見出し画像

井藤元『シュタイナー学校の道徳教育』

☆mediopos-2300  2021.3.4

シュタイナー教育の理念を
本書の第1章で要領よくまとめられている内容をもとに
短く表現してみればこうなるだろうか
(「道徳教育」というテーマのために
自然学にも関係する身体的側面等にはふれられていないが)

個の自由のもと
「自己教育」により
「自然を内側から理解し、
対象そのものと一体化する認識のありようである」
「直観」をつうじて
自然認識・芸術的創造・道徳的行為において
感覚的=超感覚的なものを
三位一体として発見し表現し実践する

さらに敷衍していえば
神秘学の目的も
そうした「自己教育」のできる
自由な人間となることだといえる

しかしあらためて
シュタイナー教育の理念について考えてみると
自然認識・芸術的創造・道徳的行為それぞれが
いかに困難な課題であるかということを痛感させられる
少しラディカルにいえば
あえて次のように問うこともできるだろうか

自然認識に関しては
先日井筒俊彦との関係でふれた
「二重の見」のようなありようが求められ
そのうえでさらにそれが「自然」に適用される必要がある
一元論的な思考を自然とむすぶという
「自由の哲学」と「高次の自然学」とのあいだの
ミッシングリンクを見出す道でもある

芸術創造に関しては
シュタイナーが芸術と規定しているものは限定的で影がない
「ファンタジー」とされるものも想像力の豊かさに乏しい
はたしてそれがどこまで
さらなる「自己教育」の展開にたえられるか疑問である

道徳的行為に関しては
(「道徳的」というのはどこか拒否反応がでるけれど)
人間の意識のありようについても
シュタイナーの神秘学ではきわめて単純に描かれすぎていて
自我や感情へのアプローチにおいて不十分なのではないか
シュタイナーは道徳を
「この世に神を顕現させることができること」としているが
その「神」はキリスト教的なバイアスがあり
多様な霊的真実とはどこかで齟齬を起こす可能性もあり得る

その意味でシュタイナー教育とされるものは
教育や学校といった考え方にとらわれず
「自己教育」がいかに可能となるかという視点で
さらに模索・探求・拡張されていかなければならないともいえる

西欧的なものにバイアスされているかにみえるカリキュラムや
まさに第三・7年期の自由獲得の時期以降の課題のように
シュタイナーという『教師』の権威からは次第に離れ
常にあらたに創造し続けていく必要があるのかもしれない

■井藤元『シュタイナー学校の道徳教育』(イザラ書房 2021.2)

「シュタイナー学校では、科目としての道徳は存在しない。国語、数学、理科、社会、あらゆる教育の中で、あるいはあらゆる教科をまたいで道徳教育が行われる。また、その際には、すべての教科の学びが芸術的な仕方で子どもたちに提示されている。シュタイナーの思想に基づき、芸術教育即道徳教育という特殊な図式が成り立っているのだ。芸術教育と道徳教育が渾然一体となって展開しており、しかもその出発点において、「自然」と徹底的に向き合うことが求められる。独特の構図をなしているのだ。」

「教育(授業)は芸術に満たされていなければならない、そうシュタイナーは著書や講演の中で繰り返し述べている。」
「では、シュタイナーは授業を芸術で満たすことで何を目指したのだろうか。あるいはそもそも、彼にとって芸術とは何だったのか。」

「シュタイナーは端的に感覚的=超感覚的なものを表現することが芸術の本質だと述べる。」
「感覚的=超感覚的なものというタームは、ゲーテに由来する用語である。」
「シュタイナーはゲーテの芸術論分析をつうじて、ゲーテの芸術論を拠り所としながら、自らの芸術論を展開している。ゆえにゲーテの芸術論こそ「人智学の健全な下部構造」とみなしうるものであり、人智学の根底にはつねにゲーテの芸術論が潜在していたのである。」

「シュタイナーは、生ける自然を捉えるためにはゲーテの自然観が必要であること、現代の自然科学は、ゲーテを基礎としつつ発展させてゆくべきであると訴え続けた。」
「ゲーテ的自然認識の最大の特徴は、彼が直観を重視した点にある。直観(Intuition)は自然を単に眺める(sehen)ことではなく、注意深くじっくりと視ること、すなわち注視を意味している。直観によって注意深く見つめれば、自然はその秘密をおのずから開示するとゲーテは考えた。」
「ゲーテ的な直観の内容を理解するために、ここでは直観を対象的思惟 gegenstaendliches Denken と置き換えて理解することにしよう。対象的思惟とは、自然に寄り添いつつ、対象を認識する方法である。自然を内側から理解し、対象そのものと一体化する認識のありようである。ゲーテは対象的思惟のうちに直観の本質をみている。
 対象的思惟によって、我々は生きたものを生きたまま捉えることが可能となる。対象に寄り添い、対象と同期してしまえば、内側からそれをつかみ取ることができるからだ。」
「生きた存在を生きたまま捉えることを目指すゲーテ的自然認識は、芸術的創造行為のための必要条件となる。」
「自然認識においては、直観どつうじて、自然のうちに生きて働く法則性に到達することが求められる。この生きた法則性こそ「超感覚的なもの」である。また、芸術的創造行為が目指すべきは、自然そのもののうちに内在する法則性にアクセスし、それを表現することである。」
「我々は抽象的な理念や自然のうちに働く法則性そのものを、抽象的なままつかみ取ることはできない。ここにおいて徹頭徹尾、空虚な理念ではなく、生きた理念の把握が目指されている。」
「精神的なもの(超感覚的なもの)は感性形式(感覚的なもの)を通してでなければ、自己を表現できない。感覚的なもののうちに超感覚的なものの現れを発見し、それを表現することこそが芸術家の使命となる。ゆえにシュタイナーは感覚的=超感覚的なものの表現こそが芸術の本質だと主張した。」

「シュタイナーは道徳をいかに捉えていたのであろうか。」
「道徳を「この世に神を顕現させることができること」と規定するシュタイナーの主張は極めて独特である。」
「道徳の実現はシュタイナー人間形成論における最重要課題である自由の獲得と不可分のものである。」
「前提となるのは自然の秩序を越えた高次の宇宙秩序の認識およびそれとの適合である。人智学をふまえるならば、ここでシュタイナーが述べる「人間の「自然」を自然を越えて高めるもの」、「人間の「自然」を神的、精神的な存在で満たすもの」とは超感覚的なものに帰属するものといえよう。つまり「この世に神を顕現させる」という彼独自の道徳的規定は超感覚的なものの認識と不可分のものと理解すべきである。つまり、シュタイナーの道徳教育が目指すところを把捉するためには、この超感覚的なものの認識という課題を避けて語ることはできないということになる。
 ここで注目すべきはシュタイナーが道徳的行為を個人の創造と見なしている点である。」
「一回限りの個別具体的な状況において、この私がどのようにふるまえばよいか。既存のルールに従うのではなく、直観に従って自ら道徳的行為を創造するのである。」
「つまり、自然認識と芸術的創造の際に必要とされた直観が、今度は人間が道徳的行為を行う場面に応用されることになる。」
「刻一刻と移り変わる状況の中で、自らの力で最適解を導き出し、実行することをシュタイナーは求めている。誰かから命じられて行動するのではなく、自らに従って生きる。ここにおいて、道徳的な人間であることと自由な人間とは同一のものとなる。
 こうした道徳観を、シュタイナーは倫理的個体主義(Der ethische Individualismus)と名づけている。」

「ゲーテ自然学において直観は生きた自然を認識する際に不可欠であったが、その直観はそのまま道徳的行為の場面でも必須のものとされるのであった。そして、さらに直観は自由獲得に直結する課題に向き合う際にも求められる。その課題とは自分自身を知ること、すなわち、自己認識である。自分自身を知ることは、シュタイナー思想において自由獲得のための必要条件である。自分自身を知ることによってはじめて、自分に従って生きることが可能となるからだ。
 「汝自身を知れ」。この哲学的課題は直観をつうじてはじめて達成可能なのである。」

「シュタイナーの発達論によれば、人は7年ごとに節目を迎えるが、そのうち初等教育に相当する第二・7年期は、信頼できる大人、言い換えるならば、魅力ある権威としての教師に従う必要がさるとされている。シュタイナーは次のように述べる。「第二・7年期においては、高貴な意味での権威、自然な権威が先生の中からにじみ出ていなければなりません。そうすれば子どもは、私たちの傍らで、正しい仕方で、「自己教育」を行うことができるのです。自己教育において最も大切なのは、このような種類の「道徳教育」なのです。」
「シュタイナーの道徳教育論は、教師から世界との向き合い方を学び終えた時点で完了するわけではない。目指されるのは、その先である。第二・7年期の終盤で教師の権威からの離反が目指される。権威に盲従することのない自由な人間となるためには。逆説的にではあるが、人生の適切な時期に権威に従うという経験が必要とされる。けれども、それは最終的に権威から離れるための前段階として必要なのだ。
 かくして、権威に従う第二・7年期を経て、第三・七年期の自由獲得へと向かうことになる。
 シュタイナー教育においては、最終的に「『教師』から次第に離れ、独立していくことが大切」だとされ、「最初は弟子であった者が自分の力で決断できる存在となり、認識をもとに行動する人間となっていかなければならない」と考えられている。補助輪は外され、自力で自転車をこぐことができるようになるのだ。第三・7年期以降は、感覚的=超感覚的なものを自ら発見し、表現し、実践することのできる人間へと向かってゆくのである。」

「シュタイナーは教育においてファンタジー(Phantasie)が必要不可欠であることを繰り返し強調している。「教育は、教材を自分の中で生命豊かに息づかせていなければならず、教材をファンタジーで充満させていなければなりません」と彼はいう。感覚的=超感覚的なものの提示に際してはファンタジーが最良と考えられているのだ。ファンタジーを用いる際には、一回ごとに教材を新鮮な形で子どもたちに提示せねばならない。」

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?