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神話は空には無く、人の中に有る


映画「プラットフォーム」の考察を含む感想です。
映画内容に多文に触れます。



 牢獄のような狭い部屋が数百も縦に重なった空間。一室に二人づつ収容された部屋の中央には四角い穴が開いており、上から下まで貫いて先は見えないほど深い。
 部屋に扉はなく、外と連絡も取れず、食事は一日に一回、浮遊する不思議な台(プラットフォーム)に乗って穴から降りて来る。

 というのが物語のあらすじ。
 全て見終わって、前半「cube」で結末は「ハウスジャックビルド」という感想だ。

 システムの面白さから始まり、見る側の思考の余地を持たせて終わらせる結末と云うべきか。

そもそもこの「穴」はなんなのか


 主人公ゴレンは自ら志願して、この空間に入った。半年間、耐え抜けば認定証が発行され、外の暮らしが有利になる。そういうルールの空間らしい。
 だが、どうやらすべての人間がそういう訳ではなく、刑務所か、穴かというものも。
 そんな選択肢の違いや、人種の違いなどに、この「穴」の存在が何のために存在するのか疑問に思えた。
 そもそも、生活が有利になるほどの権限のある組織など、国が運営する以外にあるのか。

 そのあたりはまぁ、比喩的表現の一つとして考えると、「穴」は社会そのものなのであまり考えなくていいのかもしれない。
 この映画は徹頭徹尾「暗喩と比喩」の映画と言えるのだろう。

オメラスから歩み去る人々


 部屋の入れ替えが全くのランダムで行われると聞いた時に「オメラスから歩み去る人々」の話を思い出した。
 オメラスという街では、地下に捕らえられた一人の不幸な少年が街の幸福を支えるという、利功主義的な話である。

 それに関連する話で、その地下に捕らえられる人間が、国民から平等に、そしてランダムに選ばれるとしたら、そのシステムは維持されるのかという仮定の話があるのだ。
 もし、どんなに社会的な地位があろうとも、強制的に苦痛を強いられる可能性がある場合、人は幸福を犠牲にしてもその制度をなくそうとするだろうというものです。

 この映画に当てはめると、自分が「穴」の下に行く可能性があるのに、下の人間に気を遣えないもんかね。という事です。
 ほとんどの人間が、下の事を考えず過剰なまでに貪り、そして汚す。
 此処は文化的な道徳心の話なのか、それとも個人の倫理観の問題なのか測りかねるが。

 自分が助けてほしかったら人を助けなくては、という情けは人の為ならず、の精神はある程度余裕が無ければ発生しない精神なのか────その時になってみなければ判らない。

 主人公ゴレンのように、「マシ」なスタートと「マシ」な同室者であれば、その余裕はあるかもしれないが、飢えた同室者と200層スタートだとしたら、どうだろうか。
 生き残ってしまったとしたら、悪意だけが凝って正気ではいられないかもしれない。

 ここは、貧しい家に生まれるか、裕福な家に生まれるか。
 出生という運を、ランダムな部屋替え表現としてあらわしているのかなとも思えた。
 生まれはよくても転落することはあるし、生まれが悪くても裕福になれることはある。

 そんなシステムも社会の縮図として見えるし、視覚的・物理的な「縦」が更に濃縮した社会たらしめているのかもしれない。

食料を得る為の最後の手段


 Q.カニバリズムはタブーか?
 A.現代では、そう


 だが、限定的に「是」とされる場合はある。
 文化的な理由と、遭難や飢饉などにおける緊急避難的な場合である。
 勿論、肯定的な反応ではない。何方もセンセーショナルな話題として取り上げられるものだが、文化は何処まで突っ込むべきか難しい問題であるし、緊急避難避難的な行為だとしたら、他人がとやかく言えることでは無い。
 自分の信仰はどうであれ、生にしがみつく事を浅ましい事だと、他人に言うべきではないのは確かだ。

 プラットフォームの場合は、緊急避難的な行為にあたるだろう。
 171層で速攻グレンを縛り上げるトリマガシの判断の速さ、ある意味どこまでも正気で、生き残ろうという強い意志を感じる。
 結果、全くの偶然で食う側から食われる側になってしまった訳ですが。

 ゴレンの言っていた通り、一ヶ月の絶食、正直健康な人間でギリギリだと思います。
 年齢性別、あるいは持病の有無などあるはずで、生存の最低ラインは一定ではない。
 だからこそ、穴の中では食人行為が最早、深い階層における「悪しき風習」と化していたのではないだろうか。

 それに耐えられなかった主人公ゴレンは、空腹と罪悪感で朦朧としながら肉を口にして、幻覚を見たり、本(紙)を口にしたり、発狂とみられる描写が多々ありました。
 その後、消えないが決して敵対しない幻覚との付き合いが始まるので、やはり何処か壊れてしまったのだろうと思います。

悪しき通過儀礼後の、正義


 人の肉を口にした後の新たな同室者であるイモギリの持つ真っ当な感性は、主人公にはどう映ったのか。
 主人公と共に地獄を見た我々としても、イモギリが遂行しようとした「分け合うこと」を説き続ける姿は、いっそ滑稽にも見える。
 それでもイモギリの思いつかなかった「クソ」という「穴」らしい一種の暴力を用いてそれを実行させる事ができたのは、穴の醜悪さを見させられたわたしたちにさえ、その成功は希望の光のように見えた。

 だが、そんな希望を持ったあとのラムセス2世の死。
 そして202層。
 絶望ですね。
 目が覚めたとき、大切なものを失い、知ってるはずの階層より遥か下があるという絶望はいかばかりか。

 内部の人間である彼女が知らないと言うことは、それが意図的に隠されているか、0層の人間にとっては穴が何処まで深くあるかなど如何でもいいこと、だったのか。

 というか、200層(400人分)を予想して食い物が用意されてたとしたら、どんなに丁寧に分配しても333まで人が居るとしたら、666人。
 266人分、単純計算でも足りない。

 不慮の死や争い、または期間を全うした者が奇跡的に重なったとして、333人分だ。
 そんな事はまず無いだろう。
 平等な分配の為に、一人分を二人で分け合うのが「正解」だとしても、極限状態で足りないものを奪い合うなと云うのはどう考えても無理がある。
 人間はそれ程、理性的な生き物ではないし、救世主も居ない。

 そんなことにもイモギリは気づいてしまったのでしょう。
 信じていたぶんの絶望は、とても深かった筈だ。

パンナコッタの秘跡


 三人目のルームメイト、バハラトは希望を捨てていなかった。
 ある程度穴で生活している筈だし、恐らく「下」も経験している筈なのに。

 与えられた食事を分け合うことに腐心していた主人公グレンにとって、このシステムの無理ゲー具合を「上」に直訴するという考えは新鮮だったのではないだろうか。
 そして「偉い人」の考えでパンナコッタを伝言にすることを決める。

 もうこの時点で物語は佳境で、話がどこか神秘(オカルト)じみている。
 元々聖書の引用や救世主と云う言葉など、随所に「道徳としての」宗教が垣間見えていたのもありますが、終盤一気にそれが加速したように思いました。

 伝言のための暴力ならば、淡々と行われるのもまた、正義の感情が目を曇らせる宗教戦争のようだ。
 だが、あの状況下でガンジー手法は無理だろう。
 暴力を悪とするのは容易いが、こんな極限下での暴力は、警察や軍という抑止力の一つとして考えるのが一番納得できるだろう。

 そしてそんな「正しい暴力」を携えて降りた先に居たのは、いるはずのない子供だった。
 明らかに、16歳以下の。
 子供はいない、食事は下にいきわたる分、穴は200層────嘘ばっかじゃねーか! なんだこの施設!
 最早「穴」の道徳的な存在理由など説かれても、鼻で笑ってしまうレベルである。
 そして結局のところ、飢えた子供にパンナコッタを与え、そのパンナコッタ(伝言)の役割を子供に託す事になる。

 パンナコッタという象徴を失った今、その考えは理解できる。
 が、生きた子供を「神」の伝言とするなど、まるで、生贄じゃないか

 更に具体的な事を言ってしまうと、少女はインカ帝国の生贄のようだと思った。
 アンデスの高い山の上、神に近しい場所で凍死した子供たち。
 1年かけて豊かな生活をさせ、最後は神聖なコカ(薬物)を与え続けて蒙昧となった子供を生贄とする。
 作中でも、神聖なパンナコッタを口にした少女は、プラットフォームの上で懇懇と眠り続けていた。
 まるで本当の生贄のように。

 人は神に「もっとも価値のあるもの」を捧げるきらいがある。確かに、要らないモノを神には渡さないだろう。
 人間にとって貴重なものが、神にとっても貴重かは解からないというのに。
 祈りに代償がつきものなのは、欲深い人間の願いを抑制させるための装置なのだろうと思う。
 


 白人、黒人、そして有色人種の少女。
 倫理的な白人、勇敢な黒人、神に近い少女。
 これは皮肉なのだが、基督教における完璧な三位一体じゃあないだろうか。
 聖書とステレオタイプがある種この物語の軸となっているような印象を受けたため、そう思えた。

 少女を神のもとに送り出した主人公は役目を終えて、最下層の暗闇を歩き出す。
 恐らく希望も絶望もない。

 ここはまるで、主人公の大切にしていたドン・キホーテの結末のようではありませんか。
 騎士のもつ気高い狂気を軸にシステムに挑み、正気に戻り死ぬ、なんて。

 そんなドン・キホーテという妄想の騎士道に憑りつかれた救世主のメッセージが、外の世界────0層に存在する「神」に果たして届くのだろうか。

 私はそれを、否とする。

 恐らく何も変わらず、少女「パンナコッタ」はインカ帝国の生贄のように、神の世界の住人となるだけなのだろうと、思う。
 同時に、子供という次世代に希望を託すのは、自分の世代では如何し様もないという諦念とも考察できた。

 神に祈るだけでは、世界は何も変わらない。
 そんな風に思えた。

まとめ

 プラットフォームは軸が基督教に寄っているとは思うものの、社会構造の暗喩として非常に考える余地のある映画だと思います。
 視聴後の余韻を考察で楽しめる系の映画、好きです。

 パンナコッタという伝言を受け取ったのは神ではなく、映画を見ているわたし達なのかもしれない。


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