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豊後の王 大友宗麟

海外よりキリスト教を招いたのは大友氏が統治した豊後国より更に南に位置する島津氏が治める薩摩国であったが大友宗麟は更に隣国である明に遣明船を使わして貿易を行うだけでなく、琉球、ポルトガル、カンボジアを相手に貿易を行い莫大な資産を生み巧みな交渉術、戦略、を持って毛利や大内といった戦国強敵大名達と対等以上に渡り合っていた最盛期には九州6カ国を制圧した九州の王として君臨したのが大友宗麟という武将である。

そもそも大友氏自体が鎌倉時代、将軍 源頼朝の命で九州へ移動した幕府の御家人の一つ家に過ぎなかったがこの頃から少弐家、島津家を束ねる長的存在の家が大友家であった。
その20代の大友宗麟までが時の幕府をのらりくらりと交わす外交力があったのは最早、一族の遺伝子レベルの才能と言わざる負えないであろう。
1551年に大内氏が家臣の陶隆房の謀叛に遭い自害すると大内氏が使用していた日本国王印を使って遣明船という大友氏、独自の貿易船で自分こそが日本国の王として貿易をし莫大な財を成した…
一説によれば織田信長は晩年、天皇家を滅ぼし我こそが日本の国王としようと企んでいたというそんな企てが立てられようとする何十年も前に既に九州の地で我こそが日本国の国王と天皇や朝廷を差し置いて堂々と胸を張って海外と貿易していたのだというのだから、その実行力と実力は後に天下人になって行った三英傑よりも圧倒的である。

          日本国内での立場確立と版図拡大


日本国王を勝手に名乗って貿易していたとはいえ、国内に敵がいたらガラ空きになった背を向けて刃を突き立てられては大内の二の舞、、、
そこは流石の大友宗麟、外の顔を作りつつ国内の足利将軍家に対しての取りなし図らいも十分していたのである。
大友宗麟は九州の大友氏による覇権を更に公式的にも九州は大友のものであるという印象も強めるべく足利幕府に大して多大な献金活動を行い鎮西管領としての立場を確固たるものとしたのである。
国主の自害により大友に支配されていった大内氏が決して弱かったわけではない、大内氏もかつて鎮西管領だった渋川義長を攻め滅亡に追いやり周防こそが西の京の都と世に言わしめるまでに九州での覇権を勝ち得て行ったほどの家である。
それが、大友宗麟は大内氏が成し得なかった中国大陸との国交に止まらず更に先のカンボジア、ポルトガルといったキリスト教すらとり込む軍事力と財を成した、流石の大内家といえど朝廷や足利将軍家といえど、既に大友宗麟に波を唱えるまでの発言力はなかったに違いない…
この時代のキリスト教は奴隷を推奨し軍事力で他国を支配し海外のあらゆる一族を奴隷化して行くのが当たり前になっていた…
大友宗麟もキリスト教の教えに酔心したというよりはその持て余すほどの軍事力を欲したからであろう。

この宗麟の大友家に脈々と受け継がれる外交力、戦略は憎しみが渦巻く徳川幕府幕末、明治維新に宗麟の子孫が果敢なく発揮していくのである。
彼の名は西郷隆盛…そう、大友宗麟の子孫であり、生まれ変わりであろう。


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三重県伊賀市上野丸之内28 ラフォーレビル2階
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担当 中村宙史
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