11.最初で最後の面会日。

【2024年4月18日】
明日はわたしの子供の誕生日。
そして母と面会をする日。

母の親友、智代の都合で
明日に面会が決まった。

面会にいったあとは
家で子供の誕生日会をする予定。
ケーキ屋さんにケーキの予約をした。
母の病院の近くのケーキ屋さんにした。

面会が終わったらすぐにケーキをもって
子供の誕生日をお祝いしたい。

明日は忙しくなりそうだから
プレゼントだけ先に渡しちゃおう。

そう思って一日早く誕生日プレゼントをあげた。


そして日付が変わって
【2024年4月19日】

0時48分。病院から電話が来た。

頭と心がザワザワした。
こんな真夜中に病院から電話なんて
100000%やばい事しかない。

『夜分遅くにすみません。夜間の担当医です。お母様の容態が急変いたしました。22時に夜間の巡回をしていたら呼吸の様子がおかしく、意識も朦朧としている状態で、おそらく近日中に亡くなると思います。ご家族の方、病院にいらしてください。』

私は病院に急いだ。

もう言葉を交わせないとしても
互いに必要な言葉は全て言い尽くしたと思う。

私達には余命宣告されてからの日々
沢山時間があったから。

もう見送る日が来てしまったかと
静かに思いながら病院についた。

母のもとにたどり着いた。

母は、目を開けたまま
口には酸素マスクがつけられて。

口で浅く呼吸をしていて
呼吸をするたびに肩が動いていた。

全身で呼吸をしているように見えた。

それと同時に、あっ本当にやばいんだ。
そう痛感した。



『チエちゃん。お待たせ。よく頑張ったね』

そう母に声をかけた。
昔から私は母を、名前で呼んでいる。
よくわかんないけど、それがしっくりくるから。

医師と看護師さんが
『娘さんがきましたよー』と大きな声で
母に話しかけた。


母の目尻が少し動いた。
口元は、わずかにすぼませるように動いた。

何か言いたかったんだろう。
"お" を言う時の口の動きだった。


多分ゴメンね。と言いたかったんだと思う。

ちょっと腹たった。
そんたときはスラスラあやまれるのに、今までの人生まだ母に謝られてない事だらけだからだ。


医師から説明があった。
水か痰などがうまく飲み込めなくて窒息状態に陥って、助けを呼べずに10分以上経過してしまった状態で発見された。急いでさまざまな処置をしたけど脳に酸素が行かない時間が長かったから低酸素能症になってしまっていると。

このまま長く続くことはなく数日中に亡くなることがほぼ間違いないと。

夕方まで短文でもなんとかラインも出来ていた。
20時にラインを入れたけどそれは未読だった。
本当に突然の急変だった。

2024年4月19日02時45分。
血圧は50。

それからしばらくは安定してて。

本当なら今日一緒に面会する予定だった
智代に連絡をいれて、もしできるなら
母の最後を一緒に過ごして欲しい。
最後に会いたいと思っていた人だから。

そう伝えると智代は、
一緒に最後を過ごすと決めて病院へ来てくれた。

2024年4月19日09時00分
智代が母とやっと会えた。

智代と私は、母のそばで互いに
母の左右の手をそれぞれ握りながら
母との思い出を話した。

私は、
『今日は孫の誕生日だからまだ死ぬなよ!
あと12時間くらいなんとか粘れよ!』
っと声をかけた。

孫の誕生日に死なれたら
たまったもんじゃない。

おめでたい日が命日なんて
足し算引き算したら0になるじゃん。

ふざけるな。そう思った。
それと同時に、それはそれで面白いのか。
なんて呑気に考えていた。

母の目が覚めてしまいそうな
恥ずかしい話や面白い話。

色んな話を智代とした。

母の手足は冷たくてホッカイロで温めながら
手を握っていました。指や耳全身に色々な物が
ついていて母の手はまっすぐ伸びたまま
握り返すこともありませんでした。

こんなに冷たいのに体は汗だくで
なん度もタオルを取り替えて。

それから少しずつ血圧がさがり45、40、30..


13時。母が痙攣して血圧が20台に。

痙攣した衝撃で母の手が
私の手を握りしめていました。

生きていて欲しい気持ちと、
このまま目も閉じなくて乾燥して
苦しそうに生きている姿をみると
少しでも早く苦しみが終わればいいと
願ってしまう気持ちで。

あれだけ濡れていた額の汗もなくなり
嘘のように乾いていた。

もうお別れなんだな。と悟った。

最近チューリップの歌を子供が歌っている。
わたしは、ばぁばに聞かせてあげたいから
お歌を歌って?と子供に頼んで録音させてもらった。

それと同時に、
『ばぁば。寝てる場合じゃないよ?』
と子供の声を録音した。

母の耳元で子供が歌う
チューリップを沢山聞かせた。

静かな部屋に、私の子供が歌う
チューリップが響き渡っていた。

そして最後に、
『寝ている場合じゃないよ。』
『ばぁば、ありがとう。』
と子供の声をきかせた。

涙を堪えるので苦しかった。

でも、子供は病院には連れて行けないから。
どうせ逝くなら大好きな孫の声を聞きながら
穏やかな気持ちで見送りたかった。

大好きな孫の優しい声を聞きながら。
どうせ死ぬなら優しい死神さんが
迎えに来てくれたらいいな。
そう願った。

少しでも母が穏やかに旅立てたら。
そう願った。

それから徐々に血圧が下がり続けて
唯一母が生きていることが肉眼で確認できた
呼吸をする時の喉や口の動きがなくなったので
ナースコールを押しました。

血圧も計測されないほど低くなったので
計測器を止めました。

だけど握っていた手に脈を感じて。

計測を止めたはずの機械が勝手に動いて
ずっと母の血圧測ろうとして何度も何度も
腕に巻いたバンドに空気をいれて計測しようとした。

バンドに空気がはいって圧迫されていたのを
脈だと勘違いしてた。

ナースコールおしてなんか機械が暴れてます
っていったら看護師が、あー不思議な力かもね
なんて驚いていたけど。

14時28分完全に呼吸が止まってしまった。

それから心臓は動き続けて、毛布からわかる
かすかな動きをずっとずっと眺めていた。

どんどん小さくなる動きをずっとずっと。


15時47分 医者のご臨終ですってよくあるセリフを言い渡された。


長い長い苦しいばかりの母の孤独な戦いが
やっと、終わったんだ。そう思った。

生きてた時は、いろんな出来事があって
許せない事もあったけど、どんな時も
逃げないで不器用だからズルもできずに
まっすぐしか走れない人だったけど。
不器用だから一番大変な道しか選ばなかった人だけど。逃げずに最期の一瞬までひたすら戦い抜いた姿を、私は率直にかっこいいと思った。

『あなたほど最後まで休む事なく走り続けた人みたことない。かっこよかった。お疲れ様。』

と声をかけた。

悲しいのはもちろんだけど、生き様みせつけられたわ。って思った。

息を引き取った母の身体を看護師さんと
一緒に拭いてあげた。

悲しかったけど、火葬されてしまうまでに
してあげられることは私が全部したかった。
だからふいてあげられることも嬉しかった。

この日は晴れていた。
清々しいほど晴れていた。
でも風が強くて春一番のような風が吹いていた。

窓から見えた景色は散りゆく桜の木。
下から押し上げるような強い風に桜の花びらも
葉っぱも、空高く舞い上がっていた。

強い風と舞い上がる桜の花びらと一緒に
母は空高く遠いところへ旅立った。

そう感じた。

嵐のような一日。

そして、医師から死亡届を受け取り
安置所の手配のため一度自宅へ戻ることにした。


途中でケーキ屋さんに予約していたケーキを
引き取りにいった。さっき母の亡き骸を拭いてあげた手に、まだ一時間もたってないのに誕生日ケーキの箱を抱えている。

そしてケンタッキーでお祝いのチキンを買った。

今日は子供の誕生日なんだ。
子供に悟られるわけにはいかない。
誕生日はニコニコ笑顔で終わらせたい。

絶対に笑顔でいる。
そう決めたから、意地でもケーキや
ケンタッキーでお祝いの準備をした。

歯を食いしばってでも笑顔でいると決めたんだ。

このチグハグさに混乱したけど
冷静になると笑ってしまった。

こんな人あんまいないだろうな。
また人生にパンチの強いネタができたな。

なんて不謹慎なことを考えながら。

家に戻ると旦那さんと子供がまっていた。
お誕生日のお祝いは旦那さんのご家族に
急遽お祝いしてもらうことに。

買ったケーキと大きなチキンの箱を
旦那さん達に託して。


わたしは、葬儀の手配と
母の安置所の手配をした。

病院へもどり霊安室で
看護師さんに身支度を整えてもらった母と再会した。真っ白だった髪の毛は少し黒くしてもらい。
髪の毛も上品になっていた。

目は最後まで閉じなかったし
今でも会いたままだった。

口も半開きで閉じなくて困った看護師さんが
考えてくれて頭からアゴに可愛い白いレースを
巻いてくれて顎の下でリボンを結んでくれた。


ちょっとロリータ系みたいで可愛かった。
安らかな死顔をしていた母。
すこし若返った気がしてレースが似合ってた。


そして葬儀屋さんが母を病院にお迎えに来た。

寝台車に母と一緒にのって、病院から出た。
もう夜の20時。母と私は夜の静かな街をドライブした気分だった。

生きて外に出たいと願った母。
叶わなかったけど、私と二人でやっと。

『やっと外に出れたね。おかえりなさい』

そう母に声をかけた。
静かに窓から見える星空を見ながら
見慣れた街並みを走った。


2024年4月19日15時47分
母 52歳 永眠。

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