日記とか3「演奏について」

課題を終えて、一年間の文学部(仮)生活が終わった。修士への入学までの間も引き続き読書会に参加したり、大量の積読を消化したりと完全に暇なわけではないんだけど、それでも時間に余裕ができたおかげで、最近はまたピアノを弾くようになった。


いま練習してるのはベートーヴェンの30番。以前に大学の友人が弾いてたのに影響されて楽譜は買ってたんだけど、手を付けないまま気づけば3年以上経ってた。

楽譜にしても本にしてもCDにしても、必要に迫られて買ったのでない、なんとなく気になるから手に取ったものって、しょっちゅう寝かせてしまいがちになる。買って満足するというか、意外と自分は形だけにこだわってるタイプなのかもしれない。でもこないだラジオで誰かが、本は寝かせたあとに改めて手に取った時が食べ頃、みたいなことを言ってたし、積読はむしろいいことってのもよく聞くから、まあいいよね。

この曲の演奏は(というかベートーヴェンのピアノ曲全般)ルドルフ・ゼルキンが一番好き。ちなみにはじめて買ってもらったCDがダイソーに売ってたゼルキンとベルリンフィルの皇帝(あとコリオラン)が収録されてるやつなんだけど、もしかしたら何の感慨もなくそれを聴いてたガキの頃から、潜在的に今の好みが醸成されていたのかもしれない。

まあそもそも他の演奏家のものをそんなに聴いたり比較したりはしてないんだけどね。ただ一楽章のAdagioの最初で、右手のアルペジオを一息に弾かずくどい弾き方をする演奏は、その時点で聴くのをやめる。


その辺の演奏解釈については詳しくないのでこれ以上深入りはしない。けれども(唐突に)改めて思うのは、演奏解釈という概念や、同じ楽譜でも指揮者や演奏家によって聴き手の好みが分かれることってクラシック独特な感じがするよねということ。

僕としては、音楽の根本的な本質はそれ自体が時間的な広がりを持つことと、聴覚的に知覚できることだと思っている(視覚や触覚だけで感じられる音楽はない)。そして録音技術のなかった昔と違って、特に現代のポップスやロックなどにおいては、新曲のリリースというものがアーティストによるいわば模範演奏の提示であり、収録された音楽としてオリジナルが具体化されている。

つまりある演奏を規定するものが楽譜という視覚あるいは触覚的な事物ではなく、聴覚的な音、音楽の本質そのものだということ。楽譜というのは物理学的な数値を記入でもしない限り、どうしても未規定な部分を含んでしまうものだけど、現代のように録音された演奏がオリジナルとなれば、たとえどんなにオリジナルが下手くそであろうと、どんなに上手いコピーバンドが存在しようと、オリジナルはオリジナル、コピーはコピーという地位を動くことはない(対してクラシックは、上手い下手の差こそあれ誰が演奏してもこの意味での「地位」はフラット)。

もちろん別の演奏者のカバーやコピーの方が好きって人もいるだろうし、また「規定」という言い方はしたけど、グッドマンのような、規定から少しでも外れればその演奏は別の楽曲のものであるといった見解は受け入れられないと思う。でもどんなに上手いカバーやコピーでも、それはオリジナルにあやかった存在であって、どうしても「オリジナル>カバー・コピー」という関係から抜け出せない、いわば原典至上主義のようなものがあるんじゃないだろうか。違うのかな? 少なくとも自分はそうで、基本的にオリジナルの音源しか聴かないんだけど、いま改めて考えるとそれはよくないんじゃないかと思った。


……いや、嘘。話の流れとしては脱・原典至上主義に持っていくべきかと思ったけど、実はそんなに否定的に捉えていない。例えばリコーダーで演奏された「Hey Jude」の旋律を聴くとき、聴き手が今まさに知覚しているのはリコーダー用にアレンジされた「Hey Jude リコーダーver.(仮)」なんだけど、その聴取経験は本家本元の「Hey Jude」に向かっていて、聴き手は旋律からオリジナルの「Hey Jude」を断片的に経験・イメージすることができる。オリジナルは、それのあらゆるカバー・コピーの聴取経験によって常に志向される根源的なもので、そういう意味ではある種優位な存在と考えることもできる。

だからここで言うような原典至上主義は別に自然なことじゃないか、って言おうと思ったんだけど、それって結局ただのオリジナルがオリジナルである所以であって、つまり、僕はいま何も言っていない…。ただこれってオリジナルが音源である現代特有のあり方のようにも見えるけど、クラシックの演奏解釈も、要するにその演奏によってオリジナルの実質的な空虚を埋めるための営みと言えるのではなかろうか。だから聴覚的な模範がないからといって、楽譜に書かれていることさえ守っていればあとは好みの問題というわけではもちろんないだろうし、時代の変遷と科学の進歩によってオリジナルの地位が変わったかと言えば、多分今のあり方は昔からそうだったんじゃないかと思う。

しかし、それならオリジナルはいつもカバーやコピーより美的にも優れているのかと言うと、それはまた別の話だろう。その議論にも触れていきたいんだけどそうするとまた長くなってしまうので、それについてはまたの機会に(気が向いたら)書こうと思う。そこでの議論によっては先ほどの考えも覆されるかもしれない。何せ書きながら考えてるからな。


今回は本当にただの日記のつもりだったんだけど、書いてるうちに「なんちゃって」哲学的な話になってしまった。前回も言ったけど、もし読んでくれる人がいるなら話半分に読むこと推奨、ただし批判はいつでもどうぞというスタンスでやっているので悪しからず。

最後に日記的な話に戻ると、親父から受け継いだスクラムワゴンちゃんがレッカーされ、無事買い替えとなった(泣)。普通に走ってても高負荷なのに、仙台から米子まで走らせたり、山登りさせたりしたのがやっぱりよくなかったのかな。走行距離もこないだ10万キロ超えたところだったからね。気に入ってたってのもあるけど、自分に稼ぎがないからまた両親に負担を強いることになるのが何より心苦しい。申し訳ねえ……


おわり

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