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自分の居場所って

1.外国人として振舞うこと

ハーフと言われる方や言葉の堪能な外国人は「カッコいい」と言われることが多い反面、どっちの国でも居場所がないと感じていると言う。スポーツをすれば必ず上手いと思い込まれたりすることが多いと聞いたことがある。
そんな話を聞くと、日本のゴルフ場で見かける外国人は、必ずプロなんじゃないかと二度見していたり、練習場では距離をおいていたことを思い出してしまったりもする。

2.サラリーマン時代は

できるだけ仲間と群れることなく過ごしていたサラリーマン時代。好かれるよりも嫌われることが多く、距離を置かれるケースが多かった様に思う。その証拠に退職する時には、噂を聞いて声をかけてくれるコアな人がとにかく少なかった。
「飲みニケーション」がコロナ前から不要だと思っていたタイプだったので、酔った勢いじゃないと本音が言えない人が本当に苦手だった。特に喫煙所で戯れる中年男性の姿なんて滑稽でしかなかった。出世を意識したこともないけれど、キャリアハイで終われたことはそれが間違いじゃなかったって思えることの証だと思っている。


3.居場所を求める時

無理に自分を殺して人との距離を大事にしていると、その反動で「自分の居場所」を求めてしまうのではないか。自分が一定の距離で付き合っていれば、人もそれより近い距離に入ってくることもない。そこを自分の居場所として確立することが出来たというだけのこと。
一人でいることが不安なのか、大勢でいることが安心なのか。登り詰めれば人間は孤独になるもので、その現実が見えている人ほど人とは違うオーラを発しているもの。その目線に不安を感じる人ほど、群れをなして行動する人たちを冷めた目で見ていた反動で群れなくなっていったのかもしれない。


アルゼンチンでの頂き物


4.アルゼンチンでは

アルゼンチンについて6ヶ月、居場所がないという疎外感を感じることなく過ごせているのは、そういう経験があっての事なのか。言葉が通じないから人と行動を共にすることもない。遠くから目線を感じることだけは多いのに、それが苦痛に感じることもないのは、その頃の感覚と似ている。
サッカーの付き添いでグランドにいても、そこにストレスも感じるどころか、むしろ話しかけてもらうことが多くて驚いている。居場所がないとか居心地が悪いと深層心理で意識していれば話しかけられることもないと思うし、ストレスが伝染することだってあるから。
日本でも自宅やプライベートな場所でも、「自分の居場所」を認識したことがない。一人も知り合いがいないアウェイな場所でも平気だし、一人でカフェでスイーツを食べることもできるシニアには、そういうメンタルが備わっていたのかもしれない。


5.今の居場所とは

どこか自分に対して粗末に生きてきた学生時代とサラリーマン時代。死ぬことすら怖くないと思っていた時期もあった。アルゼンチンでは父子生活になったことで、自分が病気やケガで倒れるわけにいかないという緊張感があることを思うと、まるで立ち位置が変わったように思える。子供の寝顔を見ながら、「まだ死ぬわけにいかない」ってことを意識することが多くなった。アルゼンチンでは、二人三脚の要素が多くなったことで、自分が必要とされていることを感じている。
生きることで何かを全うするということが、今まで体験したことのない感覚。時間に追われるばかりのサラリーマン生活では、得ることのない経験ができているという自覚、それだけでも貴重な経験。
これが父子の人生にとってどんな影響をもたらすのか、海外生活が日本でもそれ以外でもメリットにもデメリットにもなる。居場所を探すまでもなく、強く生きられる訓練だと思えば良いのかもしれない。




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