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或るAの話

昨今、セクシャルマイノリティにスポットがあてられる事が増えてきた。
レインボー(プライド)パレードも開催される度にその規模を大きくしている。

セクシャルマイノリティといえば「LGBTQ」をよく耳にする事が多い。

わたしは、この中にはいない。
ならば異性愛者かと言われると、そうだともいえるしそうでないともいえる。
バイ(B)という事か、と問われると、また複雑な気分になる。

勿体振るつもりも無いので言ってしまうと、わたしはこの枠の中にも入れない「A」なのだ。

アセクシャル。


人に恋をすることも、性的な欲求を抱くことも無い。
カテゴリーとして分けるならば、そう云う人間である。
それは厭世的な、ニヒリズムからくるものではない。
勿論他人を好ましく思う事はあるが、どうにも愛や恋や────肉欲に繋がることはないのだ。

可愛い子猫を想像してもらいたい。いや、子犬でもいい。兎に角「かわいい」と好意的に思うものだ。
ふわふわでくりくりの目、愛らしい動きに癒される。
そんな「子猫」に、恋をするだろうか。肉欲を抱くだろうか。

特殊な性癖を持たれる方なら、そういうこともあるのだろうが、多数派(マジョリティ)的に考えて、それらの存在は恋愛対象ではないし、ましてや性的欲求の対象ではない。

性癖の話は人それぞれあろうが、対人間の枠で話させて欲しい。


話を戻して、何故そんな話をするかと云うと、わたしには人間に対する好意的な感情がそれに近いからである。

犬や猫を可愛がる、あの好ましい感情は浮かぶが、そこまでだ。
可愛い人も、格好いい人もいる。特徴的で愛嬌のある子もいる。
だが、それは恋愛感情でも、性欲の対象でもない。

全てのアセクシャルがそうだとは言わないが、わたしは「こう」なのだ。
となると、相手の性別など、些末な問題となる。
皆同様に「人間」なのだ。


無理に云うならばバイ(B)なのかもしれないが、それはあくまでも性嗜好であって、その性嗜好が無いのだからやはりアセクシャル(A)はAでしかないのだ。


良い人間がいて、悪い人間がいる。そしてそんな人間の中に、特別贔屓したくなるような人間がいる。
ただ、恋愛感情も性欲も無いだけ。それだけなのだ。

恋愛至上主義の世の中は変わりつつあり、自由恋愛を経て「ひとりで生きる」事への肩身の狭さも昔よりはずっとマシになってきた。
田舎の方ではまだ、なんというか。難しいところである。わたし自身、それも理由で都会で生きている。

他に大きなアセクシャルの悩みは、恋愛で嘘をつけても、ありもしない肉欲をぶつけあわなければいけない事だろう。
なんとかして抑え込もうとしても、その不快感は拭えるものでもない。相手にも申し訳ない。


わたしは見事に不感症となった。
困る事もないので、今では何も気にしてはいないが。

まだ子供であったころ、思春期を迎えて周りの皆が恋をするのを横目に、「恋」の感情も判らないまま生きていた。
漸く様子が可笑しいと気づいたときには、誰が好きだのと適当な嘘をつくようになった。
それはアイドルであったり、俳優であったり。兎に角手の届かない相手にしておいた。

きっと一歩踏み出せば何か変わると、恋愛の真似事をして、愛による疑似行為を楽しむフリをした。

吐き気がした。

疲労感と不快感と、絶望感だけが残った。
後悔は無かった。初めから実験のつもりだったのだ。

そしてその実験の結果「駄目」だという事が分かった。
それで十分だった。
アセクシャルとして、人を愛さずに生きていく事が決まっただけだ。

中途半端に悩み続けて苦しい思いをするのも御免だったので、早いうちに決断ができたのは僥倖だと思っている。
どうしても駄目だとわかれば、気が楽だ。
独りで生きて、独りで死ぬ準備と覚悟をすればいい。


わたしは自分を他人を愛せない「不完全」な人間だとは思わない。
寧ろ、恋愛感情に左右されずに、同姓も異性も友として在る事ができる。

友情とは、愛や恋より、無責任で屈託のないものだ。
だからこそ、わたしには丁度いい。

わたしは友情を大切にしている。
人は「愛」が無くても生きていけるのだ。そこに完全も不完全もない。

友人が愛を知り、愛に生きる姿は素晴らしいものだとおもう。
それがわたしには「ない」事を、うらやむことも悲しむこともない。


わたしは、わたしだ。

大切なものの形が違うだけで、わたしにはわたしの大切な感情があるのだ。


アセクシャルは────わたしは他人を愛する事はできないが、自分との折り合いがつけられたならば、きっと「まあ悪くない人生だったよ」と振り返る事ができるだろう。

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