露天風呂で一人空を見上げて思ったこと#414

函館の啄木亭の湯上がり。彼女の湯上がりの待ち時間でこの日記を書いています。

10分というあまりにも短い時間で露天風呂を堪能し、「あぁ、いまの気持ちをそのままどこかに記したい」と思い、今日はnoteを開きました。


今日のテーマは「スマホを触らない時間がいかに長く感じるか?日常生活がいかにデジタルデバイスに支配されているか?」について。


きっかけ

今日から明日にかけて、彼女と一泊二日の箱館旅行です。彼女の大学卒業祝いと国家資格合格祝いを兼ねてのわずかな幸せの時間がです。

今朝から、レンタカーを借りて函館来るまでにたくさんの美味しいごはんを食べ、たわいもない話を積み上げて、函館の啄木亭まで来ました。

そして、今一人の時間。この楽しい旅行の中で一人露天風呂に入って「あぁ、なんて幸せな時間なんだ、、」と思うと同時に「あぁ、こんな幸せひとときを“今ここで”共有できないなんて、こんな不憫なことはあるたろうか」ということを考えていました。

つまり、スマホなどがない居心地がよくて長く感じる時間を過ごすと同時に、スマホがないことによってこの心地良い感想をすぐにだれとも共有できないことに虚無感を感じたのです。

なんと、逆説的で贅沢なことでしょうか。


2つの理想を追い求めてる

私はこのことから、実は自分は2つの理想を追い求めてることに気付きました。

1つはリラックスできる時間が死ぬほど好きだということ。

もう1つは、幸せな時間は一人ではなく誰かと共有しないではいられないということです。


前者はきっと、心の底では誰もが願っていることだし、きっと皆が共感して貰えるのだと思います。

しかし、後者については、さながら自分は「現代っ子だなぁ」とか、「寂しがり屋で承認欲求高めのガキ」に他ならない。と思ってしまったのです。

つまり、幸せな時間を一人で満喫できるならそれに越したことはない。しかし、その「幸せだ」と思う現実をほかに自慢したいと思ってしまう。

まるで、リア充マウントを取る若者のように。(若者に違いはないのだが笑)


SNSの発展と共に育った、このデジタルネイティブと呼ばれる今の20代には共感できるところがあるのではないでしょうか?

私は自分はそうではない。ただ、「好きな人と小さな幸せを共有できればそれで満足だ」と思い込んでました。

しかし、そうではなかったらしい。

自分もれっきとした、デジタルネイティブであり、承認欲求を満たさないではいられないただの小僧であったようだ。


だからどうするか

承認欲求が強い人は良くないのか?

きっとそれ自体は違うと断言できる。

しかし、承認欲求をむき出しにして、あたかもマウントをとって、「私の方が幸せだ」とアピールすることが、少し問題を生む可能性がある。

だから、自分のことを「ガキ」だとか「小僧」という表現を使った。(他人のことではなくです)

幸せマウントを取ったところで得することは全く無い。せいぜいその満たされない個人の心が少しか回復する程度。

他人に対して、プラスの影響を与えることはないだろう。

なので、幸せマウントに限って言えば、「勝手に言ってろ」って感じでしょう。


結論

風呂上がりに何のもやもやがあって、筆を取ったかと思えば、ただの自己批判でした。

しかし、自分が何をどう感じ、それに対してなぜそう思うのか、とかnoteに吐き出すことによってかなりあのもやもやがスッキリしました。

だからどうするのか?という答えはもしかしたらでなかったのかもしれないですが、想いをカタチにしたのが重要だったのです。

と、彼女がもどってきたので、ここまで。

最後までお読み頂きありがとうございました。

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