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『チーかま』

『チーかま』【超短編小説 084】

俺の母はひどい親だった。
人としても、最低な人間だった。

母は自分の事をゴッホやピカソの生まれ変わりだと信じていた。
昼間はアトリエに籠り、永遠に完成しない何かを描いていたが、
日没と共に近所のスナックやバーに、毎日通っていた。
そしていつも朝帰り。
俺が中学生の時、学校に行く途中、道端で寝ていた母を発見して家まで運んだ時もあった。

父は、俺が小学校低学年の時に家を出ていった。
度重なる母の浮気と浮気相手の赤ちゃんを内緒で中絶していたことが原因だった。俺は父のことは、今も昔も好きだ。母とふたりで暮らすことを決断した俺をいつも応援してくれたし、別れた後も母と自分を見捨てることはしなかった。

父からの十分な生活費の仕送りで、母と僕は何の不自由も無く暮らせるはずだったが、母の酒代と煙草代と絵具代のせいで月末はいつも苦しかった。だから俺は近所の中華屋と新聞配達で働いて、家計を支えていた。
母は、家計の事などには全く関心が無く、お金が無くても平気でスナックにツケで飲みに行っていた。お店の大人たちは子供だった俺をよく心配してくれて、おにぎりやおかずを母に持たせてくれた。

食事はひとりで食べることが多かったが、母とふたりで食べる時には、会話は無く、ラジオをかけながら静かに食べていた。普段だらしない母なのに食事のマナーや食べ方にはうるさくて、「箸のおき方が違う」「食事中に音をたてるな」「食べる順序が悪い」「噛む回数が少ない」など細かい注意が飛んでくるので俺はいつも緊張して食べていた。

そんな静かで緊張感が漂っていたふたりの食卓が明るくなった時が一回だけある。それは前日にスナックのママが母に待たせてくれた”チーズ入りかまぼこ”を食べた時だった。ふたりとも”チーズ入りかまぼこ”を食べたことが無くて、ソーセージの類のものだと思いながら食べてみたら、すごい美味しくて、初めて同時にふたりのテンションが上がった。

「これ、おいしい」俺が思わず口から洩れるようにつぶやくと、

母も「おいしい」と”チーズ入りかまぼこ”をみつめながら言った。

「これすごい美味しいね、好きかも」と俺

「わたしも、これ好きだわ、”チーかま”発明した人、天才」と母

「おいしいねっ」と顔を見合わせて笑顔のふたり

2本ずつ食べて残り1本。「どうする」という母の問いに、「じゃんけん?」と答える俺。結局、俺が包丁で二つに切って分けて食べた。
半分の”チーかま”を母に渡したときに、母は笑顔で「ありがとう」と言ってくれた。母が可愛く見えた最初で最後の瞬間だった。

毎日食事の用意をしても、
酔いつぶれた母の介抱をしても、
父に付いていかずに母との暮らしを選んだ時も、
聞くことのなかった母の「ありがとう」という言葉。
おそらく母は痛いくらい純粋な人だったのだ、自分の感性が全てで誰にも染まらなかった。だから良くも悪くも母が嘘をついている姿を見たことは無い。

俺が中学生になるとしだいに、母とはすれ違いの生活になる。
高校を卒業して、就職をする頃には、まともな会話は年に数回しかなく、
家事は全て俺がやっていたが、夜と早朝しか家にいなかった。母は相変わらずだった。

俺が社会人になって三年目、別れは突然やってきた。
残業でまだ会社にいた夜の9時過ぎに、母の行きつけのスナックのママからの着信があり、出てみると「母が脳卒中で病院に運ばれた」とのことだった。病院へ急いで駆け付けたが、意識不明の母は手遅れだったらしくあと数時間で心肺停止になると告げられ、俺はそのまま母と病室で数時間を一緒に過ごす。

幼い頃に握った記憶しかない母の手は温かく小さい。
握りしめたまま心の中で何度も何度も、母を呼ぶ。
動かない母を目の前にしても実感がわかない。
弱まり不安定になる心電図。
もっと母と話をする時間を持てばよかった。
目を覚ましてほしいという念いを込めて力いっぱい母の手を握った。


ひとりで母を看取り、家に帰るタクシーの中で父にメールを送ると、夜中なのにも関わらず、俺を気遣うメールが返信されてきた。相変わらず父は真面目で優しい。

家に着いて靴を脱ぐ。昨日と何も変わらない空気。
「母さん、さっき死んだよ」
冷たい部屋に向かって言ってみるが、家具も食器もカーテンも動かない。
ただただ、しっかりと自分の役目を担っている。
まるで父みたいだ。

水を一杯飲むために台所へ行くと、母が買い物をした形跡があった。母が自分で買うものと言えば酒か煙草なのだが、今日はいつもと違うスーパーの袋がテーブルの上に雑に丸まっている。周りを見渡してみてもビールの空き缶があるだけ。母が買った「物」の行方を捜すように俺は冷蔵庫を開けた。

すると冷蔵庫の真ん中に”チーかま”があった。
こんなことは初めてだった。「なんで?」
俺は、5本入りの”チーかま”をしばらく眺めていた。
冷蔵庫の「ジー」という運転音がいつもより遠くに聞こえる。

母もあの日のことを憶えていたのだろうか。
俺と一緒に食べるために買ってきてくれたのだろうか。
ただの気まぐれな買い物だったのだろうか。
母が生きていれば、「後で聞けばいいや」と、たいした問題ではなかったけれど、もう聞くことは出来ない。

唐突に胸の奥が締め付けられて息苦しくなる
ようやく捻り出した嗚咽が、今度は止まらない
その場でしゃがみ込み、こぶしで目頭を押さえこむが溢れ出てくる涙
こんなに苦しくなるなんて思っていなかった
こんなに悲しいなんて思っていなかった
頭の中で同じ記憶が繰り返す、「ありがとう」と言っている母の姿

夜中の3時を回っていたことと、泣き疲れたせいで、俺は冷蔵庫の前で寝てしまった。手には”チーかま”を握っていた。母と俺はちゃんと繋がっていた。

台所の格子窓から朝の光が入ってきていた。
眩しくて目が覚めた。体中が痛い。
否応なしに時間は流れる。広い世間からすれば「母の死」は、まるで「昨日」と「今日」の間違い探しの答えの中の一つのようなものなのだろう。
俺にとっては体の一部を無くしたような気分なのに。

俺の母はひどい親だった。
人としても、最低な人間だった。
でも、俺は母を愛していた。


あれから1年、俺は母にあることを伝えるために墓前までやってきた。
「母さん、そっちの世界でピカソやゴッホと酒を飲んで楽しんでいますか?
あと、俺と母さんが好きだった”チーかま”のことだけれど、冷蔵庫に入れないで、常温保存でいいんだって。俺は冷やして食べたい方だから冷蔵庫に入れるけれどね。」

それだけ伝えて、俺は墓前に缶ビールと”チーかま”を置いて、自分も”チーかま”を1本食べた。

「ありがとう」と笑顔で母が言っている。

チーかまを食べる女性01

《最後まで読んで下さり有難うございます。》

僕の行動原理はネガティブなものが多く、だからアウトプットする物も暗いものが多いいです。それでも「いいね」やコメントを頂けるだけで幸せです。力になります。本当に有難うございます。