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a presto!!

"a presto”
イタリア語で「アプレスト」と読みます。
英語の "see you again" に近い意味のコトバだとなにかで知り、また会いたいと、また仕事をお願いしたいと思える人に成長していきたいという思いから、この”a presto”を僕のフリーランスで活動する屋号にしました。
実際の予定よりも早くフリーのフォトグラファーとして活動することになり、迎えた2006年は僕にとって大きな出来事が多い年でした。
フィギュアスケートとの出会いもこの年になります。


独立前の職場では、2002年にキヤノンのEOS-1Dを導入したのをきっかけに、デジカメでの撮影も年々増えてきていた。それでも、ここぞという案件では、フィルムでという指定も多く、独立後もフィルムカメラの出番は多いだろうと思っていた。(フィルムのサイズ違いでカメラ4種類+デジカメを独立した際揃えました)

ところが、2006年になると僕への発注は、圧倒的にデジカメの割合が増えていく。売上のベースになると考えていた”ホットペッパー仙台版”も同様だった。

トリノ五輪でフィギュアスケートの荒川さんが金メダルを獲得した頃の2月、リクルート仙台支社に呼ばれる。
本社から提示されたのはデジタル移行に伴う大幅なギャラの減額。フィルム撮影では1枚単価での計算だったのが、デジタルに移行すると1日で何点撮影しても、日給15,000円。正直耳を疑った。単純に2週間稼働で計算すると、今までの1/3になる金額だった。

改めて社会の厳しさを痛感させられた。
本社からの面識のない担当者は、もちろん継続してくれますよね的な感じだったが、完全にこちらの足下を見てる気がした。
「バカにするなよ」と思った。

長く付き合いのあった仙台支社の編集部の方には申し訳ないと思ったが、今後毎月2週間この金額で拘束されてはフリーになった意味がない。

4月以降のカレンダーが白紙になった。
5月にはデザイナーと共同で事務所を構える予定だった。家賃は折半で約12万。(これはヤバイな〜、家賃払えるかな〜と不安だらけでした)

ところが、今まで優先的に予定が埋まっていた2週間でお断りしていた案件を受注できるようになると、売上の不安は一掃された。
アシスタントとしてこの世界に入ってから本当に周りの人には恵まれていたなと思う。

独立前は飲食店などの取材撮影の比率が多かったが、4月以降は広告代理店からの案件の割合が増えていった。絶対に失敗できないというプレッシャーは、フリーランスになってからの方が圧倒的に大きかった。それ以上に自分指名で入ってくる撮影で得られるやりがいは大きく、毎日が楽しかった。
(あれだけ大学卒業後にこの仕事に対して反対だった親にも、「これ撮影したよ」と報告できるのが嬉しかったです。)

そしてこの年の9月、今の僕の礎となるフィギュアスケートと出会った。
この年のトリノ五輪で金メダルを獲得した、荒川さんの凱旋アイスショーが行われ、そこでアメリカ人スケーターとの対談とポートレートの撮影の仕事が入ってきた。

会場に着いて予定の時間になるも対談は始まらず、まさかの中止に。
現場にいるのに撮影ができないという...(この時は「ありえね〜」って思いました。)
それでもショー自体を撮影できるパスをもらって会場に入っていたため、アイスショーを撮りませんかという流れに。
当時はスポーツを撮った経験もなく、離れた場所から写せる望遠レンズも持ってなかった。そのまま帰ることもできたが、せっかくだからとスポーツフォトグラファーにまじって、フォトポジションから撮影した。

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Canon EOS5D (EF70-200 F2.8L|f4, 1/1600, ISO3200)
2006.09.15 Campions on Ice 仙台公演

昔のHDからこの時の写真を発見しました。このレンズではこの大きさで撮るのが目一杯でした。

ご覧の通り、引きの写真しか撮れない状況だったが、荒川さんの演技後に自然と起きたスタンディングオベーションを見て衝撃を受けた。アンコールで滑った「トゥーランドット」を生で観て(カメラ構えず肉眼です)震えた。こんな世界があるのかと、テレビでしか見たことのなかったフィギュアスケートに、荒川さんの演技に魅了された。
また機会があればフィギュアスケートを撮影したいと強く想った。


このときフィギュアスケートというスポーツに触れたことで、僕のフォトグラファーとしての人生は大きく変わるきっかけになりました。翌07年、イタリア・クールマイヨールでのフィギュアスケートの日本代表合宿に同行し撮影することで、さらにのめり込んでいくことになります。

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