幸福と不幸に関する研究1『公文式編』

本記事の目的

本記事の目的は『フラットな視点を保ち続けるための実例を示すこと』です。筆者は執筆にあたり、リアルタイムで過去の記憶を振り返り、幸福と不幸の観点から出来事を再解釈し、綴っていきます。

公文式

1992年~1993年頃のことである。

私は幼稚園のスモックを着て、古い住宅街の一角にある平屋建ての借家の中にいた。そこが当時の公文式の教室であったからだ。

自ら「行きたい」と言った記憶はない。母から「行きなさい」と強制された覚えもない。

ただなんとなく「行ってみる?」と聞かれて断りきれずに「うん」と答えた結果そこにいただけのように思う。

それは幸福も不幸も分からない年頃だった。

とはいえ、初めはそれなりに楽しかった。平屋は横から見て、中央に玄関があり、玄関へ入ると30センチほどの上がり框。

室内の床や壁は全て、焦げ茶に近い板張りで、今のように白いクロスが張ってあるなんて箇所は無かった。

不動産屋になった今振り返ると、ランニングコストを抑えるために、ボロ家を5万円ほどで借りたのだろうと推測できる。

玄関で靴を脱いで室内へ上がると、左手にドアがある。ドアノブを捻って回し、手前へ開けて室内へ入ると、四畳半にみどり色の絨毯が敷いてあった。

ここで待っていると、教室長の先生がやってきて、いつも私の前に行儀よく正座した。先生は60代の女性で、山本先生(仮名)と言った。顔こそ覚えていないが、優しい先生だったということだけは記憶に刻まれている。

そこで宿題の答え合わせが始まる。

「はい」

山本先生はA5サイズくらいの厚手のカードを数枚、横向きにして紙芝居のように胸の前に掲げた。

先生と向かい合うように、正座している私に見えているのは、山々に咲き乱れるピンクの桜のイラスト。

右端には縦書きで『やまざくら』と書いてある。

それを見た私が答える。

「やまざくら やまざくらまた やまざくら」

古木臭い四畳半の中を、引っ込み思案の少年の声で、阿波野青畝(あわのせいほ)の五・七・五が控えめに跳ねていく。

「なつくさや つわものどもが ゆめのあと」

「ふるいけや かわずとびこむ みずのおと」

芭蕉が私の海馬に初めてやってきたのも、この頃であった。

韻文のリズムは幼い少年にとって、音楽のようでもあり、人見知りな私に五・七・五はいつでも親しげだった。

そうしていつも古臭い四畳半の空気の上を少しだけ跳ねるようにして歩いて見せるのだった。

幸福にも、私は俳句のリズムに親しみを覚えた。

しかし、小学生も中学年になるにつれて、私にとっての公文式は、“苦悶式”へと姿を変えることになる。

不幸の始まりである。

当時小学4年生だった私に、週2回、1日8枚のプリント学習はいささか過酷だったのだろう。

国語が1日3枚。算数が1日5枚。合計8枚。

1日サボると、16枚に増える仕組みだ。2日サボると24枚。何かの事情で週1回になったときなどは、48枚のプリントを解いてから行かなければならない。

もちろんそれはサボった場合の話だ。当然、私にはそんな理想的な習慣はつかなかった。明確な理由もわからないまま通い続けていたからだ。

当時の心情を正確に表すなら、「どうしてこんなにプリントをやならければならないのか」という気持ちだったと思う。

だから小学校へ行く日の朝、私は決まって部屋に寝転がって大急ぎでプリントを解いた。畳に下敷きをして、チャラ字の答案が大半だった。

週2回の“苦悶式”の日の夕方、チャイムとともに下校する私はいつもの北門ではなく、南側の正門から出て下校した。

その頃、かつて平屋だった教室は、正門を左へ出て、子どもの足で5分程歩いたところにある、2階建てのテナントビルの2階部分に移っていた。

テナントビルは道に平行に建っていて、向かって中央が階段になっている。ガラス扉の奥には、右側に横幅の広い階段が見えていた。

そのガラス扉の左側には、1階にテニスショップが入っていた。ショップの入り口と、ビルの入り口のちょうど中間あたりに、ベンチが一脚、置いてあった。朝のうちに済ませられなかったプリントの余りは、そこでやった。

ある時などは、差し迫る時間と終わらない計算問題に、涙を流しながら鉛筆を走らせたこともある。小学4年生ながら一緒に帰っていたガールフレンドが隣に座って「頑張って」などと励ましてくれたこともあった。

私にとっての不幸は、プリントが48枚溜まったことではない。

その当時、どのようにすればその状況を脱することが出来るのか、誰も教えてくれなかったことである。そして今。

幸福にも、31歳になった今、そのことを思い出した。

私は、泣きながら解いた計算問題のプリントのお陰で、計算がトラウマになった。そして小学4年生の終わり、”苦悶”から抜け出した私は次に進学塾へ通うことになる。

不幸にも、私は与えられた選択肢をまた、受け入れてしまった。反論する術を知らなかったがために。

「お兄ちゃんのように、いい学校に行きなさい」

それがさも、全人類にとって素晴らしいことであるかのように母は説いた。そのことが幸福にも、今でも私の記憶の大黒柱に「親の価値観の押し付けは愚かである」と書いた弓矢を突き刺している。

31歳、父となり3歳の娘と2歳の息子をもった。私は一番なりたくなかったサラリーマンになった(後に言及しようと思う)

振り返ると、私はいつでも不幸であった。

そして今、振り返る私はそれを幸福と転じることが出来る。

Flat Jurnal 1『泣きながら通った公文式』 現在は完

あとがき

苦悶の中より、忘れられない記憶がある。

「秋の田の かりほの庵(いほ)の 苫をあらみ
 わが衣手は 露にぬれつゝ」

小倉百人一首の第一首目。天智天皇もまた、私の海馬の中核を担うメンバーである。大人になってからも幾度も、上記の句を母と二人口を揃えて唱えることがあった。

つまり、苦悶の中で記憶に貼りついた歌の数々は、母と私の共通言語でもあるのだ。

私が母への感謝を述べる時に再々公文式の話を出すのも、そのせいかもしれない。

筆者より
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