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「危ない法哲学」日常の再考手引

あぶない法哲学
~常識に盾突く思考のレッスン~



 法哲学。読んで字のごとく「法律を哲学的な視点から再考する」という学問。

 学問の中でも明確な答えのない「哲学」。
 それをある種社会の「明確な答え」である法律を再考するのに使うだけで中々面白い。
専門的な法律と、とっつきにくい哲学の融合は早々に読者の心を折りそうなものだが、初心者にも解り易い表現を用いており、内容に反して非常にマイルドな読み応えでした。

 当書は以下、十一章から成り立っている。
 その中で、面白いと命題だと思ったものを簡単に拾い上げて簡単にまとめた。

第一章「法化の功罪」
 ・法律に正しさを期待するな

第二章「自然法論VS法実証主義」
 ・自発的な売春は是か非か?

第三章「正義をめぐる問い」
 ・マキシミン原理の破綻

第四章「遵法(じゅんぽう)義務」
 ・思考停止した遵法は罪である

第五章「法と道徳」
 ・道徳を法によって強制されたいですか?

第六章「功利主義」
 ・本当はこんなに優しい功利主義

第七章「権利そして人権」
 ・国家なきところでは人権よりも自己保存

第八章「どこまでが【私の所有物】か」
 ・自由意思で臓器を売ることがなぜ禁止されるのか

第九章「アナルコ・キャピタリズムという思想」
 ・アナルコ・キャピタリズム(無政府資本主義)

第十章「どこまで平等を実現できるのか/するべきか」
 ・能力の増強か、それとも能力の平準化か

第十一章「ヒトはどこまで自由になれるか」
 ・愚行権/成人同士の合意による食人

 どの章も興味深い内容ではあったが、やはり気になるのは自由意思で臓器を売ることがなぜ禁止されるのか 、と、愚行権/成人同士の合意による食人、だろう。
 改めて問われると「確かに変だな」と思う事もあるが、この二つに関しては常々疑問に思っていた事なので取り上げてみた。

 当書内では基本的に明確な答えは出されないが、法律という新たな視点が入るため再考するには非常によいものだと思う。

■ 自由意思で臓器を売ることがなぜ禁止されるのか

 臓器は人間を構成するうえでなくてはならないものだ。
それを、「自由意思」で売ることはなぜいけないのか。法律としては「臓器は商品では無く、人体を商品として扱ってしまうと社会秩序を乱す」恐れがあるため禁止されている。
当著者はそれに対しても疑問を投げかける。強制されているのではなく、金銭の対価を払っての臓器提供は可能であるべきなのではないか、と。
 弱者の搾取に繋がる売春が禁止されるのと同様の理由で禁止されている臓器の販売。
 たとえそれが、やむにやまれぬ臓器の販売であっても、全く提供しないよりも「法」が大切にする「社会」全体への貢献度としては高いのに、肉体・臓器という資本の分配を善意でしか許さないのは、全くもって人間の善意につけ込みすぎている。

 かつて日本でも売血行為が容認されていたが、質の悪い血によって感染症を引き起こしてから「善意」による献血に切り替わった。
 勿論現状は善意の献血だけでは足りず、皮肉なことに売血制度のある国から血液を輸入して補っているというのだから、肩をすくめたくなる事実だ。

 わたしは好んで献血を行うが、そのように行動する人間が少ないことはよく知っている。
 人の善意に頼るから足りてない状況にはなんとも辟易するが、わたしだって訳二万で買い取られるはずの400mlの血を時折惜しく思うときはある。
 血でさえも惜しいというのに、代替えの困難な臓器をタダで貰おうなどとは、烏滸がましいだろう。
 世界に目を向ければ、貧困層に声をかけて臓器を買い取る(腎臓村など)ブローカーがいるとも聞く。これは弱者の搾取に当たるのではないかと云われたら、そうだなと頷いてしまうが、正直なところ、対価が無いよりマシだろうと思う。
 貧しければ手段として売れるものが、食っていける程度の人間は、同じものを持っていても売ってはいけないなどとは、おかしな話だ。
 感情の根源が善意であっても、対価がもらえるなら欲しい。わたしはそれほど出来た人間ではないのだ。
 自由意思を尊重している社会が、対価を用意しないのは怠惰だ。善意に対価は要らないと思い込むのも、道徳に付け込んだ一つの搾取に思える。
 趣味の献血の際、常々考えていた「買えるなら買ってくれんか」という考えを、法哲学の観点からより深く掘り下げられた、有意義な章であった。

 しかしこの点を再考したところで、わたしにとって献血はあくまでも「趣味」なので、対価が無いのはおかしいから今後献血はしない、と思うものでもない。
 それに献血をする理由は、善行をしていい気になりたいためであるので、買い取りだろうが無償のボランティアであろうが、わたしにとっては「ヒトのために行動した」という事実があればいいのだ。


愚行権/成人同士の合意による食人

 愚行権。愚行を行う権利は誰にでもある。そして(愚行を行った)後に、その行いを反省して自らを成長させるための権利としてとらえられる。
 説明不要なシンプルな単語なのでこのまま進める。
 基本的には愚行を行う前に止めてほしいが、もしこの社会が不老不死を得て狂ってしまい「地球が満員になる前に子供を殺せ」と言い出したら、私は愚かだと思われてもそれには抗う。弱者を嬲るような社会はくそくらえだ。
 そう考えると、愚行を愚行たらしめるのは社会だが、その愚行が自分のなかで意味のある行動、または「正義」であれば確かに自分の意思で行動(愚行)するか否かは決めたい。

 そんな愚行の中で、当書の中でたとえに出されているのはカニバリズムだ。
 食人行為にについては一家言あると自負しているが、そんな事はまずは置いておく。
自分の意志で自分を傷つける行為はどこまで許されるのか。
 自傷行為の最たるものは、死だろう。死ぬと解っていて延命を拒否したりすることは、生きる事を主としている「生物」においては愚行の一つだ。
 国内の判例としては、エホバ信者の輸血拒否裁判にて「成人であれば、命に係わるとしても輸血(医療行為)を拒否してよい」という判決が出ている。
 ならはよ安楽死を通してくれと思うが、直接な死ではなく、手術に付随する輸血であったからこのような判決に至ったのだと推察された。

 これは医療行為だ。では食人は?

 実のところ、食人そのものを罰する法律は無い。立法時にまずしないだろうと思われている事は、案外法律に明文化されていないのだ。
 最近知ったのだが、近親相姦もまた法律で罰する事はできないのだ。法廷まで行くのは非合意とかその辺りで、「結婚」は出来ないが肉体関係についてはその限りではないとは、案外抜けているものだと思う。

 話を戻して食人行為。
 つまりは、双方合意の上、少し切り取って食べるくらいならば何の罪にも問われない。問題はうっかり相手が死んでしまった場合。または全部食べるために殺してしまった場合である。
 ただ食べたかったとしても、嘱託殺人として裁かれる。人間にしか存在しない人権のぶつかり合いである。
 そもそも嘱託殺人も、双方の合意があれば法や権力が介入すべきではないのかもしれない。まぁそこは様々あったうえでできた法律なのだろう。
 それに、本当に嘱託されたかなど、片方が死んでしまっていたらわかりようもない事だ。
 ただ嘱託が「事実」である場合、法は事実に重きを置く。つまり、死にたかったのではなく、食べられたかった。
 食べられたかったがゆえに、死んでしまった。
 死んでしまったら愚行権の「改めて反省する」事は出来ない。
 医療による愚行は認められるが、そうではない愚行は認められないのは自由意志が存在しないのと何も変わらない。
 一つのルールに沿って、愚行を選ばされているようにも思える。おろかな事を一つとっても、わたしたちは自由が無いのだろうか。
 常識を再考する、というテーマの当書。「常識」に真っ向から意見をぶつけ、あなたは思考停止していないか? と問い続けられる。

 その中でも、私はいくつか異見を唱えたい箇所はあった。
 例えば、わたしはアナーキズム(無政府主義)に反対だ。なぜなら面倒だから。
 その面倒さを加味しても、政府は要らないと考えるのが無政府主義なのだが、当然ながら自由には責任が伴う。
 思想やらは抜きにして、戦争をしている国は主に「国家」が欲しくて戦っているフシがある。今更成立している制度を壊すのは、面倒だし混乱を招く。
 わたしはよりよい世界のために戦う気力はない。後世の元気な人間が戦ってくれ。

 遵法について考える際、それはやはり、国家ありきだ。そして遵法しないと云う事は、国家の不要論に繋がる(第四章「遵法(じゅんぽう)義務」と第九章「アナルコ・キャピタリズムという思想」に詳しくある)。
 故に、どんなに国家が「合法の強盗」であっても、現状維持でいいだろうと思う。
 思考停止と云うより、思考の結果だ。何も現状に異を唱える事が、全て正しいわけではない。
 しかし、そんな異見も当著者にとっては「それだよそれ!」というものだろう。
 思考するとは、云われたことに「なるほど、政府は要らない!」と納得するのではなく、いやちょっと待ってよ、それは良い事ばかりじゃないぞ、と思うところが重要なのだ。
 常識を疑い、ルールというものに盲目的に従うのではなく、自分の意思をもって考える事を当書では何度も念押ししている。

 この話は? このような法律があるが、こうなった場合は? と身近な例を出し、このルールに従うとこうなるが、本当にいいのか? という問いかけで終わる事が多い。

 わたしはもともと、常識を疑うタイプであるために、既にルールが固定された会社などでは「何故?」と聞いてしまったりする。
否、もっと言えば学生のころからそうであった。
 例えば、冬場にスカートは寒い。故にタイツを着用してはいけないという校則に疑問を持ち、何故かを聞く。ということもしていた。
 別に改革したいなど、大きな思想も無く、単純に莫迦莫迦しい事だと思って疑問に思ったのだ。
 ちなみにタイツを穿いてはいけない理由は「無かった」。
 無いが、許可されなかった。校則で決められたことだから、ただ駄目だという事だった。
 わたしは笑った。
 改革する気など毛頭なかったので、ものの数年で卒業する場がどれだけ愚かであろうとどうでもいい。駄目なら駄目なのだろう。
 自分が恩恵を受けられないならば、どうでもいいのだ。
 なので「一生思考停止してろ」と壮年の学年主任である体育教師に吐き捨てて嗤った。大変に厭なガキである。

 そんなガキが社会に出たら「崇高な会社理念」など説かれても、それ労基には違反してますよね? となって明確な根拠がなければさっさと退職する流れができあがる。
 環境を改革するのは面倒だが、その環境から別の環境へ移動するのは簡単だ。
 勿論、新しい環境と云うものは馴染むまで時間はかかるが、不透明な「常識」を押し付けられて首を傾げながら生きるよりはマシだ。

 わたしはもとよりルールや常識に懐疑的だ。だが正直なところ、いい事ではないと思う。常にルールに疑問を持つのは生きずらさに繋がるためだ。
 わたしは「家畜の安寧」が羨ましい。
 何も考えず、ぼうっと一生を終える事は非常に暗愚な事だと思われるだろうが、その実、穏やかだ。
 最近は「そういう事もあるのか」と物事を熟考しすぎない「思考のレッスン」を心がけているところだったのだが、そんな折に「熟考のススメ」を手に取ってしまった。
 というところで、当著者のまとめを少し引用する。

安寧と引き換えに、責任を負う苦しみを伴う自由を犠牲にすることは絶対あってはならないと私は思う。人間には違和感を抱き、疑い、反抗する能力がある。それを思い起こさせてくれるのが法哲学なのである。

 前半に異論はあるが、後半は法哲学を指す言葉として、とてもいいものだ思う。
 暗愚でいるか常識を疑うか、当書を読んで決めるのもまた一つの手だろう。

 人間には、自由を選ぶ「権利」があるのだから。


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