「食人国旅行記」悪徳と美徳。その相違。

サド伯爵著、「食人国旅行記」読了。


インパクトが強いこのタイトル。

実は翻訳された方がつけたタイトルで、本作でこのような表現は出てこないのです。


勿論人を食う表現はあるのですが、それはその旅行先の悪徳の一つに過ぎません。

あらすじとしては、道ならぬ恋をした二人が、逃げ出した先で女だけが攫われてそれを追いかける男の冒険譚、といったところでしょう。

この中に、当時の荒れ狂うフランスの政治や、著者の(当時にしては非常に)先進的な考えが述べられた、一種の哲学書的な側面もありながら、冒険としての面白さが詰め込まれています。




  ■美徳と悪徳の国


この冒険譚の中で特筆すべきは、アフリカにある悪徳の国「ビュテュア」と、海に囲まれた美徳の孤島「タモエ」。

この二つは架空の国で、デストピアとユートピアを対比させたものと言えます。



◆悪徳の国「ビュテュア」

悪い王様が、他国と戦争し、その兵士を捕らえては食べ、女を虐げ、憂国に導く最中の国、といったところ。


王様は暴力によって選ばれ、女性に人権はなく、子供を産めば疎まれるといった、国としてやっていく気を感じない国として描かれています。

王は淫蕩と男色にふけり、他国と常に小競り合いをして国民を疲弊させるその姿は、かつてヨーロッパにいた悪辣な王たちを寄せ集めたもののように見えます。


この国に教育らしい教育はなく、女を虐げること、他国と争うこと、そんな腥い暴力に支配されれおり、主人公はこの言葉も通じない国を訪れたことを非常に恐れます。


しかしこの国には主人公より先に捉えられて王様のために女を選別する仕事についていたポルトガル人がおり、フランス語を話す主人公とこの国の住人の通訳をすることになります。

このポルトガル人はすでにこの国の悪徳に染まっており、この国を非難する主人公をなだめすかし、なんとかこの国になじませようとします。


勿論このポルトガル人も人を食います。そして女を虐げ、男色にふけります。

主人公が頑なに自身の清廉さを保とうとするのを熱心に悪徳へと口説く姿は見ごたえがあります。


そんな口説きをうけている間も、主人公はさっさと恋人を探しに行きたいのですが、王様も怖ければ逃げる手段もないのです。


そしてこのポルトガル人が王位を簒奪せしめんとしたところで、そのたくらみが露呈してしまいます。

主人公は共謀の疑いをかけられることもなく済んだのですが、

いよいよこの国にはいられまいとして、この国を脱出します。



◆美徳の国「タモエ」


わたしは現代を生きる人間なので、この美徳にあふれる国の登場人物が白人のみなのが引っ掛かりました。


この二つの国が対比されることは、現代ならばブラックジョークにもならない話です。


しかし当時としてはある種、「当然」のことなのでしょう。

そもそも、他国の歴史を尊重する動きになりつつある民族学の起こりは、白人たちの好奇心、言わば傲慢さから他国の歴史を「発見」していこうというものです。

そんな価値観真っ盛りの時代の伯爵(身分の高い人間)が書いたものです。おかしいことなどないのです。


そんな白人で構成された美徳の国は、ハッキリ言って社会主義です。


本来、社会主義は理想郷そのものでした。資本主義の生む貧富の差もなければ、身分の差もない。
しかしそうなるはずもなく「皆で貧しくなる」のが社会主義本来の姿ではあります。

季節は常に温暖で、納税もたった一つ、国民が飢えることがないように常に潤沢な食糧が貯蓄されている。

とにかく格差のない社会(国家)が、社会主義なのです。


崇高な理念によって、技術の競争を拒み巨大な国土を支えきれず崩壊した連邦もあれば、社会主義に届かない共産主義を持ち、資本主義を取り入れることで生き残る国も現代にはあります。

結果を知ってるからこそ、社会主義が理想国家(ユートピア)として挙げられている事に首を傾げますが、その理想通りであれば、確かに社会主義は強烈な病棟社会なのです。



著書の中でも、主人公はこの社会主義国タモエで、フランスの王政について批判的な態度でこの美徳の国と比べていました。

権威や腐敗した政治に、うんざりした様子がありましたが。庶民のわたしからいえば、貴族(筆者)が何を言っても貴族なんだよなぁ、と思ってしまうのですが。




この国で主人公は完成した社会主義を学びます。

悪徳の国とは比べ物にならないほどの美徳にあふれたこの国は、質素でありながら常に喜びにあふれており、また、法律がないために罪もありません。


罰がなければ罪がはびこるような国ではなく、国民たちはみな幸福に暮らして、愛に溢れ、単身者もその例に漏れることなく保護されます。


幸福な国からの管理を受けて、すべての国民が国に奉仕することを望みます。

できすぎたデストピア小説の導入のようですが、先に悪徳の国をみているために幾分マシに見えてしまいます。


ただこの国には音楽は堕落を呼ぶものとして扱われており、娯楽として存在せず、労働と読書、そしてある種強制された恋愛が存在します。


男色は否定され、単身者は住処を分けられ、寡婦もまたそのような扱いを受けます。

決して屈辱的な差別を受けるわけではないのですが、どう見ても社会的地位は低い位置に置かれています。


美徳の国では、理性で欲望を抑える様がありありと浮かんでいます。いや、欲望をいかに国民に感じさせないかに心を砕いているといっていいでしょう。

理論立てていても、美徳の国にも抑圧はあるのです。

自由と幸福とは、いったいどのような形で存在するべきなのか。この国の姿はそれを考えさせられます。


主人公はこの島を離れる際には、涙を流します。できることであれば、この島に恋人とともに来たかったと。

著者の理想を詰め込んだ社会主義国家は、主人公を長年の友人の如く手厚く送り出します。


◆二つの国の対比

この二つの国を訪れた後に、美徳の王の教えに従ってヨーロッパに戻ります。
そして戻った先で悪徳な裁判官に捉えられて、財産を巻き上げられてしまうことになります。

しかし、助言に従った先のヨーロッパで、主人公は探し求めていた恋人と出会うことができます。

彼女は主人公と何度かすれ違い名がも、ヨーロッパを巡るある一座の女優になっていたのです。

めでたしめでたし、で終わる話なのですが、そのすっきりさは単純に、この物語が本来であれば恋人の冒険譚へと続いていくためです。

この一冊でも十分独立して読むことはできるので、然程気にすることでもないのですが。



内容は冒険譚。しかし、その国の政治や思想。そして宗教が深く作りこまれています。
それは著者の生きていた当時のフランスは、激動の時代。王政の崩壊を目前にした時代であったためと思われます。

日本人に馴染みがあるといえば、マリーアントワネット断頭の時代。フランス革命ごろと云えば想像しやすいでしょう。

劃して、フランスの王政はナポレオンという傑物によって終わりを告げました。この後ナポレオンが皇帝を名乗り、ロシアに大敗すると再びマリーアントワネットの娘が王政復古し、そしてフランス最後の王政の灯は完全に消え失せることになります。


余談ではありますが、かつてフランスの支配下であったイギリスに王室が残ったのは、王政ではなく王室となったからで、これは日本でいう「象徴」としての天皇と同じ位置であるからこそ、あれだけの対戦の後にも残ったのです。


それをしなかったフランスは、王政の排除をもってして「自由、平等、博愛」を貫く事となったのでしょう。

サド伯爵の望んだ形とは遠いものになりましたが、この三つの理念は彼の望んだものに近いのではないでしょうか。




■自然が望むもの


ヨーロッパにおけるキリスト教の影響力は非常に強く、ミラノ勅令やらなにやらと複雑な歴史の上でヨーロッパに根を張ったものなので、一言で語ることはできないのですが、簡単に言うと、キリスト教でなければ戸籍も、医療も、コミュニティにも入れず、住む場所を追われることになります。

これは王でさえその目にあう、強烈な力を持つものです。

王は破門を恐れ、教皇の権力は増すという悪循環が続き、同じ宗教であるというのに様々な派閥が血で血を洗う争いをする理由は、信仰や教義の差異による争いではなく、そのコミュニティでマジョリティでいるための戦いでもありました。


宗教戦争というものは往々にして悲惨なものです。



この作品の中でも、各国の宗教が描かれます。

悪徳の国の信仰は、血を好む山羊に似た偶像を持つ神に、女の生き血をささげるというものです。


命とともに血をささげる様は、マヤ文明の太陽信仰に近いものがありますが、この悪徳の国は生贄を王が女の中から選び、そして絶望の中ささげます。自主的と言われていたマヤとは異なるものです。

これは当時で思いつくことのできる最も残忍な形をした宗教といえるでしょう。


美徳の国に信仰はあるがそれは偶像崇拝でもなく、豪華な寺院もなく、ただ皆で同じ時間に集まり、自然に対して真摯に祈りをささげるというものです。


つまり、それはキリスト教ではない。いわばアニミズムに近いものでした。

キリスト教という教えがなくても、人は美徳を守り、互いを尊重しあって生きていくことはできる。

そんな事をこの時代に書くのは非常にリスクのある事だったでしょう。


わたしたちは当然のように信仰を自由に持つことができますし、思想に関して国から注意や警告を受けることもありません。

しかし当時はそうではない。


サド伯爵は果たして、キリスト教に疑問を持っていたのでしょうか。

彼の詳しい人生については不勉強なため確信をもって言い切ることはできないのですが、まるでそのようでした。


神を「自然」と呼び、人間の行いが自然の摂理の中にあることを何度も繰り返していました。

偶像ではないそれは、なんというべきか、まるでアニミズムというよりも理神論者のそれに近いものを感じました。


サド伯爵は、信仰に頼らない人間の力をどこかで、信じていたのかもしれません。



■おわりに


この作品のなかで、非常に印象に残った部分があります。

それは、美徳の国のことではなく、悪徳の国でその国に染まったポルトガル人の言った言葉です。


「人間を怖がっている者には、楽しい思いはできないさ」


ああ、そうだな。自由に、放蕩に、気ままに生きるためには、人間を恐れていては、いけないのだ。
他人なんか気にしては、楽しい思いなどできないのだ。

なんだか妙に納得してしまって、悔しいような気持にもなりましたが、彼の口はうまく、最期まで後悔することもありませんでした。

悪徳に染まりながらも、その一途さはわたしにとって、どこか綺麗にも見えたのです。


著者は神よりもヒトという存在を信じ、愛していたのかもしれません。



人間の善と悪。そして信仰。

それは常にその時代の「流行」が決めます。

当時のエポックを感じながら、現代の善と悪、そして信仰について、改めて考えることの一助となる、「マルキ・ド・サド」のなかでは非常に善い作品であると思いました。




何より糞を食わなければ尻も舐めない。


伯爵の本としては非常に読みやすい作品の一つなのではないでしょうか。




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