生きるために治療するという意味

家族の危機を、私は何も知らなかった
私が高校生の時、近親者が乳がんを患い、乳房温存切除術、放射線療法を経て現在ノルバデックスにてホルモン治療中、無事寛解期を迎えています。約9年ほど服薬を続けており、当たり前のように朝食後に1錠、毎日忘れずに飲み、がんと共に生きることが日常化してきています。
今でこそ周囲はがんであったことを忘れてしまうくらいに穏やかな日常を送っていますが、がんの告知から寛解を迎えるまでの期間は壮絶でした。
私は当時17歳。説明すれば十分理解できる年齢であり、加えて幼少期から看護師を志していました。それにも関わらず、家族の誰もが私に詳しい病状を伝えてくれませんでした。
手術をしたのは当時の2月。冬のとても寒い日で、私は担任の先生が勧めてくれたボランティア活動に参加することになっていました。クラスの友人数人と一緒に行くことになっていたので、そのうちの一人の親が車で送ってくれることになりました。

「ちょっと私は明日手術だからいないけど、michicaが帰る頃にはお父さんがいるからね」

私は乳がんであることだけを聞いており、「切れば大丈夫だからちょっと行ってくるね〜」と、すごく軽い感じで言われていたので「わかった、頑張ってね」と言い軽い感じで捉えていました。今思えばもう少し考えても良かったんじゃないかと思いますが、あまりに周りが私から病気を遠ざけようとしていたんですね。乳がんの手術の前に子宮筋腫の手術も行っていたこともあり「それと似たようなもの、最近のがんは切れば治るから有難いね」と言われていました恥ずかしながら、看護師を目指していたにも関わらず、17歳の私はそれを鵜呑みにしてボランティア活動に参加し、夕方に家に帰ると父親が「一緒にご飯作ろう」と待っていてくれました。

「手術大丈夫だった?」
「予定通り。来週には帰ってくるよ」

そう言われて安心していました。丁度テスト前であったこともあり、michicaも勉強が忙しいだろうし1週間だから面会は来なくて良いと言われ、素直に聞き入れて私は家で大人しく、家族が一人欠けた状態ではありますが、日常を過ごしていました。
そして退院の日を迎え、私はご飯を作って待っていました。手術は予定通り終わって、電話越しにも声は明るく、なにも変わっていない。普段自炊を全くしない女子高生だったので、そんな私が夕食でも作って待っていたら、これは感動するのでは?くらいに思っていました。
しかし帰ってきた時の姿はなんだかひと回り小さく感じ、覇気がなく、笑って話はするけれど、私が作ったご飯は「ありがとう」と言いながらひと口ほど食べて終わり、すぐに自室に寝に行きました。
思った以上に心身のダメージが大きかったようでした。私は聞いていた話と違うと思い父親に問いただしましたが「病院も遠かったから、疲れてるんだよ」と言い、残されたご飯を全て食べていました。
翌日、翌々日になると少しずつ元気が出てきたようで鼻歌を歌うようになりました。歌うことが大好きで、いつもは口ずさんで歌っていましたが、今日は鼻歌。今思えばらきっと傷が痛んでいたんだと。
それでも術後の経過は良好で、日に日に元気になっていく姿を見ました。放射線治療のための通院期間は午前中に仕事へ行き、午後から治療、私が帰宅する夕方には自宅にいるという生活でした。とても楽しかったです。家に帰ると家族が待っていてくれていて。真っ暗な家に帰ることが多かったため、こうして家族と過ごす時間はとても貴重で、お互いの楽しみになっていました。
そうして放射線療法も無事終わり、あとは内服と通院フォローという段階になり、私はもうすっかり「よくなった」という認識でした(もちろん再発リスクは考えていましたが、術後の経過も良く今のところはそこを考える段階ではなかったのでとても楽観的でした)。

そんなある日、2階で勉強していた私に響くくらいの大声がキッチンの方から聞こえてきました。家族が集まり、乳がんを患う近親者は肩を上下させている。私には何が起きているのか分からなかった。

「なんで真剣に聞いてくれないの、どうせ、私ががんで死んだって良いと思ってるんでしょ!」

ショックでした。家族間の仲が良く、喧嘩する姿など見たことがなかったので衝撃的な場面に出くわしました。後から聞けば、不安なこと、これからのことを父親に話したものの、臭い物に蓋状態で、あまり聞く耳を持ってくれなかったとのことです。私の父親はとても良い人間なんですが、つい逃げ癖がついてしまい、嫁姑問題にも仲介しないようなタイプでした。それが今日という日まで許されていたから、がんの話も受け止めが甘かったようで、逆鱗に触れてしまった、とのことでした。と県内でとても人気のある病院でしたので、私がまだ寝ているような朝早くの時間に検査結果を聞きに行かなくてはならない時も二人で一緒に足を運んでいたし、入退院の時もと付き添っていたし、何も問題はないと思っていましたが、抱える物は思ったより大きかったようで。
私はこの時初めて、事の重大さに気付きました。

患者は家族にすら伝えられないことがある
言えなかったんです。私には。17歳という多感な時期に、自分に生命の危機が訪れている事、今後の治療が不安なこと、お金のこと、仕事のこと。自分の中で整理して、伝える強い気持ちがないとなかなか私に告知内容を話すのは酷なことだったようです。いっぱいいっぱいでパンクしかけていました。ああだから、医療者って必要なんだなって思いました。
医療者は言わば他人、仕事で雇われ、相談に乗る。適切な処置を行ってくれる。そんな存在です。主治医の先生はとても尊敬できる、手術の上手い開業医の方で、多忙ながらも話をしっかりと向き合って聞いてくれる先生で、とても頼り甲斐があったと思います。しかし、乳がんは治療方針に選択肢がたくさんあるんですね。最善の治療はこれになるが、あとはライフスタイルに応じてご家族様でご相談くださいという流れになったようです。その家族会議が破綻した瞬間にでくわしたのがその時だったようです。
17歳の私には、何もできなかったかもしれません。でももしその話し合いに参加できていたなら、女性としての意見、ライフスタイルを考えた方針を一緒に悩めたのではないかと思います。
主治医は、非常に丁寧に的確な説明をしてくださっていました。しかし、ご多忙の中決められた時間で説明を受けることになるので、あとは次回受診までに検討してくださいという流れになります。

私はそこにアプローチできる相談窓口になりたいと思っています。
がんの宣告を受けて、最初に思い浮かべること。それは「死」です。死を身近に感じた患者はどうしても医師に助けを求めるほかなく、「先生が一番良いと思う方法でお願いします」と治療をお願いする場面が多いかと思います。
腕の良い、自信のある先生だったのでお任せして正解でした。家族も勉強して全摘か部分切除かで悩んでいましたが、先生の「今は部分切除が主流で、他の治療法と組み合わせて叩くのが一番心身共に普段が少ない」と言われていました。そのため部分的切除+放射線療法+ホルモン療法を行うことになりました。家族では結局きちんと話をできなかったようです。

生きていくのは患者自身
古いギャグではありませんが、がんを告知されるとみなさん「がーん」とショックを受けます。
そういう時って、冷静な判断が出来なくなって、命を守ることしか考えないんですよ。でも治療をするということは、その病気と付き合っていく覚悟をするという意味になります。家族は言いました。

お乳、残してよかった。最初は混乱して、よくなるのなら治療方針はなんだってよかった。結婚もしてるし、全部とった方が安心かなと思ってたけど、今思えば胸が、乳輪や乳首が残っているのは精神的に全然違うと思う。先生が再発を考えたとき、私のがんなら全摘も部分切除も変わらないと言っていたから悩んだけど、切除を勧めてくれて良かった。治療を終えた後も人生は続くから。ちょっと不格好だけどね」

治療というのは生命の危機を脱したからといって終わるものではありません。がん治療は特にそうです。がんの治療をするということは、今後の生き方を選ぶということです。だからこそ、術後の自分がどうありたいかまでを考えて手術に臨んでほしい。でも、そこまでの情報提供を、納得できるまでしくれる医療機関ばかりではありません。言い方は悪いですが、病院は患者を回していかないといけない。だから、寄り添ってあげられない場面に側にいてあげられないんですよね。そこをフォローするのが身近な家族なのかもしれませんが、それがまだ相手が子供だったり、非協力的だったりしては、患者さん自身が背負い込んでしまう可能性があります。

思い悩んでいることを口にできる場所
もしも個人、または民間で相談所があれば、第三者として情報を収集し、その患者さん自身が大切に思っていることを見出して、次回受診の時に主治医へ伝えることが明確化するかもしれない。病院の看護師が出来れば良いのですが、時間的にも非常に難しいので、外部と連携するのが一番であると思います。納得できないところを含めて整理してから、医師に伝える。それが出来れば、患者さん自身が主体的に手術に臨めるのではないでしょうか。
そうすれば病棟看護師も、受け入れて状態を把握した上で情報収集が出来ます。入院されてから、やっぱり納得できてなくて不安なんです、と言われると、正直かなり焦ります。主治医に連絡をとって、もう一度説明をして…はっきり言って二度手間です。土段場でも感情を表出してくれれば私は有り難いのですが「手間になって、先生との関係性が悪くなってもし手術に影響したらと考えたら何も言えなかった」という方もいらっしゃりました。その手間を減らすことで患者、家族、医療者全ての負担が軽減します。
私がやりたいのは、乳がんに限らず、納得して治療が受けられる支援をしていくというものです。また、私を取り巻いた環境のように、家族間での問題を軽減させられるような存在になりたいと思っています。
「お乳を残してよかった」。その言葉に私は安堵しました。部分切除の乳房は片側だけが変形し、傷口の周りはごっそりと脂肪がなくなっているような状態なので、下着も自分に合うパットを作り、工夫して使っているようです。主治医の説明が不十分なら、全摘を選んでいたかもしれない。でも、治療は切れば終わるものではありません。生きるための治療ですから、予後に関係なく、生きる時間が残されるということです。全摘が最も望ましい治療段階であればもちろん命には代えられないのでそちらを選んでいたかもしれませんが、私の家族のように選択肢を与えられる場合があります。安心感を得るそれをよりよく生きるためにはどうするべきか、メリット、デメリットを理解した上で選択するのが治療です。
先生に全てお任せするのも悪いことではありません。選択肢がある場合、どちらがいいと思いますか、と。医師は数々の症例を見てきているスペシャリストです。でも生きるのは私たち自身なのですから、今後のライフステージに応じた治療を選択しなければなりません。未婚の若年者であれば、乳房は全摘しても再建術もしたいという希望が隠れているかもしれません。再建を検討しているのであれば、形成外科と連携している施設を選択しなければなりません。また、妊娠・出産を視野に入れている場合は妊孕性も、考えなくてはなりません。未婚でなくとも、ビジュアルにこだわる方もいます。家庭があれば、姿形はどうなっても良いから、一番良いとされる治療を受けたいと思われるかもしれません。治療だって、十人十色です。
だからこそ、一緒に悩んで考えてくれる専門窓口があればお役に立てると思いませんか?
もしご賛同頂けるようであれば、ぜひお話を伺わせてください。乳がんに限らず、選択肢の幅が狭いがんであれば、術後の悩みを気軽に相談できる窓口があれば、安心して生活が送れると思いませんか。次回受診まで待っていて、考えすぎて気分が落ち込むよりも、話せる場がある方が良いとは思いませんか。
サバイバー同士での関わりが一番受け入れやすいと思いますので、座談会などに参加するのも一つの手であると思います。でも、忘れないで頂きたいのは治療は十人十色ということです。大きな病院では、このような相談に乗ってくれる存在として乳がん認定看護師という存在がいます。しかし、自分が手術する施設にそのような方がいなければ、相談先は限られてきます、メンタルケアもできる医療の専門家と話をする機会、あれば利用したいと思いませんか?電話、対面、メール、チャットなど、個人を特定されないような状態でも何でも構わないとされる環境があれば心おきなく話が出来るのではないかと思います。

納得して治療を受けて、前向きに生きていける、そんな未来を夢見て私は今日も勉強に励みたいと思います。

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