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奏劇「Trio〜君の声が聴こえる〜」を観劇したヨ

どうも、舞台考察班です。(大した考察はしてない)
凍えるに引き続き、考察という名の観劇しての感想と考えたことを書き殴っていきたいと思います。

凍えるの考察(?)はこちらから。

今回友人がチケットを当ててくれて、2列目という神席で観劇してきたんですけど、三宅さんお肌とぅるとぅる、、2列目やば、、毛穴レスなんだけど、、、
可愛いというか幼いというか、そんな感じの役だったし、全身真っ白で儚げでよかった、、儚い消えそうな三宅健、、、

最初のクライアントのルナがやってきて、どういう流れだったか忘れたけど、サムに「可哀想」って言ってて、
可哀想って言う言葉は、相手を見下してる時、自分が相手より優位に立っているという意識が、無意識だとしても持っている時にしか出ない言葉だよなってずっと長年思ってたことをまた思ったな。

ロンとのセッションも「今日の朝食の話から」と始めてどんどんカウンセリングの肝となる妻の話にしていく話法、すごい、カウンセリングってこうやってやるのかーと勉強になった。

共通して、捨てた、捨てられた、愛されてなかった、私は愛してたのに!って感じかなーと思った。
ルナは娘を捨ててしまったけどでも愛していて、
それは離れて暮らしているから会えない寂しさと自分への叱責も含めて、罪滅ぼしとしてせめて愛しているという事実を、世間に若しくは自分に取り繕いたかっただけという可能性もあるけど。
でも本人は心の底から娘のためになるなら、だって私は娘を愛していて娘の幸せを願っているから、って思ってるんだろうな、顕在意識では。
潜在意識では、そうすれば私は子供を捨てたひどい親から改心した娘思いの母親になれるから。っていうところもありそう。

ロンは亡き妻を愛していて妻のために歌を歌い続けてきたと、その妻が亡くなって歌えなくなり、妻の人生の軌跡をなぞるように今は生きていると。
しかし歌えなくなった根本的な原因は妻の死後見つけた妻からの手紙。
そこにはロンの姉を愛していたと書かれてあった。
ロンがカウンセリングに来ている時間軸が?時代背景が現代と仮定して、
ロンが結婚したのが20-30年前、だとすると今ほどLGBTQに明るくない時代だし、ロンの妻は友達というポジションでずっとロンの姉の側に居られればと思っていたんだろうけど、その愛しい人の弟から求婚され、家族になれる選択肢ができたと。
歪でも友達よりは近くなり、友達よりも容易くは切れない縁になる、近くで愛し続けられるから、ロンを、ロンの気持ちを利用したのかな。
それを知ったロンはショック(?)で歌えなくなり、今までのこの20-30年信じていた互いに愛し合っているというのは全部幻想だったのかと、今までの人生が否定されたようで、でもそれを肯定したくなくて、歌えなくなってしまったんじゃないだろうか。
ロンの妻はロンの中にロンの姉をみてその部分を愛していて、ロン自体のことは見てなかった。のかもしれないし、ロンのことも恋とか愛とかではないけど愛していたというのもまた事実かもしれない。

トムキムサムは3人とも親に捨てられて、サム以外は物心がついた後に孤児院に入れられてるのかな、だから、捨てられた、いらない子、求められない、っていう思い込み?固定概念?が強くて、そして家族とか無条件に愛してくれる人っていう存在に人一倍憧れを抱きつつ、信じられない、諦めている、信じてないという。
トムは自分以外の子が家族に迎え入れられて幸せになるのが耐えられなくて、なぜ自分じゃないんだ、自分以外が自分を置いて幸せになるなんて許さない、やっぱり僕は選ばれない、僕は幸せになれないんだ、って思いこんで自己憐憫ですね。
キムはトムにばっかり懐いてるサムが気に入らなくて、というか自分にも懐いて欲しかった or 俺もトムと仲良くしたいのにいつも割って入りやがって、っていう結局どちらにしろ嫉妬心が強いのかなー。
この人も親に捨てられてるから、お荷物だからと言う理由で、だから求められる、存在が許される場所とか人がほしかったんだろうな。
そんな中、養子縁組先が決まろうとした矢先に破談になったのはトムの仕業を知り怒り狂って施設を出ていくと、生みの親に会いにいくと。
今なら受け入れてもらえるんじゃないか、本当はそんなことしたくなかった、今でも愛してるって言って許しを乞いて欲しかったのかもしれない。
でも現実は、「お前なんて知らない帰れ」って言われてもう幻想打ち砕かれ、ズタボロでもっと世間に対して怒りが倍増し、コントロールできなくなるレベルだよね。
子供だけの国、もう自分達が子供じゃないのに。
トムとサムを憎んでいるだろうに、それでも子供の頃の約束だと、約束を果たしにこようとするところが不器用だよな。
憎んでて遠ざけてきて今更また仲良しこよしなんてできるような心情じゃないだろうに、でも子供だけの国には2人も必要で、子供の頃夢見た家族という3人のかたまりはその国に存在するべきで、そこでならまたやり直せると言うか、こんなに拗れることはなかっただろうし、拗れる前の状態に戻れると理想を抱いていたんだろうか。

ルナが自殺したニュースが入って、トムは彼女を救いたかったと。
サムが「でもルナは娘を救えて幸せなんじゃないか」と(言ったはず)、
それに対してトムは「そんなわけない」と、「生きてることが重要で死んだら意味がない、自死が幸せなわけない」と否定するんだけど、
それはトムが決めることではないよ、何が幸せで何が正しいのかは人それぞれ人の数だけあるはず。
それを自分の考えのみが正しいからと他の人に強要するのは違う話だと思う。
ルナは自ら命を絶ったけど娘に心臓移植することができて、娘は生きながらえることができて、ルナは幸せなんじゃない、表面的には、顕在意識的には。
娘を愛しているからやったと、捨てたことを後悔していて、今更できることなんてなくて、でもできることはなんでもやりたい、自分の罪の意識を軽くするためだけにでも。
もっとも娘はそれで嬉しいかはまた別の話だけど。
自分を捨てた母親だけどまあ多分子供だからどこかで母親を求めてると言うか、
許すじゃないけど愛して欲しいって言う気持ちはあっただろうし、憎んでたかもしれないけど。
それでも母親が死んで自分が生きながらえるのを全面的に喜ぶだけ、とはいかないだろうとは思うけど。
まあマーガレットがルナのことをどう思ってたかにもよる。
捨てられたけど、でも母親だし愛してたって感じなら絶対嬉しくなかっただろうなと思う。
愛して欲しかったのにその人は居なくなって、それで自分が生きながらえても嬉しくないだろ。知らんけど。
自分が長生きできなくても一緒に過ごす時間の方を大切にしたかったってなると思う、このルートのマーガレットだと。
反対に捨てやがってって憎んでる場合は、いい気味まではいかないだろうけど、私を捨てたんだからこのぐらいしてもらわないと、子供を捨てたあなたが死んで私が長生きする、そのぐらい当然よね?ってなるかなー、極端すぎるか。
でも後味は良くないよねー身内の自死は、どちらにしろ。

サムは完全に孤児院で育った感じだろうけど、初めて見たものが親だと思う雛鳥みたいにトムを慕っていつしかそれが恋心にすり替わり、でも言えない思いを抱えそばにいることを、関係を崩さないことを選んだ。
自分がトムの一番、他の人が割り込むことは許さない。自分がトムの側にいる。

三者三様、葛藤を抱え、隠し、表面を取り繕ってそつなく生きてきた。
でもいつかは明るみにでて露呈して乗り越えていかなければならないことで。
ずっと平行線ではいかないんだろうな。

最後サムが鬼になって数数えて、9のあともういいかいって言わず、ピアノがエンディングを奏でた(と思う)んだけど、もうそれが涙腺に直結で。
パンフレットに「こんなにも音楽が言葉を用いずに語りかけるのか(意訳)」って書いてあって、まさにそれを感じた一番感じたところだった。
セリフの補完としての音楽だと思っていたけど、こんなにも音楽が語るのかって感じで書いてた気がする脚本家の方の意見。(ちゃんと確認してないですごめんなさい、完全意訳)
でも音楽はセリフの補完ではないんよな、映画とかドラマとか後ろの音楽がないと全然別物になるシーンとかいっぱいあるだろうし、それこそ補完として奏でられてるものもあるけど、さらに緩急をつけるためにとか。
でも音楽だけでもちゃんと伝わる。

最後子供に戻ったみたいにかくれんぼ鬼ごっこしてるの、楽しそうで当時の3人の純粋な楽しさだけが詰まった空間って感じがしてよかったなー。
幸せになってくれみんな。
みんな幸せになろうな。

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