記憶という嘘

「リミナル」っていう意識の低いコミュニティをやっていまして(その紹介記事が過去にあるはず),そこから「嘘」的なテーマで文フリにむけて雑誌を作る予定があり,それに向けた私の記事の試作を思索していきます.ほなよろしゅう

「記憶は理性の礎だ」.アランムーア原作「キリング・ジョーク」のジョーカーのセリフだ.作品の文脈からこのセリフを切り離し,心理学に接続するならばこのセリフは「狂気が理性の礎だ」という意味にもなるかもしれない.

 哲学から独立して科学を志し続けている心理学の始まりはどこかといえば様々な見解があるだろうが,その一角としてエビングハウスの記憶研究があると言っても問題ないだろう.「エビングハウス」の忘却曲線として知られる研究だ.ランダムな言葉の無意味なリストを時間内にできるだけ覚えてもらい,それを後からどれだけ思い出せるかという実験による.

 今でも教科書にのり心理学科の実習にも欠かせない研究だが,そもそも記憶という現象を前提から誤解したものだという見方が今ではなされていもいる.我々はそのようにして物事を覚えているわけでも,思い出すわけでもないからだ.そのようにというのは,機会のようにインプットをして,保存されたものを取り出している,それが記憶なのだということだ.

 機会のようなインプットではないことを示したのはイギリス人心理学者のバートレット卿.彼はインディアンに伝わる物語をイギリス人に読ませて,それを後から説明してもらうという実験を行った.インディアンに伝わる物語とはどんなものかというと私も思い出せないのだが,ゴールデンカムイにたびたび出てくるアイヌの神話のようなといえばいいのか,シュールな印象を受けたことだけを思い出すような物語だ.私がもう思い出せていないことからわかるだろうが,イギリス人も思い出せなかったのだ.正確にいえば,イギリスに伝わる物語のように変換されて,間違った思い出し方をされたのだ.

 これはどういうことかといえば,人間は自分にとって意味があるようにしか記憶できないということだ.自分の理解の枠組み,つまりイギリス人はイギリスの文化的な枠組みから,意味を取り出して記憶してしまったのだ.エビングハウスの間違いの一つが無意味なリストのインプットを記憶としたなのだ.生物がそもそも己の生存やらに意味もないことを覚える能力を進化させるわけがないのだから.

 抽象的なはなで納得いかないかもいしれない.が例えば次の二つの文字列でどれが覚え易いかを考えてみてほしい.1「9613148528」と2「1223334444」だ.もちろん2の方だろう.幼児でもなく数の法則というものを知っていれば,2は意味づけられるからだ.

 意味がなければインプットできないというだけではない.イギリス人の例でいえば自分たちの文化的枠組みに則って間違って思い出してもいる.同様の実験としてビーチの写真を見せてから,そこにあったものを思い出してくださいというと,写真にはなかったビーチにはありそうなもの,例えばビーチパラソルが思い出されるといったことを示すものもある.

 エビングハス的記憶観の間違いはインプットだけではないのだ.アウトプット,思い出すということについてもなのだ.例えば自動車がぶつかる映像をみてもらい,数日後にそれを思い出してもらう時に「”激突”したときに食車はどうなりましたか?「”接触”したときに車はどうなりましたか?」と表現を変えることで報告される車の損傷具合が変わるということが知られている.「激突」という強い言葉を使われた人々は実際よりもより激しい損傷を方向する傾向が見られたのだ.つまり,我々は保管された記憶を引き出しているのではく,その都度新しく製作しているのだ.

 困ったことにこのような記憶の製作にはアイデンティティが動力として加わる.ナイサーのフラッシュバルブメモリーとして知られる現象だ.災害や重大な社会的事件,例えば震災だとかが起きた当時のことは,一週間前の通勤風景よりも鮮明に思い出されるであろう.しかし,実はそのような鮮明な記憶の多くが事実ではないことを示したのがナイサーだ.例えばナイサーは真珠湾攻撃当日を「野球中継中に攻撃を知った」というふうに鮮明に語れる人の記録を収集,精査してその当時その人の生活環境には野球中継を聴ける機会がなかったことなどを突き止めていった.
 
 ではなぜそんなことが起きるのかといえば,震災や戦争などの社会的な重大事件は一周年などといって何度も思い出す機会が社会的に設けられ,されにそれは一人でになされるのではなく,語られ合うからなのだ.社会的な語り合い,そこには社会の一員としての「自分らしさ」「自分の立場」などの要素が迷いこむ.そしてその要素が迷い込んだまま毎年のように思い出すことで鮮明な間違った記憶が作られる.ナイサーが調べた人は,皆に野球好きとして知られていたのかもしれない.

 確かナイサーがこんなことを調べようと思った背景にウォーターゲート事件の証言があったとか.事件関係者で鮮明な供述をしている男がいたのらしいが,後からまさに事件に関わる音声記録が出てきて確かめてみると,事件の全容はかなり異なっていたのだ.どう異なっていたのかといえば,その男は鮮明に自分が成し遂げた,うまいこと関与してという話を語っていたが,実はあまり関係なかったらしく,そしてその男性はナルシストとして周囲に知られてもいたようだ.

 まぁ,とにかくかのように,我々はエビングハスのようには記憶しがたく思い出し辛い.自分にとって意味のあるものを覚え,意味のあるように思い出してしまう.言い換えると物語として覚え,物語として語るということだ.少し前に理性についての本を紹介した記事でなぜ我々が物語る生き物なのかに触れた気がする.端的にいえば他の動物と違って複雑な集団行動を即時的にとることで独自の生存を可能してきたからだ,つまりは自分を正当化して,相手を納得させることで,他の集団などと複雑な集団プレーを作り出して生存してきたのだ.物語るように進化したのだ.

 Tedトークにも出演している心理学者エリザベスは,「精神病の原因は親の性的な虐待にある」という俗説が広まったことで,親からの性的虐待を訴える人が増加したこと示した.実際には性的な虐待などなかったのに,それが本当にあったと思い出す人を調査して,そんなことがなかったことを示したわけだから,彼女はその後,当事者たちから訴えられるまでに至る.
 
 これもつまり,今の苦しむ自分がなぜそうなのかを自分や他人を納得させるために,合理化するために「性的な虐待があった」という物語が用いられ記憶になってしまったということだ.人間の時間はかのように今から過去に向かっているのかもしれない.今の自分の合理的な説明として,この時我々は過去の物語を生み出しているのではないか.

 こんなあやふやな狂気のようなメカニズムに理性が支えられていると思っていていいのだろうかという話だ.ちなみに「キリング・ジョーク」の原作者アラン・ムーアは別の作品「フロム・ヘル」では「狂気が理性の礎だ」というセリフを出していた気がする.終わり


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