なぜ悲劇は繰り返されるのか?~他責思考が創る未来~ 第12章:教育環境の変化 ③-1

このように環境の変化が子供の心理を変えてしまうことや今まで経験したことがない事が起きることで子供によっては“○○さんなら反抗したり、言い負けたりしないな”という心理が芽生えることでいじめのきっかけに繋がっている場合もある。

 そして、現代においては子供たちの置かれている環境や交友関係などで将来の子供たちの価値観が決まってしまう事もある。

 特に、特定の事柄に対する価値観は幼少期から教えていかないとフラットな考え方を習慣化出来ないことや関わる人が増えていくと対応の幅が原因で混乱する要因になる事も十分に考えられるのだ。

 だからといって、かなり繊細な教養を子供などに無理矢理教えることは子供たちが成長してから“親のせい”や“先生のせい”など周囲に対して自分の行動の結果に対する責任を転嫁してしまう可能性や“こう教わったからこうしたのになんで?”という混乱を招くことや子供に対して求めることが多岐にわたることで“これは出来るけど、これは出来ない”という子供たちの力量が二分化してしまう可能性がある事を理解しておかなくてはいけない。

 以前はカリキュラムも今ほど多角化していなかったため、子供たちも学習選択をしやすい状態だったが、現在はカリキュラムが多角化していること、習わなくてはいけない内容が増えたことで子供たちの学習に対する姿勢が分散化している傾向がある。

 ただ、これだけカリキュラムを増やしたことで個人差が表れてしまい、出来る事と出来ない事、家庭で普通に出来る事とそうではないことがはっきりと分かれてしまっていることになり、そこから子供たちの“学ぶ権利”や“知る権利”などが奪われる可能性は十分に考えられるし、昨今の経済状況を考えると前日出来ていた事が早急に出来なくなる可能性も否定できない。

 そのため、子供たちの教育機会を維持できるようにしないと“なんで○○は出来て、僕・私は出来ないの?”と出来ない事にフォーカスしてしまい、そこからネガティブなイメージが払拭できず、自分の夢を諦めるもしくは我慢しなくてはいけないということになりかねない。

 そうなると、今度は出来る子たちに対して嫉妬などをしてしまうことやこれらが原因で家族不和などを引き起こし、子供が非行などに走る可能性も否定できない。

 では、これらの事態を避けるために必要な事は何だろうか?

 まず、“個別尊重型教育の定着”だ。

 これは年功序列や数的評価など昨今の個人評価における優劣判断が顕著に表れている事で子供たちが置かれている環境が常に他者比較や集団競争など自分軸ではなく他者軸でかつ既存の基準における個別評価に繋がる可能性がある。

 そのため、受験戦争など他者が絡む状況が増えていくことで自分を見失ってしまう懸念や子供たちが結果を出すことに対してフォーカスしすぎてしまうことで子供たちを逆に追い詰めてしまう懸念もあり、場合によっては“受験をするから偉い”や“受験をするから特別”などといった自分の環境に対するおごりや逆の立場の人にとっては他の人と同じ事が出来ないことは自分の責任ではなく、環境や相手のせいだという心理が芽生え、無関係の人に対して攻撃をすることや自分ができないことを第三者のせいにして自分の主張を誇示してしまうなど自分の立場を正当化し、その立場に関して頑なに守ろうとすることで自分の存在を主張したいと思うのだろう。

 そして、社会における競争が本人の心理に自責と他責を隣り合わせにさせてしまい、そこから自分のせいなのか?他人のせいなのか?の分別や基準に対する判断をすることが難しく、成長途上の人たちが上からの圧力に屈さなくてはいけない状態になるのだと感じた。

 これは私が学生の頃から強く感じてきたことだが、自分の意見を上に上げられないということは、その人が成長するために必要なチャンスなどを自然に奪っていることになる。

 これは小さいことかもしれないが、そういう小さな積み重ねがお互いを憎しみあう、責任をなすりつけ、転嫁し合う1つの社会構造を作り上げてしまうのだ。

 そして、この事が年々若年化していき、これらの課題が低年齢化する時期もまもなく訪れようとしている。

現在、小説とコラムを書いています。 コラムに関してもこれから完成している物を順次公開していく予定です。 自分の夢はこれまで書いてきた小説を実写化することです。まだまだ未熟ですが、頑張って書いていきますので、応援よろしくお願いいたします。