾患」の物語を描く」という

そこでいう「病い」とは「知覚された疾病の
心理社会的な体験のされ方や意味づけ」であり
「疾患」とは「生物学的プロセスと心理的プロセスの
両方あるいは一方の機能不全」である

ここで注意が必要なのは
「疾患は身体の問題で、病は心の問題である、という
身心二元論」でとらえてはならないということである

重要なことは
「病を見ようとするときに、
その視界には「社会」が含まれ」ていて
「病いの物語とは、個人が「社会」の中で
いかに生きるかについての物語」だということである

医療人類学的な視点では
「いかに病むか、何を回復とするかは、
それぞれの社会的環境によって規定される」

その補助線を使って
「贅沢な悩み」における
過剰なまでの「客観」のことを考えると
問題は「社会の目から自己を見ること」にある

苦悩を社会化することによって
「社会的には意味を持たない、
ごくごく個人的な悩みの場所がなく」なってしまうのである

そこで問われねばならないのは
「社会の声とは何か」である

それについては次号で論じられるとのことだが
東畑開人はこの連載を通じて
「社会の声に抵抗したい」のだという

連載をはじめるとき
「反社会的なこと」にもつながる内容に対して
バッシングが起こるかもしれないという杞憂を抱いたそうだが
予想に反してそうしたことは起こっていないようで
次号以降における「社会の声」なるもののヴェールが
いかに剥がれていくかに期待したいところである

■東畑開人「贅沢な悩み 連載第5回
      2章 星くんとパリピ王子様————病と疾患について(承前)」
 (文學界 2024年5月号)
■アーサー・クラインマン(大橋英寿・遠山宜哉・作道信介・川村邦光訳)
 『臨床人類学 文化のなかの病者と治療者』(河出書房新社 2021/12)

**(「5」より)

*「ここまで私たちは、贅沢な悩みが出現するときに起きることを見てきた。その臨床的特徴は①クライエントの自己診断であること、②心をかき消すこと、③診断の是非を確定したくなること、この3つであった。

 問題になっているのは、贅沢な悩みが現れるとき、「客観」が吹き荒れることだ。クライエントはクライエントで「客観」的に自分のことを贅沢だと思っているし、治療者は治療者で「客観」的にクライエントが贅沢であるか切実であるかを判断したくなる。

 その結果、いずれにしても、心はかき消されてしまう。」

*「なぜなのか。ここにある「客観」とは何か。これが問いだ。

 これを考えるために、そもそも「診断とは何か」を問う必要がある。というのも、今問題になっているのは。なんらかの不調に名前を与える行為のメカニズムであるからだ。」

*「「診断」というものを太古の昔から行われてきた人間的な営みとして捉えるのが医療人類学である。とりわけアーサー・クラインマンによる診断論は、私たちに有効な補助線を与えてくれる。

 病いと疾患。

 診断を巡るこのカテゴリーが「客観」の正体を明らかにするための有効な補助線になる。」

**(「6」より)

*「医療人類学とはその名の通り、「医療についての人類学」である。「医療」と言っても、狭義の医学に限定されず。シャーマニズムや宗教による霊的治療や、薬草や健康食品などの民間療法まで含めた広義の「治療」とか「癒し」がそこには含まれる。」

*「重要なのは、医療人類学の本格的な発展が、1970年代のアメリカでなされたことだ。それは近代医学が猛スピードで発展していき、行き過ぎた専門性が問題になった時期である。客観を楯に、人間についてのあらゆることを医療化しようとして、医学そのものが暴力になるような副作用が顕在化した時期に、それを相対化して、人間的なものを取り戻そうとするのが医療人類学であったということだ。」

*「医療人類学の中でもとりわけ強い影響力を及ぼしてきたのが、アーサー・クラインマンの仕事である。(・・・)

 クラインマンの仕事は多岐に渡るのだが、実のところ、その理論のほとんどは彼が1970年代の台湾で行ったフィールドワークにおいて胚胎したものである。
(・・・)

 クラインマンにとって当時の台湾が切実な冒険となったのは、そこが西洋の近代医学と伝統的な中国医学、そしてシャーマニズムがいまだ入り乱れていて、競争している場所であったからだ。そこではいまだ、近代医学は覇権を握っておらず、医学というものを相対化するには絶好の場所だったということだ。
(・・・)

 すると、問わざるをえない。
「近代医学と中国医学、そしてシャーマニズム、どれが『効く』のか?」
 そう、台湾は医療人類学の実験場であった。様々な治療たちが並列する土地でクラインマンはフィールドワークを行い、「そもそも治療とは何か」と問うたのである。

 その結論は驚くべきものだった。
 このフィールドワークをまとめた著書『医療人類学』の最後で、彼は断言している。

「土着の治療者は、あつかうケースの大部分を癒やす。(p407)」
「土着の治療者は、病に対して文化的に是認された治療を与えうるかぎり、まちがいなく癒やすことができるのである。(p409)」
「現代の専門的な臨床ケアは、たいていの場合、まちがいなく癒やすことができない(p409)」

 シャーマンは癒やすが、医者は絶対に癒やせない。
 呪術は必ず癒やすが、近代医学は絶対に癒やせない。
 クラインマンはそう結論付ける。私たちの常識とはまるで逆ではないか。
 いかがわしい呪術師が、高度な専門的教育を受けて、白衣と客観性に身を包んだ医師よりも優れている。
 クラインマンはいったい何を言っているのか?」

**(「7」より)

*「診断とは曖昧模糊とした不幸の理論的な説明を与えることなのである。正体不明の不調に名前を与える。すると、治療者は「なぜその病気になったのか」「それはいかなる病気か」「どのように対処されたらいいのか」「予後はどうなるのか」についての一連の物語を手に入れることができる。

 診断は物語なのである。
 診断を与えられることで、止まっていた時間が動き始める。過去の因果関係が発見され、未来予想図が提示される。そうやって、私たちの不幸にあらずじが見出されて、物語が流れはじめる。
 クラインマンの発見はここにある。人類学的なまなざしで見たとき、治療者の仕事とは物語ることであり、それが病者との間で共有されると、治療はうまくいく。
(・・・)

 診断とは物語であり。治療者とは物語を処方する仕事である。これがクラインマン理論の骨子だ。」

*「本当のところ、診断には二種類の物語があるのだ。
 そう、「病い illness」と「疾患 disease」。
 ここにクラインマン診断論の本領がある。」

**(「8」より)

*「呪術師は必ず癒やすが、医師は絶対に癒やせない。
 これがクラインマンの驚くべき結論であった。
 では、なぜそのように言えるのか。
 呪術師の診断は「病い」の物語を、医師の診断は「疾患」の物語を描くからである。これが答えだ。
 ならば、病いと疾患とは何か。
 それらは次のように定義される(本によって翻訳の揺れがあるのだが、「疾病」と「疾患」は同じiseaseである。)

  〝疾病〟とは、生物学的プロセスと心理的プロセスの両方あるいは一方の機能不全をさす。それに対し。〝病い〟とは、知覚された疾病の心理社会的な体験のされ方や意味づけをさす。(『臨床人類学』p80)」

*「このとき、疾患は身体の問題で、病は心の問題である、という身心二元論で早合点してはいけない。「心と身体」というよくある二分法ではクラインマンの卓見を捉え損なう。

 真に重要なことは、病いを見ようとするときに、その視界には「社会」が含まれることだ。病いの物語とは、個人が「社会」の中でいかに生きるかについての物語なのである。
(・・・)
 医療人類学は病むことと回復することを社会の関数として見る。いかに病むか、何を回復とするかは、それぞれの社会的環境によって規定される。これがクラインマンの「病い」という概念の真にラディカルな点だ。
 病には社会の声が響いているのである。」

**(「9」より)

*「「病いと疾患」についてのクラインマン理論を見てきたのは、贅沢な悩みにおける「客観」の過剰の謎を解き明かすためだった。」

*「贅沢な悩みをめぐるこの「客観」の過剰とはなんだろうか? なぜ本質的に主観的なものである贅沢な悩みに対して、私たちは客観的なまなざしを向けようとしてしまうのか。そこにある「客観」とは一体何か?
 これが問いだった。」

*「贅沢な悩みは「病い」である。贅沢な悩みは身体のどこかに生物学的な基盤を持つ疾患ではなく、あくまでクライエントに体験され、生きられている社会的苦悩である。
 すると、贅沢な悩みにおいて「客観」に見えていたものの正体は「社会の目」であったことがわかる。そこにあるのは科学的な意味での「客観」ではない。」

*「問題は(・・・)社会の目から自己を見ることにこそある(・・・)。

 ここに「病い」の弱点がある、
 (・・・)
 疾患が苦悩を個人の内側に閉じ込めていくのに対して、病いとは苦悩を社会化するための、つまり社会的に扱うためのカテゴリーだった。
 しかし、社会化することによる落とし穴もある。社会的には意味を持たない、ごくごく個人的な悩みの場所がなくなり、極端な場合には非難されてしまうのである。」

**(「10」より)

*「社会の声とは何か。これが次に問われねばならない。そのためには、ついに、「贅沢とは何か」の中身に入っていくことが必要になる。
 なぜ贅沢を問題にすると、社会の声が吹き荒れてしまうのか、社会はそのとき、なんと言っているのか。ここには個人と社会の関係をめぐる大きな問いがあり、自由と平等をめぐる普遍的な問題がある。これが次章で取り組まれる問いである。」

*「最後に、私の杞憂の正体についても触れておこう。
 私は反社会的なことを考えようとしている。この連載を通じて、社会の声に抵抗したいのである。」

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