ライターとして生きていくこと

こんなにも文章が好きなのに、ライターへの進みを試みたことはあれど道半ばでやめていた。

5年ほど前に実際に仕事としてやってみた。
世の中が期待すること、編集者の好みで大幅に文章が編集されていくことに耐えかねた。

自分がもっとも伝えたい大切な言葉たちがすべて消されたとき、自分が伝えたいことではなく、人が読みたいことを書くのが正しいのだと勉強させられるのだった。

それではエッセイを書けばいいと思ったが、何者でもない名もなき人間のエッセイなど誰も読もうとしない。あまりに興味が惹かれるエッセイを縦横無尽に書き下ろすならまだしも、エッセイを書くなら何かしらで実績を積み、何者かになってから書くのが常套手段である。

書きたいことを書きたいだけ書くには、自分自身が評価される必要がある。
何にせよまずはそこからなのだ。

しかし評価を求める時点で暗黒の社会に巻き込まれる気がして、恐れしかなかった。自分から飛び込む勇気のなかった私は、ライターとしての道を選択肢から外した。

淡々と書きたい時に書きたいことを書き、偶然にも私が落とした文章を見つけてくれる人が読んでくれたら、それでいいではないかと納得させた。

ところが最近になって文章を書くことを仕事にすることがどれだけ素晴らしいか身に染みてわかる出来事が連なり、自分の心の奥にしまった「文章で食べていく」という夢が、目標が、希望が、見え隠れしてしまったのだ。

文章で人を動かす世界を知ったのは2017年ごろだった。
自分で始めたサービスのランディングページを書いていて、最初はゼロだった申込者が、内容を変えてみると次々と増えたのだ。

おもしろい世界と思った。
読むのは好きだったが、書くことに興味が湧いた瞬間だった。
それはサービスを売るためのいわゆるセールスライティングでだったが、別の役割の文章でも人を動かすことができた。

それは、具象としては「泣く」ことだ。
人を泣かせる文章を書くとき、私の魂は大いに震えている。あるいは、実際に泣いている。文章には想いを届ける力があるのだと知った。

文章の奥深さに魅了された私は、勉強のため天狼院という本屋が展開するライティング講座に参加してみることにした。

ライティングの勉強をしたところでライターとして飯が食えるなんて思わない。営業の研修を受けても物が売れないのと同じだ。

しかし、最初の一歩である型は必要と思った。
ただ書きたいことを書くやりかたから、どんな文章なら読者に読んでもらえる可能性が高まるかを知りたかった。

ここで天狼院の評価を上げるつもりはないのだが、一緒に学んでいる数十名の参加者の文章が回を追うごとに成長するのを見て、すぐに使える技術のシンプルさと再現性の高さを思い知ることになった。
講座期間の終了後、SNSで繋がる友人に「なんか文章が変わった。流れるようで読みやすい」と言われるようになったのを覚えている。

文章には型があり、方法があり、再現性がある。ということは、誰でもつくれる文章になる。と、思う人もいるかもしれない。

残念ながらそうはいかない。
答えは簡単だ。
私たちが人間だからだ。

人間は、同じことを続けることができない。
そんなに優秀につくられてはいない。
部分に矛盾をはらみ、部分が蓄積して、やがて全体になる。

どれだけ軍隊や機械のまねごとをしようと、私たち個人は、同じ型を持っていたとしても別物になる。

細胞の一つひとつが同じなわけがない。
私たちを動かしているのは細胞なのだから、その結果として記された文字たちが、他者が書いたそれと同じになるわけがないのだ。

あるイベントに行くと、数人は必ずどこかしらに文章を書く。その文章に、同じものがあっただろうか?おそらくないだろう。

ただし型にこだわりすぎて整えようとすると、誰でも書けそうな文章になることは想像がつく。たしかに綺麗な文章なのだけど読む気が起きないものに出会ったことがある人は少なくないはずだ。

人間だからこそ不器用に書くのがいい。
それが自然体なのである。

ライターは整った文章を書く。
プロだからだ。

ではやはり、私はライターになれないのだろうか。そこはあまり心配していない。

そもそも整った文章を書けない、だらだらとまとまりのない文章を書く自分としてそのまま書き続ける。

私が勉強しようとしているのは、ある事象に対する表現をいかにするかだ。語彙力を増やすこともあるし、ダイナミックに印象が残る書き方について工夫することも必要だ。

朝起きた。
まだ眠い。
布団は気持ちいい。

そんな文章を、

今日も目覚めた。
心地よい朝だ。
ありがとう。

そんな風にしてみると、この人間が普段、どんな心意気で生きているかなんとなく見えるのではないだろうか。

ライターへの目覚めのきっかけとなったのは、先日スタンドエフエムで一緒に5月の振り返りをした、大野幸子氏とあべなるみ氏のイベントである。

https://note.com/notist_life/n/n550d666a3ab7

https://note.com/notist_life/n/nd24dc0f45ce8

らしさを発揮し自分の能力を最大にして発揮した場というのは凄まじいエネルギーを放つ。
絵を見て涙するのは、作者のエネルギーに触れるからだろう。

私は幸か不幸か、昔から相手から受ける波動を感じやすかった。世間ではそれを繊細とか敏感と片付ける。人間にはもともと、危険から逃れるためのセンサーが発達しているのだから、そのまま引き継いでいる人がいてもおかしくないだろう。

もどかしいのは、瞬時に感じた鳥肌が立つような躍動を、そのまま文章にすることが難しいということだ。

感動量は受け取れる受容体に比例する。
そのことがわかっているので、せっかく受け取った感動を文字に起こせないのが悔しくてたまらなかったのである。

なんて未熟なんだろうと思った。
自分が好きで、得意で、経験も積んでいる分野で、ある事象を表現できないなんて。

まだ見ぬ感動を受け取ったとき、再び文章にする際は今の自分を超えていなければならない。そうやってたくさんの感動を受け取りながら、書き手として成長しなくてはいけない。心底思った。

別に時間がかかるかからないは関係ない。この人生をかけてやりたいことができたのである。そんな幸せをないがしろにできるわけがない。

指示を出せば1分もかからずそれなりの文章が生まれてしまうこの時代で、自分にしか書けないものを見出していくことのロマンを理解できるだろうか。

人に伝えられることが、これまでよりずっと尊くなっている。何を伝えたいのか、なぜ自分なのか、読者は何を期待しているのか。

ライターという仕事を見つめなおし、また新たに向き合っていきたい。

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