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舞台「凍える」を観劇して凍えた話

10月3日に舞台「凍える」を観てきた。
あれ本当誰が考えるんだろう。
なんで演じられるの。

サスペンス?スリラー?系かな、今回は泣かずに済みそう、マスクぐちゃぐちゃにならずに済みそうと思ってたけど無理だった。
前回の「THE BOY FROM OZ」と同様、講演後はマスクぐちゃぐちゃでした。(なお、当方はV6のファンであり、坂本昌行さんのファンです。坂本昌行さん主演ということが、今回の舞台を観劇するきっかけでした)

※観劇後の感想、考察としての文章になる予定なので、まだ観劇していない方、内容を知りたくない方などはブラウザバックを推奨します。一応。注意書きとしてね。
(※2 投げ銭用に有料記事にしていますが、内容は全部読めます。よかったらポチッと投げてくれると嬉しいです。全てはV6に還元されます。)

ラルフ、あれ、凶悪殺人犯だけど、ただの子供なんだよな……。
ちゃんと、(ちゃんと?)親に育てられなかった不幸な子供、可哀想な(?)子供なんだよ。
子供だから、縋るものって親しかなくて、でもその親が碌でもない害悪な人間で、でもそれ以外に縋れるもの、助けを求められるところはないんだよな。

虐待を受けた子供が同じことを大人になったときに繰り返してしまうとか、心を閉ざすとか、色々問題(問題?問題としていいのか?ここでは置いておくけれども)はあるけれど、本人は一ミリも悪くなくて、アニータがラルフに言っていたように、本当、悪くないんだ。子供時代をそう過ごさざるを得なかったのは、ラルフのせいではないんだよ。でも耐える以外どうしようもなくて、親だから信じてるだろうし、何も信じられなくて愛想を尽かしたとしても、心のどこかではまだ愛されたくて信じていたりとか、でも裏切られて、その繰り返しで。

疾病による犯罪は悪なのか、罪なのか。
というようなことをアニータが言っていたけれど、(一言一句正確には覚えていないので、このような表現になってしまうけれど。)
私は、全くもって無罪だ、とは主張できない、と思う。
どれだけその本人が、そう育ってしまったことに本人はなす術がなかったとしても、殺人は法で犯すべからずと定められていて、やっぱり法を犯してしまったのなら、なんらかの然るべき対応があるべきだとは思う。
人間として、安心して安全に暮らしていくためには。

でもそれって、小さい頃から「法は犯してはいけない。そうすると罪を背負わなければならない」っていう教育をしっかり受けているからであって、教育を受けているからこそ出てくる思考であって。それを受けていなかったら?

むしろラルフは法を犯した者から被害を受けていて、なおかつその加害者(この場合は親、母親、何人もの養父)は法によって裁かれてはいない(明言はされていなかったけれども)。
育児放棄、虐待、性的虐待を受け続けたラルフ。その状況をどうしようもできず、ただ与えられるだけ、受容するしか生きる方法がなかったわけで。
じゃあそれを与え続けていた加害者側は裁かれていたか?
されていないからラルフのそんな状態が続いていたのではないか?
加害者側は法で裁くことができる。
しかしラルフが暴行を加えられている間は少なくとも、法によって裁かれてはいなかった。
好き放題して、法に裁かれるわけでもなく、罪を背負うわけでもなく、のうのうと生きている。それが見てきた身近な大人なんだから、模倣したとしてもおかしくない。かもしれない。

そんな自分を自分で止められなかったのかも。止めたくても。
わからない。
楽しんで(?)やっているように見えたけど。
後半で痛みを、精神的な痛みを感じられるようになったから、(と思える描写があったから、)心の底では止めたいと思っていた可能性もあるかもしれない。

タトゥーを入れてわざわざ痛みを自分に与えることの意味はなんだ?
どこかに密かに存在していた心の痛みを打ち消すために、物理的な痛みを加えていた可能性は?
女の子を殺した(仲良くなった)記念に毎回入れる、という感じの描写だったけれど、記念にわざわざ痛みを感じに行くのか?それがさらに快感に変わる?わからんけど。

子供が癇癪を起こして、気に入らないから相手を攻撃して、気づいたら殺していた?
相手の感情が読み取れないのは、自分の理想を投影しているから?期待して裏切られる
自分の感情はそこに関係ない(?)関与しない(?)から?

感情を持つことで期待して、裏切られることを繰り返して感情を殺す、持たなくなる、というのは自然な流れ?なのか、?
共感性が欠落しているのは、共感を得られなかったから?

他者の気持ちがわからなくて、きっとこう思っているはずだ(「好きになってくれた!」とか)という自分の理想を押し付けて、そうじゃないとわかったら癇癪を起こして、自分の思い通りにする、思い通りになるように躾ける(?)仕向ける(?)

自分がされたことを繰り返しているだけか、……

最終的に両親は存在したのか、芽生えたのか。
精神的な痛みに耐えきれなくて自死を選んだラルフは、
今までも精神的な痛みは感じてきていたけど無視し続けた、ないものとして過ごしていた、あるいは物理的な痛み(タトゥーを入れること)によってかき消していたのか。
初めて精神的な痛みを、共感を得る(?)、存在を認められて、自分は悪くないと認められて、許されたから、そこから芽生えたもの?
か、両方か、別の見解がさらにあるか。

ナンシーが「私のせい?」ってアニータに聞いて、「そうだ」って言ったのは間違いではなかったと思う。でも言葉が足りない。
きっかけを与えたという意味ではナンシーのせい。これは否定しない。
面会を無理やり実行したナンシーのせいだと思う。
だけど、そのきっかけを与えて、それをどう受け取るか、受け取らないか、受け取ったとしてその後どうするか、はラルフの意志で。
精神的な痛みを受け入れられなくて、受け入れる素地がなくて受け折れられない、現実を受け止めきれないのは、でもこれはラルフ一人のせいではもちろんない。
この点に関してもラルフは被害者。

でも結局自死を選んだのは、痛みが受け入れられなかったからなのか、受け入れたからこそその痛みに耐えられなかったのか?
どちらにせよラルフが選んだのは自死だったけれども、それは避けようのなかった道なのか。

でもナンシーが面会して精神的な痛みを発芽(?)させるきっかけを与えなかったら、精神的な痛みを、本人が受け入れないとしても、感じることはなかっただろうし、そうすると自分がやってきたことを、罪という視点から見ることはなくて。
凶悪犯罪者としての、不幸な子供時代を過ごした、未だに子供のラルフがそのまま自然死するまで収監されたままだったのかも。
自分のしてきたことを罪として意識したのかどうかはわからないけれども。

投影、だよな。重ねてみてるんだよな。
自分が今度は優位に立って、自分がされてきたことをやり返してるんだよね。
疾病による罪は罪なのか、罰せられるべきか。
司法のあるところで生きていくには必要だろうけど、行為自体に悪意(?)があったとしても(?)

その行為を行うに至った原因が本人にない、その責任が本人にない場合は。

大人になる術を知り得なかった、子供のままの、側だけ大人になってしまった少年なんだよな、ラルフ。
悪いんだけど、悪くないんだ、本人は、一ミリも。


アニータは最初、解離性があるのか?と思っていたけど、そうでもないのか?
人の、親しい人の喪失にトラウマを持っているのか?とも思ったけど、最後ナンシーに「彼と寝たんですよ!」って言ってて、うーん。
不倫(?)をワンナイトだけどしてしまって、その数日後に相手は不慮の事故で死んでしまって。そりゃあ自分を責めるようにはなるか。
もし過ちを犯さなければ、この場合は彼と寝なければ、とか、友人でもある彼デイビットの妻とその子供にも、後ろめたい罪の意識を持っていて、罪悪感を後生大事に抱え込んで、身動きできなくなってね。
故人の何かに触れるたびにフラッシュバックして、罪の意識に苛まれて、でもどうすることもできず、押さえつけてやり過ごすしかない。
彼との関係を持つに至ったきっかけが、原因がどちらにあったのかはわからないけれども、死んでしまった彼に責任を転嫁して、恨んで、少しでも気分を晴れやかにする(?)楽になろうとするためにメールを送ったりとかしたのかな。わかんねえ。

良心を感じない者と過剰に感じ意識してしまう者、という対だという解釈でいいのかな。わかんない。


追記
2回目を観劇して、追記(?)を書きました。これの続きとかではないですけれど、ご興味あればどうぞ。アニータに関してが多めかも。
こちらから。

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