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風の時代・引き寄せの法則の真意体験を通して体感している事を書いて行く。

【風の時代とは?】
19世紀から200年以上続いた「土の時代」が終わりを告げ、2020年12月に水瓶座で木星と土星が大接近したことによってスタートした「風の時代」。目に見える物質的な豊かさに価値があった土の時代に対し、目に見えないものに価値が見出されるのが風の時代です。

だ、そうな。
一見見ると怪しい&眉唾な話である。
信じるか信じないかはあなた次第って感じで、自身が意識を向けるかどうかの問題なのでどちらでも構わないのだが、昨今の情勢や世界的な状況を見れば一目瞭然だが、歴史を辿れば一つに繋がる。
歴史とは繰り返されて来たものであり、既に我々大人が過ごした時代は3年前に終了しているのだ。

そして、既に新たな時代はスタートしている。
新たなスタンダードとなるものが生まれている。
さて、そんな中でも古い体質の人は多く居て、いつまでも経っても抜け出す事ができない人が多く居るのだ。
多様性が求められる世の中、そして承認と共有が一般的になり、人間の隠れていた本質が更に可視化されて居ると思ってならないのだ。

2020年12月22日から始まった「風の時代」は、今までの常識が終わりを遂げた事になる。
そして、常識とは時代が変われば非常識ともなるのだ。
それが顕在化するのが2024年で、2023年現在は準備の年である。
デトックスと言われ、蓄積されていた膿のようなものが顕在化されてしまうのだ。
だからこそ、スクラップ&ビルドの時期は、サバイブして生きなければ淘汰されてしまう。
変化の波に流されるのか、波に乗るのか、波を見送るのか幾らでも選択肢はある。

だが、そんな時、人の本質部分がメッキが剥がれてしっかりと見えてしまうのだ。

今まで通り生きてて、今思い通りに物事が進んで居ない人や、都合の悪い事ばかりが起きていたりしていれば、逆に今のうちに変化に対応をする為にも自分と向き合って生きて行く方が良い。

ここ数年、偽スピや陰謀論者の方々には、自分が今こうして成長をするにあたって大変お世話になった。
言うまでも無いが、これは皮肉であって、大変迷惑被ったと言う意味である。

デリカシーの無さ
モラルの欠如
エゴむき出しの無秩序
正義を盾にした同調圧力

他にも様々あったが、もう、心底うんざりである。
願いが叶うのであれば、もう金輪際二度と関わり合いたくない。
ただ、こうして自分とはそりが合わないと思える人達との関わりがある方が、自分の成長に結果として繋がる事も事実なのである。
だから一概に全否定をしている訳では無い。
その中でも俯瞰して生温かい目で見守ってくれる人も居るし、応援してくれる人も多く居る。
それは素直に嬉しい事で、感謝の気持ちしかない。

その上で、他人がどんな考え方や価値観や信仰があっても自分は何も気にしないし、どうでも良いし興味が無いのだ。
しかし、そうした『たかが一人の人間のマインド』を押し付けられたらどんな気分になるだろう。
自分には自分のマインドとアティチュードがある。
それで良いでは無いか。
そこに良いも悪いも無いし、違う意見の人間が地球に共生しているのは当然だと思うのだ。
にも関わらず、こっちが求めても無いのに、自分の知識をひけらかすと言うのは最もみっともないし、ちっぽけだと思うのだ。

安全な場所から石投げて来る人間があまりにも多くて本当にうんざりだった。
イイねもリツイートもへったくれも、増えても何も嬉しく無いのだなと肌身で感じた。
非常に資本主義社会に毒され尽くしてしまった人達の悪い部分をふんだんに喰らい続けた。
音楽業界で長い事身を置き、日常とはかけ離れた場所で暮らし続けて居た自分は、世間一般の方の気持ちに立つ事はできないのだ。
常軌を逸した狂気な世界で生き続けたからだ。
スラム街に住んでた訳じゃないが、常識とか当たり前のような誰かが作った決まり事や括りが嫌いだったからこそ、就職もせずに安定を捨てて生きて来た。
そもそもの考え方が違うし、理解しえないものなのだ。

だからこそ、型枠にはめ込まないで欲しいのだ。
勿論、此方からそう言った型枠にはめ込むような行為はしない。
普通に会社でお仕事をして真っ当に暮らして来られた人のマインドは分からないのである。

自分は音楽を通して培った考え方や仲間が沢山いる。
同じ気持ちを持った純粋に音楽と言うコンテンツに吸い寄せられて、様々なジャンルの人と巡り合ったのだ。

音楽とは自由な世界であって良い。
では、なぜ合わさる事が無かったのかを分析した結果を説明したい。

人生とは、十人十色あって、様々な考え方の人が居るし一人として同じ人は居ない。
親と子でも歩く人生はそれぞれにある。
だからこそ、当てはまらないのが当然なのだ。
その中でもシンパシーの合う人や、全く相容れない人は勿論存在するのだ。

【自由とはなんぞや】

これが今回のメイントピックである。
ここ数年、本当の自由なんてものは無いのだろうなと感じる事が多々あるのだ。
むしろ、決まり事や制限から守られた自由の方が、かえって自由を謳歌できている気がする。
無秩序な自由は果たして楽しいのだろうかと言えば、実は誰も得はしていない。
まるでヒッピームーブメントの時代のウッドストックのような状態ではないだろうか。
自然回帰する事は考えとして良いとして、スピリットな生き方とは資本主義社会とは本当に相容れないのである。
だからこそ、バッティングするととんでもない事になるのだ。

『自分らしさのアイデンティティの違い』

ここに大きな溝が生まれてしまうのだ。
自分らしく自分の軸で生きて来た者と、わがままに他人の軸で生きて来た者では、そもそもの住む世界が違い過ぎるのだ。
別にどちらが良い悪いの話はしてないが、元々のマインドがあまりにも違うのだ。

昨今『自分軸』と、言う言葉が風邪の時代とセットかのように言われて来た。
自分の軸で生きる時代。
自分の軸で生きる時代が風邪の時代と、言われているが、この言葉の本質を完全に勘違いして暴徒と化した者を何人も見て来たのだ。

他人の事は考えずに、他人に迷惑を掛けて、わがままし放題の無法地帯。
ジハードの名の下に自爆テロをする人達と同じだ。
その無責任さたるや、あまりにも傷ついている人が多いのだ。
事を起こす人達に罪の意識は無いだろうし、罪とも思っていない。
それは、自分の事しか考えていないからだ。
そして、それを自由だと履き違えているし、正義だと信じているからである。

自分の事しか考えて無い人は大概、他人に盛大に迷惑を掛ける。
気遣いができる人の迷惑とは大きく違う。

更に行き過ぎれば『キチガイ』と、なる。
気が違う(気違い)と書いてキチガイである。
だからこそ、相容れる訳が無いし、同じ空間に放り込んではならないのだ。

以前も書いたが、そのうちこの世界は小さなコミュニティが数多くできてくる社会になると思うのだ。
日本の村社会のような、自分のマインドと合う人同士だけで過ごす世界。
目に見えるものではなく、目に見えない精神的なつながりが重視されるのが風の時代と言われている。
肩書きにとらわれるつながりではなく、本当の意味で心が通じ合う人間関係が構築されていくだろう。

それを二分化とか、分断とか淘汰とか、他人に対して言ってはならない。
『自分の方がマシ』なんて世界は存在しないのだ。
コミュニティ内で楽しむものであって、外の世界がどうかは関係無いし、井の中の蛙状態なだけである。
この認め合いが無いからこそ世の中から戦争やイジメが無くならないのだ。
自分が優れていて、他人が劣っているとか、その逆もそもそも存在しないのだ。
選民思想も甚だしい。

こうした考えを持ち続けて居る限りは別の正義を見つけては得意げになっているだけの人になってしまうのだ。
モラルの無い人間からの同調圧力は本当に酷く、どんな考えだろうともそれは関係無い。
そもそもの話で人に対して失礼なのだ。
自分の事を棚に上げて他人を見下す行為がどれだけ恥ずかしくて醜い事なのかをもっと知るべきである。
そして、自分を卑下する事無く、自分を信じているからこそ、自分がいつでも一番下に居る気持ちで生きる方が心が軽くいられると思うのだ。

自分軸と呼ばれる『自分らしさ』とは、他人に対して一切左右されない心強さの部分だと思う。
自分らしく居るとは、周りに流されない事でもある。

ただ、人は環境に左右されるものだ。
1つの環境の中で人は変わるものだし、その中で自分らしさだけ出して居てはそれこそ誰も助けてくれないかもしれない。

他人にどう思われたいかよりも、自分がどうありたいかを考え続ける方が大切だ。

自分らしさを出すのは恐らく簡単な人と、非常に困難な人が居るだろうし、それは今までどう生きてきたかにも関係するかもしれない。
いつでも培って来たステータスを捨てて、ゼロから作り上げて行く勇気があるかどうかが課題だろう。
生き方とは、所詮は覚悟である。
覚悟を決めて、勇気ある一歩を踏み出せば後は帆を張った船の如く、風が気ままに運んでくれる。
だが、いざ出航までいかないのがほとんどなのである。

物事の言い訳を探して、やらない理由を付ける人も居れば、原因を追究する為に行動をする人と様々存在するものだ。

歳を重ねれば重ねる程に、人は頭の中が固く頑固になって行くのだ。
そして、更に言えば時代の変化と共に、価値観が変わり、時代に対して対応ができない事も多いだろう。

『理想は、早寝早起きで7時間以上寝て、1日7000歩以上歩く。夜21時前に食事を済ませ、朝は脳を起こすためにきちんと食べる。「睡眠」「運動」「食事」この3つの生活習慣をまずは整えましょう。それから、「新しいチャレンジをする」「年齢層の違う人の話を聞いてギャップを受け入れる」「人と積極的に関わって脳を動かす」。この3つの行動も大切になります。』

ですって。

大人になると至極当たり前の事すらもしなくなるのだろうなと、実感している。
とくに大切だと感じるのは「人と積極的に関わって脳を動かす」だと自分では思う。
様々な意見を聞き入れ、多角的に取り入れて精査する事が大事である。

だが、その中でも頑固な人は必ず居るもので、特に『べき論』を使って来る人が大の苦手である。
こっちに言われても知ったこっちゃ無い。

『頑固になるのは必死に自分を守っているから』

ですって。

しょうがないと言えばしょうがないのだろうね。
年取れば中々抗えない事も多いだろう。
その中でも自分はどうだろうと考えるが、比較的若い頃の方が頑固一徹なところが多かったからソフトになった方だとは思う。
テコでも動かないところあったが、今じゃすぐに譲ったり認めたり、基本的に他の意見を取り入れる方が自分の成長に繋がるかなと感じるのだ。

自分も若い頃は偉そうに『●●するべき』『●●あるべき』と、自分がマウントを取りたいが故に講釈垂れる『べき論』は他人に対して使ってしまっていた部分がある。
今は自分を律する為に自分に対して使う事はあるが、他人にはあまり使わないように心がけている。
他の正解があっても良いと思うし、どうでも良いからだ。

正直、他人がどうなろうと興味が無いのが一番にあるのだが、言われて嫌な事は言わないに越した事は無い。
発信したければ、Blogでも動画配信でもSNSでもなんでも良いから自分にフィットしたツールを使って自己責任でやれば良い。

ただ、醤油ぺろぺろ事件やおでんツンツン事件に代表とされる、メディアによって晒されてしまった通称バカッターと呼ばれる迷惑系も世の中には多くいる。
これはシンプルに『やらないべき』だと思う。
晒した方も、それを叩く側もだが、様々な己の正義がぶつかり合っているなと私見。
道徳心とは、便利な時代こそ失われてしまいがちだが、他者への配慮はある程度ある方が良いと思う。

おでんツンツン男のライフスタイルは憧れ中の憧れである◎
何事もある一つの部分だけを切り抜いて、諸悪の根源みたいに他人を責め立てるのはいかがなものかとは思う。
地獄の真ん中らへんにいるんだろうなと、思ってしまう。
一生終わらない生き地獄である。
日頃退屈で暇なのか、ずっと怒り続けているのか、なんなのだろう。

本当に他人に時間が割ける位だし暇で仕方が無いとは思う。
とにかくしょうもないゴシップにはうんざりで、1ミリも情報が流れて来ないように意図的に意識をしている。

自分の見える世界がこの世の全てだが、目に見えない要素が多く複雑に絡んで来るからこそ、今瞬間の現実が可視化されているとは思う。
しかし、目に見える可視化された部分だけでも、無駄に自分で複雑にしすぎている気がしてしょうがないのだ。
シンプルなところに答えが落ちているはずなのに、複雑にしすぎて遠回りをしているのが現状。

断捨離は理にかなっていると、そんな時思う。

自由と言う概念は本当に人それぞれにあるだろうし、色々な価値観が存在している事だろう。
ただ、周りを見渡せば、他人の事は考えずに自分の都合だけを考えている人は勝手に自滅して淘汰されている。

しかし、他人の事なんて考えては無いから所詮は散らかしてそのままの存在でもある。
だから、相手にしてもしょうがないし、情報を与えても駄目だし、情報を見てしまうのも駄目だ。
全く別の世界の住人だと思う。

全く違う世界の住人であれば、自由の価値観が違うのは当然である。
自分とシンパシーの合う人達と共に笑い合えばいいのだ。

風の時代が始まり3年。
過渡期の荒れた時期はもう何年かはありそうだが、必ず自分の理想の形を手に入れる事ができると思う。
争いが好きな人は、争いの渦中へ。
そして、純粋に楽しみたい人は本当に楽しめるステージへとステップして行くだろう。
それは自分を支えてくれている周りが連れて行ってくれるかもしれないし、自分で引っ張る存在になるかもしれないのだ。

人間は誰でも背中見せて逃げるのでは無く、背中で生き様を語る方がカッコよく生きれるし、自分の夢が叶っている瞬間を実感できると思う。
少なくとも自分はそう思える。

背中見せて逃げるのは武士の恥
背中見せて追わせるのが漢の道
得を探して楽しても埃しか詰まれない
徳を積んで誇りを持って生き様を見せる方がかっちょええ
怨を忘れないよりも、恩を忘れない人生のがきっと楽しい(∵)

風の時代を生きるにあたって、まずやるべき事がある。

負けを認める事だ。
自分がまず1番下の下の底辺の位置に居る意識を持つ事である。
中々プライドが高い人には難しいだろう。

そのプライドが時代と逆行している事に気付けば良いが、こうした今までの既成概念を取り外す事から始めなければ時代に置いてかれると言っても過言ではないのだ。

風の時代を知っている人は、あたかも自分にとって都合の良いシャンバラのような理想郷が到来するかのような言い方をする者もいる。
破壊や再生とは、まず破壊無くして、そこに再生は無いのだ。
今の自分が本当に正解なのかと言えば、自信を持って言えるものだろうか?

言えるのであれば、何の不安も不満も無く過ごす事ができているし、他人と比較もしなければ、他人をこき落とす事も無く、自分の虚勢を張り、自慢をするような事もしないだろう。
これだけの完璧な心持の人がこの世に存在しているのだろうか?

他者から突っつかれる部分が1ミリも無い完璧な人間が居るならば、是非とも拝みたいものだ。

「すべての結果の原因は自分にある」

プライドとは外的要因から来る、自己防衛に過ぎない。
他者からの攻撃から守る為に鎧を付けておくのだ。
やがて、その鎧に装飾を付けてしまい、装飾を自慢し出すのだ。
そして、自分の鎧の方が価値があるとマウントを取る。

しかし、その鎧を取り外せば体も軽くなり、そして無駄な装飾だらけの鎧を滑稽なものとして感じる時、心が軽くなるものだ。
プライドを信念は、全く別のものである。

とにかく卑下する訳でも自己肯定感が低い訳でも無く、『1番下の存在』の意識を持って、お勉強させてもらってると、考えておけば、苛々もしなければ、怒りもしないし、他人の目も気にならないのだ。

正直、他人はそこまで自分の事を気にしてはいない。
所詮はそんなものである。

だったら、自分らしく楽しんで今を生きた方が最高だと思えるのだ。
やりたい事をできる時にやれるだけ。

肩の力抜いて、変化を恐れずに自分のライフスタイルと、マインドを大切に生きて行こう◎

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